第9話




本作品には以下の傾向を含みます。

SF設定/密室/飼育/(捉えようによっては)獣姦

   

悲劇という奴には大抵の場合、その直前に何らかの予兆がある。 それに気づけないのを、ただ安寧とした日常に油断しきった第六感のせいばかりにはできないだろう。 だが――神経のアンテナを敏感に研ぎ澄ませていれば。 予兆、というものは案外簡単に捉えられるはずなのだ。 例えば、どんなに幸せな時でさえ、人は「幸せすぎて怖い」という感覚に陥る事がある。 没頭する事への恐怖、と言い換えてもいいかもしれない。 だがその時の俺は、隔離された彼女との生活に余りにも満たされ切っていた。 時折り過ぎる不安も、いずれ何とかなる――彼女が「人間」になりさえすれば、という極めて甘い楽観の元追いやっていた。 それが俺の第六感を鈍らせたのだろう。 あの義父が――俺のそんな状況を察して手を打たないはずがなかったのだ。 マヤとの生活は四か月を過ぎようとしていた。 大都グループ全体を巻き込む大がかりなプロジェクトが山場を迎えていたのをいい事に、速水の屋敷にほとんど戻ることのないまま、社とマンションの間を行き来する生活が続いていた。 或る夕方――携帯ではなく、デスクの直通電話を介して義父から連絡来た。 いくら多忙とはいえ、これまでの生活リズムと全く異なる行動を起こした「息子」に対して、あの人が何一つ言ってよこさない事に対する疑惑はこの所俺の心中のわだかまりとなっていた。 その最初の棘を抜くのを躊躇ったが故に――大きな代償を払わされることになると、その電話が鳴った瞬間に察知したのはあまりにも遅すぎた。 「真澄か。大事な話がある、今すぐ屋敷に戻れ」 受話器を取った瞬間、淡々と用件のみを切り出される。 彼との舌戦には未だかなりの体力と精神力を要する――油断はできない、と警戒する傍から、油断しきっていたここ数カ月が重く頭にのしかかるのを感じた。 「どういったご用件でしょうか?アド・ミュージアムの件についての最終報告なら先日――」 「そんなものよりもっと大きな話だ。手短に済ませる、すぐに来い」 「待ってください、申し訳ありませんが本日はこれから――」 「この四か月、何の為にお前の気紛れに眼をつぶってきたと思っている?  ここまで言って察しきれないようなら儂の見る目も曇ったというものだな」 「……唐突ですね。そんな下世話な忠告の為にわざわざ呼び出しですか?」 「二度は言わん。今すぐ、来い」 特に声を荒げるでも冷笑するでもなく。 何ら感情の読み取れないその声は、かかってきた時と同じようにあっさりと消えた。 遠くで鳴り響く電子音の数を何となしに数えながら――俺は、久しぶりに沸き起こる感情――つまり、猛烈な苛立ちと共に受話器を叩きつけ、席を立った。 苛立ち――あの人に対峙するにあたって最も警戒すべき感情。 立ち上がったまま、机の上に両手を支えじっと目を閉じる。 落ち着け。以前はこんな風に取り乱したりする事はなかったはずだ――そう、四か月前までは。 義父の狙いなど当然察している。 汐留地区再開発プロジェクトの件に関して、常に付きまとってきた、運輸業界最大手の鷹宮グループとの業務提携。 ビジネスの面でもそれなりに順調に進んできたが、ここに来て大きな局面を迎えている。 鷹宮の経営陣への大都の参入、つまり俺自身の執行役員就任の話が急速に現実味を帯びてきているのだ。 それというのも、このご時世であろうとも――いや、それだからこそかもしれないが…… 堅固な同族経営で名高い鷹宮と提携する、という事は、「それなりの」関係を結ぶ、という事でもある。 かのグループ総帥である鷹宮会長が、その最愛の孫娘の「嫁ぎ先」を兼ねた提携を義父と計画立てているらしい事は裏ルートで俺にも伝わっていた。 が、その話が最初に出たのが彼らの談合の場である高級料亭である事も知っていたので、酒席での戯言程度と考えるのを先送りにしていたのは――どうやら大きな過ちだった様だ。 断る手段なら幾らでもある。 理由はただ一つだが。 しかし、思い当たる手段の一つ一つが極めて脆弱なカードである事を俺は知っている。 このゲーム、間違いなくあの人に分がある―― 勝てないゲームなどするべきではないと理性は訴える。 ああ、だけど――? と、ここまで考えて、自分のあまりの間抜けさ加減に頭を殴りつけたくなる衝動にかられた。 義父は知っている――と、いう事は。 全身が、恐怖に近い感情に包まれる。 そんな感覚は生まれて初めての事だった。 自分の生死が危うい時ですら、これ程絶望的な気分に陥った事はなかった。 今まで手に入れきたもの全て、失っても然程恐れる事はなかった。 だからこそ、どれ程野蛮で冷徹な手段でも自由自在に振るってこれたのだ。 だってそれを愛してなどいないのだから。 愛されてなどいないのだから、最初から。 だけど――マヤだけは。 駄目だ――彼女が、消えてしまったら、俺は。 絶対に……狂ってしまう、確信できる。 冷たい両手を握りしめ、俺は駆け出した。 丁度ドアを開きかけた水城と鉢合わせ、何事か言われたようだが理解できなかった。 酷く脈打つこめかみを押さえながら、恐ろしい程不器用に車を出す。 その途中、携帯で影の部下に幾つかの指令を出しておく程度の分別は残っていたが―― 事故を起こさずにマンションに辿りつけたのは、ほとんど奇跡的だった。 