第10話




本作品には以下の傾向を含みます。

SF設定/密室/飼育/(捉えようによっては)獣姦

   

ゆっくりとドアを開ける。 あの日と同じ、彼女の気配のない、殺風景なリビング。 呼びかけようとする声は喉の奥で消える。 どのような返事が返ってくるのか――どんな声であれ、彼女ならばそれでいいと思う反面、この数か月の記憶の断片が――胸を締め付けてくる。 あの日は寝室にいた――では、今日は? 何故か足音を忍ばせながら歩く。 開けっ放しのドアの向こう、右手にはクローゼットが、そして左手の窓の傍には。 締め切ったカーテンの隙間から夕方の陽の光が差し込み、ぐしゃぐしゃに丸められたベッドの上のシーツに複雑な模様を作り出している。 その縁に手を伸ばし――思い切って引き剥がした。 「――マヤ!」 「ぅ……」 彼女はいた。 あの日と寸分違わぬ姿勢で。 但し、丸めた背中は小刻みに震え、長い黒髪の中に顔を隠すようにして縮こまっていた。 「大丈夫か!?どこも怪我してないか?」 俺はベッドの縁に腰を降ろし、震えそうになる指を何とか動かしてその髪を掻き上げた。 マヤは恐る恐る顔を上げ――恐怖で真っ白になった顔を上げ、ぽつんと呟いた。 「速水さん……おかえりなさい――」 夢じゃない、幻でもない。 明らかに今、この腕の中に彼女がいる。 恐怖と緊張が一瞬緩み、思わず深い溜息をついた。 そのまま肩のうしろに腕を回し、抱すくめる。 「怪我、してないな?」 「うん……ちょっとだけ、手、踏まれちゃったけど。大丈夫」 「……見せてみろ」 膝の上にもたれかけさせながら、シャツの中に埋もれた右手を引き出す。 やや赤くなってはいたが、確かに大したことはなさそうだった。 いつも温かい彼女の指先が、氷のように冷たくなっているのに胸が痛んだ。 俺以外の人間、それも全く見知らぬ男の侵入は、彼女にどれ程の恐怖を与えたことだろう。 「怖い思いをさせてすまなかった――もう、二度とないから。大丈夫だ」 安心させてやるように抱き抱えると、マヤもぐりぐりと顔を擦り付ける様にくっついてきた。 このままこうして腕の中で、隠し通してしまえたら―― 何度となく髪を撫で、背中を撫でている間に。 マヤの身体から怯えによる緊張が少しずつ解かれてゆき、呼吸が落ち着いてきた。 俺はそのままベッドの上に横たわり――胸の上に彼女を抱いたまま、白い天井を見上げながら、放棄する訳にはいかない思考に集中する努力を始めた。 彼女とこうしている時はいつでも、先の事など考えたくなくて…… ただその温かさが永遠に続けばいいと、有り得ない程甘ったるい感情に支配されてしまう。 ――だけど。 立ち合わなければならない現実はすぐ傍に迫っている。 義父の思惑、彼女の「真実」、そして俺自身の決断は。 「マヤ」 「ん……?」 半分眠りかけたような、円い声。 苦笑しながら、抱き起す。 「君は一体、何なんだろうな、本当に」 「――?」 黒い瞳の中に、俺の顔が映り込む。 その得体の知れない不安を宥めるように、マヤはそっと背筋を伸ばし、額にキスしてくる。 それから鼻先に軽く……顎の先にも触れるようにして…… 最後にやってきた唇を、人差し指で軽く止める。 「前に君自身が俺に聞いてきたよな、自分は俺の何なのか、と。  あの時俺はまだ君は愛玩動物に過ぎない、と言ったが――」 今の彼女は…… 言葉も覚え、冗談も言えば拗ねて怒ってみせたりもする、テレビが何より大好きで、気が向いた時には馴染みない言葉が並ぶような近代文学も読みこなすことの出来る、その癖手先が不器用で未だふとした拍子に「にゃあ」と鳴いてしまうこの子は――それでもやはり動物、ペット、に過ぎないのだろうのか? いや、それは違う。 じゃあ、愛する「女性」だとでもいうのか? それに対しても肯定できない――否定もできない、あの時も、今も。 俺の指先はたちまち彼女の口の中に含まれる。 睫を伏せ、ちろちろと緩慢に舐めている。 空いた方の手を上着のポケットに差し入れ、先程侵入者から奪い取ったデジカメを取り出した。 そのまま、適当にシャッターを押す。 マヤは僅かに目を瞬き、尚も舐めている。 「これ、誰だ」 撮ったばかりの画面をその目の前にかざしてみる。 彼女はちょっとだけ目線を上げて、事もなげに答える。 