第2話




溝河が俺を介してマヤを呼んだのには、確かに意図があるはずだった。
最初は行き過ぎたファンにありがちな下心──彼女自身を手に入れたいという、その類のものかと推察した。
今や大都の看板女優として活躍する彼女は実に多様な層のファンを獲得していたが、どんな役でも完璧に演りこなす代わりに一度舞台を降りれば「純朴」で「天然」な「放っとけない」彼女に庇護欲をくすぐられるタイプは多いようだった。
中には、よりによってこの俺に、彼女のパトロンを買って出ようと言い寄ってきた者もいる。そうした連中は概して年齢層が高く、裕福で社会的地位の高い男ばかりというのが俺の気に入らないところでもあるのだが。
──が、溝河はマヤの演技のことを褒めながらも、特に彼女の歓心を買おうというようなそぶりは見せなかった。それが妙に気にかかる。
ちらちらとマヤ、そして俺へと投げかけられる視線。
マヤだけではなく、俺を含めて何かを企んでいるような──いや、考え過ぎか?

と、芝居談義の間に会場の雰囲気がまた少し変化したようだった。
舞台の上はオレンジ色の光に包まれ、掠れたようなギターの旋律が流れ始める。
中央のマイクの上に顔をかぶせるようにして項垂れた背の高い女──その長い髪がゆっくりとあげられると、会場内に穏やかなざわめきが広がっていった。小さく叫び声を上げて手を叩く者もいる。


白状すると
あたしは つらかった
あなたではない
あたしの恋人
あなたの噂を 風の便りに
聞く 前よ
あたしの恋人


その低く囁くような歌は──『ラ・ジャヴァネーズ』。
50年代の色気を引きずる、時は60年代初頭。
ナイトクラブやキャバレー、カフェに漂うアルコールと煙草の香り。
反体制派の若者と、ジャズと、実存主義と、自由と。
クラシカルなシャンソン、スローなリズム。
此処が完璧に演出された舞台であるせいか、芸能社社長としての気質のせいか、その醸し出す世界から一歩引いてしまう自分がいる。
が、そうした要素を差し引いても、歌に込められた実力は相当なものなのは明らかだった。

──その女は確かに美しかった。
隣のマヤもハッと息を飲むような色気と存在感で、唇を開く前から、男も女も虜にするような声が流れるであろうことを予感させた。
が、みる者がみれば一目でわかる。
その美しさは、女そのものが醸し出せる美しさとはまた別種のものだ。


あなたはどうか知らないけれど
ジャヴァネーズを踊りながら
私たちは愛し合っていた
一曲の間


歌いながら、女の視線は確かにこちらに向けられていた。
視界の端で、溝河が恍惚の表情を浮かべているのがわかった。
気づかないような振りをして、俺はグラスに口を付ける。
隣のマヤをうかがうと、これまたうっとりとした表情で曲の世界に身を委ねている様子だった。
この歌は知らないであろうし、ましてフランス語を解せるはずもない。
が、彼女の大きな才能の一つは、その豊かな感受性なのだ。
天才女優と称される彼女は、実は最も素晴らしい観客でもある。
小難しい芸術談義や哲学的思考などに惑わされることなく、彼女はまっすぐに本質を掴む。


あなたの
考えでは
あたしたちは
愛から 何を見たのだろう
ここだけの 話だけど
あなたはあたしを
自分のものにしていたわ
あたしの恋人


マヤの唇が僅かに開く。
酒にほんのりと赤くなった頬の、産毛の柔らかさがすぐそこにある。
俺は無意識のうちに手を伸ばしそうになるのを必死で堪えた。
ああ、確かにあの歌手は実力派だ──冷静であろうとする俺の心を、甘く揺らがせる程に。
女がマイクを片手に、ゆっくりと舞台を降りてくる。
観客の間をたゆたいながら、徐々にこちらに向かって歩いてくる。
溝河が僅かに身を乗り出して、腕を伸ばした。
微笑みを浮かべながら女が手を重ねると、溝河はそっと唇にその手を寄せた。
そのままするりと彼の膝の上に滑り込むと、深いスリットからすらりと伸びた脚が露出する。
完璧に歌の世界を演出しながら、パトロンへの媚も忘れない、見事な営業態度だ。
羨望と奇異の眼差しが、四方八方から溝河に集中した。