今頃になって、ありとあらゆる予兆が俺を切り刻む。 あの時の会話――意味ありげな視線――あの夜の行動――示し合わせたように現れた人物の顔――視線…… ああ、全てが一つの事実を指示していたというのに。 俺は何と言う……大馬鹿者だ、本当に。 直通エレベーターの壁を一度殴りつけながら――到着階で苛々とロックを解除する。 開きかけの扉に肩をねじ込むようにして飛び出す。 人気のない白い廊下を走り抜け、最奥の扉の前で指紋認証ロックを解除――しようとした所で。 ハッ、と何かの気配を察した。 これだ――この感覚を、もっと早くに取り戻していれば。 廊下の突き当たりには非常階段へと続くドアがある。 外側からは決して開くはずのないそれが、ほんの僅かの隙間を、今まさに音もなく閉じきろうとする瞬間だった。 三歩でその鉄の扉に飛びつき、蹴るようにして身体を押し出す。 高層階を吹き抜ける猛烈な風が髪を掻き乱し、上着を翻す。 手摺に駆け寄り、一瞬耳を澄ませた――間違いない。 俺はその階段を何段も飛ばすようにして恐ろしい勢いで駆け降りた。 屋外の階段、風が細長い叫び声を上げる中に混じる、俺の足音と――恐らく二階程下の踊り場から聞こえてくる誰かの足音。 明らかに追手の気配を察して逃走している、そんな具合の足音だった。 絶対に逃してはならない―― その思いだけで、果てしなく続く幾つもの階段を下り降り、徐々に近づいていった。 視界が少しずつ低くなってゆき――壁の数字が七を数えた時。 下で人と人がぶつかる様な鈍い音と、苛立ち混じりの舌打ちが聞こえた。 その角を曲がった瞬間、目に入ったのは。 黒い警備服を纏った男――ここ数カ月、正確にはいつからなのか――エントランスに佇んでいたこのマンションの警備員の男だった。 決して差し向かいで目を合わせることなどなかった、まして顔などほとんど覚えることもなかったその男が、同じく黒ずくめの細身の男の足元に蹲っている。 二人に挟まれ、隙あらば再び逃げ出そうと身構えていた男は諦めた様によろよろと立ち上がった。 「何事ですか――此処のお客様の方でいらっしゃいますか?私は……」 「聖」 「はい」 「壁にそいつを押し付けろ」 聖は淡々と男の腕を捩じり上げ、踊り場の壁に押し付けた。 男は何かを察したのか押し黙り、特に抵抗するでもない。 腰に下げた警棒の横に黒い袋をぶら下げているのが目に入った。 着衣を確認し、その袋の口を開けて中を確認すると、ごく普通のデジタルカメラが1台、そして明らかに盗聴機と見られる器具が転がり出てきた。 目くばせをし、聖から手渡されたものを――極めて実用的な刃物を使用可能の状態にした上で、俺はあくまで穏やかな口調で男に話しかけた。 「義父に幾ら貰った?」 「……」 「直接御前との面識はないはずです、真澄様」 「成程――では質問を変える。君に直接依頼した男は……ああ、笑ったな。  では女は、君に幾ら渡した?」 男は無表情に押し黙ったままである。 「その三倍出そう。この後すぐにでも彼からキャッシュで受け取るといい。  それか、今ここで耳をそぎ落とされるのとどちらがいい?」 俺の肩あたりにある襟首を掴み上げ、押し付けた階段の縁から頭を突き出す。 そこでようやく、男が口を開いた。 「私は只の興信所の人間ですよ。依頼人の素性なんてわかるはずがない。  訴えるならこのまま警察に連行して下さいよ、暴力は御免――うわあっ……何を!」 「ほら、このまま自分の耳が地面に落ちるのを見守るのと、報酬を受け取るのと。  どちらがいいか、と聞いている。それ以外の返事は無用だ」 男の左の耳朶の裏に刃を押し当てた瞬間、完全に屈服したのがわかった。 確かにこんな男を義父が雇うはずもない――ほとんど素人に近いような人間だ。 男はベラベラとよく喋った。必要のない事までも長々と。 だがそれ以上は本当に無用だった。 下まで男を連行し、後は聖に託す。 俺自身は今すぐ速水の屋敷に向かわねばならないが――その前にどうしても確認しておかなければならなかった。 時計を見れば、義父の電話があってからまだ30分程しか経っていない。 それでも、俺には酷く長く続く悪夢のような心持がした。 再び、エントランスの門をくぐる。 エレベーターの中で、先程奪い取ったデジカメを取り出す。 電源を入れ、保存ファイルを開く瞬間は確かに気分のいいものではなかった。 だが―― 開いたその画像を見た瞬間の衝撃に比べれば、その不快感などほんの些細な問題に過ぎなかった。 液晶画面に映るのは、こじ開けたのでもなく、ごく普通に開くドア先に広がる玄関口だった。 三角のボタンを操作して次の画像に移る。 自動的に点いた照明、床に移り込む警備員の靴先。 その先に続くのは見慣れた廊下、そして…… 廊下の先の壁の向こうから―― 小さな黒猫が、怯えたような顔を壁から覗かせていた。 床上から15センチ程度の高さにある、俺の拳よりもずっとずっと小さな頭。 全身真っ黒な短い毛に覆われた、愛嬌のある顔立ち。 小さな星をちりばめたようにきらきらと輝く、漆黒の鏡のようなその瞳が。 いかにも不安げに、見知らぬ侵入者を見つめている画像がそこにあった。 web拍手 by FC2

last updated/11/01/07

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