「マヤ、だよ?」 「だよな――」 笑っていいのか、それとも。 画面には、小さな黒猫が飼い主の指を懸命に舐めている、愛らしい画像がくっきりと映り込んでいる。 抱きしめる身体の重みや厚さ、指を擦りぬけてゆく黒髪の冷たさ。 俺の皮膚一枚を介して伝わってくる感覚は、そうした少女の確かな存在の証に間違いないはずなのに。 「マヤ……少しだけ、一人で留守番できるか?」 「少し?」 「ああ、少しだけだ。一時間以内に必ず戻るから――帰ったら、出かけよう」 「お出かけ?マヤと?」 マヤはぱっと身体を離すと、さも吃驚したように目を丸くした。 俺は黙ったまま彼女の脇に手を差し伸べて自分の膝の上から降ろした。 何の問題もなく、ほっそりとした両脚で彼女は俺の目の前に立ってみせた。 「約束しただろ?歩けるようになったら、一緒に散歩しようって」 彼女の手を引いて窓の傍に立つ。 この数か月、ほとんど全開したことのなかったカーテンを勢いよく開いた。 たちまちのうちに、夕陽に室内を覆い尽くされる。 窓を開けると、やや生暖かい風がさあっと吹き抜けていった。 いつの間にか季節は十月の半ばを過ぎていて、その日は秋にしてはやや汗ばむ位の湿度だった。 「……うれしいな」 風に髪をなびかせながら、マヤは眼を細めて微笑む。 窓の外に広がる東京を眺めているようでいて、何も見てはいないような気もした。 生き生きと輝く瞳が何を想い、何を考えているのかは――俺自身の心に問いかけなければわからないような気もする。 彼女は猫でも人間でもなく、マヤ自身として俺の心の中だけに棲む少女なのだ―― 「じゃあ、待ってる。マヤ、待ってるから――早く帰ってきてね?」 俺はただ柔らかく微笑返すと、肘の辺りでつんと上を向いた桜色の唇にキスをした。

義父の用件は確かに手短に済まされた。 「まさか、本当に猫だったとはな」 この数か月の“気紛れ”についてはそう軽く触れただけで、特に追求されるでもなく。 予想通り、鷹宮との縁談についての詳細が示され、有無をいわさぬその完璧なプランに否定の挟まる余地はなかった。 大都グループ全体の利益を考慮しても、俺自身、いや、義父が得るであろう利益を考慮しても、文句の付けようがない。 俺はただ軽く肩を竦め、僕なんかには勿体ない程の話ですね、少々鬱陶しい、と思ってしまうのは否めませんが――と笑ってみせただけだった。 「ふん、これまでこの手の話にとんと無頓着だった割にはやけに聞き分けがいいな。  何か思惑でもあるか?」 彼にしては珍しいような柔らかな笑みを浮かべながらの言葉にも、 「別に。相手方が猫を極端に毛嫌いしなければそれで結構ですよ」 とだけ答え、出てゆく前についでのように付け加えた。 「ただ――僕があまり信用ならないとお考えなのはあちらもその様ですよ。  興信所を使って来られた様です。義父さんは誰を使いましたか?」 義父は何でもないように鼻を鳴らしただけだった。 そのまま、静かに扉を閉めて出た――もう二度とは戻らないであろう、その部屋を。 自分でもちょっと意外な程に心は凪いでいる。 ただ彼女と共に夕方の風を感じながら歩いてゆきたいと、その事だけで心は満たされている。 部屋に戻ってみると、今度はいつもの通り、全身で喜びを表しながら彼女が飛んできた。 流石に外に出るのにシャツ一枚は不都合だろうと、いつか用意していた服を着せてやる。 少々驚いた様子だったが、外に出る、というこれまでなかった出来事に相当興奮していたのか、マヤは大人しく着替えに従った。 薄手の白いワンピースは、彼女の黒髪と白い肌によく映えた。 玄関口で時計を確認した時、時刻は五時半を回ろうとしていた。 ふと――ちょっとした情報と記憶を付き合わせ、思い付きの割にはよさそうな散歩コースが思い浮かぶ。 きっと喜んでくれるだろう、という確信があった。 「じゃあマヤ、行こうか」 手を差し伸べると、着慣れないスカートの裾を弄っていたマヤは顔を上げて、にっこりと微笑んだ。 俺たちは手を取り、夕暮れに沈みかけた街へ向かって歩き出した。 「うわぁ――ニンゲン、沢山!!猫の付け入る隙もないね」 「……変な台詞回しをするんじゃない。面白いだろ?」 「うん!何だかワクワクする!!皆ナニしてるの?あれなあに?」 マヤは好奇心を抑えきれず、次から次へと様々な質問を飛ばしてきた。 マンションを徒歩で出発し、幾つか電車を乗り継いだ後、俺たちはビルの狭間にぽっかりと空いたような緑の空間――某神社の縁日に繰り出していた。 然程郊外にまで繰り出さなくとも、未だに東京にはこうした下町情緒を残す風景が数多く残っている。 が、俺自身もこうした場をあてもなく歩き回るのはほんの幼い子供の頃以来だった。 スピーカーから流れてくる軽快な音楽、さざめく笑い声、屋台から流れてくる甘ったるい醤油の匂いや、ものをねだる子供の泣き声――そしてそれを戒める母親の声。 過去の俺にもあったかもしれない記憶の残像があちらこちらに散りばめられている、その中をマヤと軽く手を繋いで歩いているのは、やはりどこか現実離れしたような感覚だった。 「ほら、りんご飴。賭けてもいいが、君の好物だろう」 「うにゃぁあ!!でっ、でもいいの?甘いの虫歯になるからダメだって……」 「涎垂らしてるくせに――今日は特別。何でも好きなものをどうぞ」 「ええ!?……何だか速水さん、怪しいなあ。  後でまたヘンな約束、いっぱいしたりする?」 上目遣いに見上げながらも、甘い飴の匂いにつられて頬は緩みっぱなしだ。 唇に押し付けるようにして手渡すと、満面の笑みで舐め始めた。 それからほんの僅かの間に、俺と彼女の両手は様々な食べ物や雑貨でいっぱいになった。 たこ焼き、焼きそば、イカ焼き、綿菓子、クレープ、たい焼き、お面、水風船、射的の景品、金魚――掬いの途中で妙な目つきになってきた彼女の気配に気づき、さんざ散財した割にそそくさと去ってゆく俺たちを見て店主は訝しげに首を傾げていた。 「危ない所だった――食べようとしてただろ」 「ぎゃ!もうマヤそういうのスキじゃないもん。  逃げるのが面白いからちょっと……触ってみたいかなあって」 「猫に金魚掬いは禁物だな――喉乾いてないか?」 「うーん、じゃあミルク……」 「ないない――ちょっと待て、ナタ・デ・ココ?まだ売ってるんだな。  ミルクの代わりにコレにしておけ」 ふと覗き込んだ屋台の店先で、かつて一世を風靡した飲み物を発見し、彼女の為に一本。 俺自身はちょっと考えてから缶ビールにする。屋台の焼きそばときたらコレだろう、多分。 代金を支払っていると、屋台の店主の娘だろうか、小さな女の子が外へと出てきた。 「わあ、かわいい。かわいいにゃんこね、ママぁ?」 「あらホント。白いリボンがかわいいねえ。お客さんの猫ちゃんですか?」 愛想よく笑いかける店主に、俺も愛想よく微笑んでみせた。 マヤは小さく蹲ったまま、ニコニコと女の子に頭を撫でられている。 俺の目には、白いワンピースを着た少女が中腰になって小さな子に頭を撫でられているようにしか見えないのだが。 きっとその子は小さな子猫の頭を抱きかかえるようにして撫でているのだろう―― 買い込んだ食べ物を何とかすべく、ベンチのようなものがないかと周囲を見渡そた。 だが生憎、空いた席が見当たらない。 と、縁日の会場になっている境内の裏手側に大きな池があったのを思い出し、マヤの手を引きながら人ごみをかきわけた。 昔と変わることなく、池はそこにあった。 思った以上に広く、水面はびっしりと枯れかけの蓮の葉に覆われている。 水の色からしてかなりの深さだろうと見当をつけた。 池の縁の草むらを掻き分けながら歩くと、腐りかけた木の長椅子が見つかった。 今や人のさざめきも遠くに、辺りには誰もいない。 「あっ、イカ焼き全部食べたな?いつの間に――」 「えへへ。でもまだ焼きそばとたこ焼きは残ってるよ?   熱いから、さめるの待ってるの」 缶の蓋を何とか自力で開くと、マヤはさも美味しそうに喉を鳴らして飲んだ。 口の周りが白い輪になったのを、指先で拭い去ってやる。 陽はその間にもどんどんと暮れてゆき、辺りの空気は紫色の度合いを濃くしていった。 流石に肌寒くなったのか、隣にちょこんと腰かけていたマヤが擦り寄ってくる。 相変わらず、うっとりする程温かくて心地良く、俺は場所も構わずいつものように膝の中に彼女を抱きかかえて座りなおした。 「速水さん」 「ん?」 「ソレ――おいしい?おうちでも時々飲んでたよね、ニオイ、マヤちょっと苦手」 「ああ……ちょっとだけ、舐めてみるか?」 「――んー、やめとく」 首を捩じるようにして俺が口をつける缶を眺めていたが、すぐに首を振る。 俺は笑いながら、 「そうだな。確か『猫』もビールで酔っぱらって水瓶に転落したんだっけ」 「猫――そうね、マヤ……猫、だもんね……」 ふううっと、ざわめくような風が水面からやってくる。 揺れる蓮の葉、枯れて頭を垂れる花芯。 「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生まれたかとんと見当がつかぬ」 ふと、マヤがよく透るその声で呟いた。 冒頭だけなら俺も諳んじることが出来る。 「何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している――  マヤ、初めて俺に会った時の事くらいは覚えてるのか?」 猫だった頃の記憶はほとんど忘れてしまった、とマヤは言っていた。 「もちろん!覚えてるよ。マヤ、脚に怪我してたよね――それで、すっごくお腹が空いてて、寒くて、寂しくて……」 「泣き声さえ上げられなかったよな、君は。  初めて見つけた時は――もう死んでるかと思ったんだ、実は」 「ふにゃ……そうだね。速水さんがいなかったら――マヤ、死んじゃってた……」 喉元をくすぐる手に眼を細めながら、マヤもそっと掌を伸ばしてきた。 彼女にならって顔を傾け、彼女の頬に摺り寄せてみる。 「マヤ――俺がおかしいのか、君がおかしいのか、どっちだと思う?」 「ふうん……?」 「いや――どっちでもいい……」 そのまま抱き上げ、底の見えない水面を覗き込む。 どこかやつれたような、それでいて吹っ切れたように清々しい顔をした男と、きょとんと眼をきらめかせてその腕の中に鎮座する黒猫の姿が見えた。 「マヤ……もし今、俺が酔って足を滑らせてこの池に落ちたら――」 「……落ちて死んじゃったのは猫だよ?」 「そう――でも今なら……もしかしたら、俺でも死ねるかもしれない。  そうなったらやはり心残りは君の事しかない訳だが――」 「ダメだよ……」 マヤはくるりと反転すると、俺の首に腕を回した。 「ダメ。マヤ、猫だから速水さん助けられない。 だから、もし落ちちゃったら――マヤも一緒に飛び込むよ?」 「一緒に?」 「うん――マヤは、速水さんがいないと――ただの、猫だもん」 「そうだな――俺も、マヤがいないと。  ただのつまらない男だ……生きている価値がない、本当に」 もういい、これで満足だ。 きつい程に巻きついてくる腕を外して、涙に濡れた頬を拭う。 どちらからともなく始まる、いつもの儀式――軽いキスと共に。 二人は――ゆっくりと、沈んでゆく、誰にも見つからない、閉ざされた水底へと。 みるみる浸食されてゆく――呼吸も、意識も、何もかもが。 ――次第に楽になってくる。 苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。 水の中にいるのだか……ああ、ただ腕にはマヤがいて……それだけが――幸せ、いや、もう幸せそのものすらも感じ得ない―― 俺は死ぬ。 死んでこの太平を得る。 太平は死ななければ得られぬ――信仰心など或る筈もないから念仏など唱える訳がない…… ――と いうことは……? 「――ん、……さん」 小さく虚ろな声が――ああ、嘘だろ。 本当に天国って奴が存在するんなら愚図愚図しないでさっさと飛び込んでしまえば…… 「速水さん、起きてっ!!!」 何の感動もない、ただひたすら耳をつんざく大声と共に。 バシャアアッ!!っと冷たい水を浴びせかけられ、流石に目を覚ました。 「もう!!自分から勝手に呼び出しといて、自分だけ酔いつぶれちゃうとかっ!  どんだけ勝手なんですかーっ!!??」 「……う、るさ――何事だ……」 「なっ、な〜にが何事だ、ですかっ!大体、ココ何処なんですか!?」 「何処って……」 ガンガン痛む後頭部を押さえながら、不快極まりない顔をしかめて眼を開ける。 視界に飛び込んできたのは鬱蒼と生い茂る草むらと――枯れた……蓮? 池か、此処は……だが、どこの? 記憶がまったく繋がらない。 最後に覚えているのは――黒沼先生と飲むあの赤提灯の屋台で―― ああ、何故だか途中で彼女が合流してきて……それで――? 最悪な事に全身に浴びせかけられたのは水ではなく――酒だ。 それもワンカップ大関じゃないか。 それをぶっかけた本人は顔を真っ赤にして――全身酒臭いのは彼女も同じ様だった……が。 「マヤ――猫は酒飲んだら駄目だと……」 「はあ?」 「――いや、マヤ、だよな?」 「そうですよっ!誰と間違えたいのかわかんないけどっ お生憎サマ、北島マヤですっ!!  もうホントにねえ〜飲み過ぎだわ強引だわ王様俺様だわ、最悪なんですよ速水さんって!そんなんだから、しっ、紫織さんにフラれ――ぎゃああっ!?」 ふらふらと覚束ない口調で、横たわる俺の耳元でがなり立てる―― その腕を思いっきりこちらに引っ張っりこんだ。 「マヤ」 「何!」 「キスしろ」 「は……っ、っえ、は、えええ!?」 只でさえ赤い顔が、有り得ない程赤く染まる――耳朶まで一瞬で、酔いも一緒に吹き飛んでしまったかのようで。 口をぽかんと開ける様は――何て無様で――可愛いんだ、と。 腹が捩れる程笑い出したいのを必死で堪えて、俺は尚も要求する。 「早く、キスしろって」 「いっ――もう!最悪、酔っ払い、変態――もう……しっ、知らないっ――」 震えながら。 それでも、しっかりと眼を瞑って。 マヤはそっと顔を屈めて――酒臭い、キスをしてくれた。 唇にぶつかるような、不器用なキスを。 「……違う」 「えっ」 「何で忘れるんだ――また一からやり直しか?」 「は、はあ!?――もう、速水さんってホント何考えてるかわから――」 眉を吊り上げ、ブツブツ呟く彼女の頬をそっと包む。 思った通り、冷たい掌にじんわりと温かい、柔らかな肌。 今夜初めて会った時は――久々に出会った時は、互いにギクシャクして、とても会話らしい会話など出来なくて。 結局、新しい芝居の事――黒沼龍三の新作舞台となる風刺劇、『吾輩は猫である』の話から切り出した。 彼女の役がまたしても「猫」という動物である事へのからかいに始まり―― 塩辛いつまみと安酒の力を借りて、これまですれ違いばかりだったのが嘘みたいに、話はあちらこちらに花開いた―― 気づけば同席していたはずの黒沼先生の姿も見えなくなって…… 「何か――恐ろしく長い、変な夢を見てた」 「……でしょうね。最後のお店からずーっと、速水さん人の話聞いてなかったし。  ここまで歩いて来たこと自体奇跡……って、も、もう離して下さいよ――」 「駄目――まだちゃんとしたキスを教えてない」 「ちゃんとって……だっ、大体、何であたしが、速水さんにキスなんか」 「好き、だから」 「っ……な――」 「君が好きで好きで仕方ない、から、俺がキスしたいんだ。  できれば君にも覚えて欲しいとは思うけど」 はっ――と息を飲む、小さな唇。 今夜中、ずっと見つめていた、触れたいと思い続けていた唇に、遂に――ああ、でもその前に。 掌に力をこめ、引き寄せる。 抵抗することなく、彼女はそっと顔を寄せてくる。 始めは額に――軽く。 それから……小さな鼻先に。今は寒さで真っ赤になった――子どもみたいな鼻の頭に。 そして―― その唇は想像以上に、夢以上に、ずっと柔らかく――ぐっと酒臭い。 けれど……確かに、彼女の意志を感じた。 揺れる瞳は愛玩動物の様に絶対的な信頼に満ちている、という訳でもないが、さりとて不安と軽蔑に塗れている訳でもなく。 恥かしそうに――でも、幸せそうに、彼女は微笑んだ。 それは俺の心の中だけの幻だとは――絶対に、思えなかった。 どれだけ酔っていても、非現実染みていても、信じる事が出来た。 ほら――その証に。 「……馬鹿!!」 ばしん、と乾いた音を立てて。 マヤは俺の頬をひっぱたいた。 猫のままなら、絶対にやらなかったその行為――さえもが、愛おしくて。 「酔っぱらってない時に、もう一回言ってくれないと――忘れちゃいますよ?今の」 「わかった……でも、なら――もう一回――して」 「――ホント、変だよ……」 くしゃっと、涙でぐしゃぐしゃの顔を擦りながら。 マヤは微笑むと、そのまま俺を抱きしめてくれた。 当然、俺も抱きかえした。 続いて、額の上に降りてくるキスを待ち望みながら、そっと…… END. web拍手 by FC2

        

last updated/11/01/11

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