人生は
愛が無ければ
生きていく
価値が無い
でも
それを望んだのは
あなただったわ
あたしの恋人


──と、曲のラスト、クライマックス寸前で。
女はまるで気まぐれな蝶のように溝河の膝の上を滑り降りた。
そしてそのままくるりと後ろを振り返り──なんと、マヤの頬に口付けたのだ。
その瞬間、俺の彼女への高評価はかき消え、不愉快な感情がじわりとわきおこった。

「──え、あの……」

何をされたのか理解できない様子のマヤだったが、女が右の頬、続いて左の頬にキスを重ね、危うく唇まで奪おうとしたところでようやく身体を強張らせて声をあげた。

「こら、カノン。そのくらいにしておきなさい。
──全く、可愛い子とみれば男も女も見境がないんだからな、お前は」

溝河が呆れたように声をかけると、

「だって、私の歌を真剣にきいてくれてたのはこのコだけよ。
あなたなんてエロいことしか考えてなかったでしょ」

歌っている時もより地に近いであろう、低く甘い声で、女は微笑む。
実際、近づいてみれば背の高い女だった──俺より低いが、180センチ近くはあるはずだ。
ドラァグクイーンなのだから、まあ不自然でもないだろうが。
その癖、肌の肌理細かさや手入れの行き届いた長い爪、整った美貌は女以上に女らしく、妖艶な夜の蝶にふさわしい姿をしていた。
彼女──結城カノンは、何の躊躇もすることなく、戸惑うマヤと憮然とする俺の間に身をねじ込んだ。
そしてそのまま、俺たちの席がステージとなった。

***

カノンは続けて何曲か、有名どころのシャンソンやジャズの名曲を歌った。
俺たちはいつの間にかその歌の世界の登場人物として扱われてしまった。
『夢見るシャンソン人形』でカノンはマヤの肩を抱き、あの意味深な歌詞を効果的に魅せた。
そこで俺はようやく、溝河が『石の微笑』にこだわっていた理由が飲み込めた。
耳に快い、軽快で洒落た往時のポップスのリズム。
だがその歌詞は無邪気に覆い隠された皮肉とエロスに満ちている。


私は蝋人形
音の出る人形
自分の歌の中で 心は踊っていない
私は蝋人形、音の出る人形

私の方がいい?悪い?
サロンにいる人形よりも
人生はバラ色のボンボンだと思ってる、
私は蝋人形、音の出る人形


初めは戸惑っていたマヤは、カノンが耳元で何事か囁くや否やたちまち女優としての本能を発揮した。
身動き一つ、瞬き一つしないマヤはカノンの歌により「音の出る人形」になりきった。
まるで最初から打ち合わせてあったかのようなその演技に、観客からは驚きの溜息が漏れる。彼らはさながらカノンの歌に踊らされた縫いぐるみ人形で、マヤはその心の代弁者だった。


ときにはひとり、ため息をついて
こんなことを言うの
「それでどうなるの。
こんな風に訳もなく恋の歌を歌って。
男の子を知りもしないで歌を歌って」


カノンの艶やかに手入れされた長い爪がマヤの顎を引き寄せる。
マヤは人形のようにぎこちなく俺に顔を傾け、きらきらと輝く黒曜石の瞳で俺を覗き込んだ。だが、そこには何の感情も浮かんではいなかった──ことに、俺の心は小さく波立つ。

──かと思えば、かのジャズの名曲『Don't Explain』では俺が絡まれた。
浮気な男に振り回され、それでも愛さずにはいられない女の歌。
俺の身体にしなだれかかって切々と歌うカノン、その情景はなかなかに倒錯的な世界を演出したとみえて、好奇とも羨望ともつかない観客の視線は、役者ではない俺には少々居心地悪いものだった。

やがて称賛の拍手と崇拝者達の抱擁の嵐に俺たちは巻き込まれた。
中でも溝河の満足気な表情に、もしやこれが彼の思惑だったのではないかと疑わずにはいられない。

「いやあ、流石は北島君だ。実に魅惑的な蝋人形だったよ。
いつかカノンが表舞台に立つようなことがあれば──君にはPVに出演してもらわないとな」

素に戻ったマヤは恐縮しきりだったが、溝河はその手を取りながらいかにも不思議そうに続けた。

「この柔らかな手がねえ──パントマイム専門の芸人にも引けをとらず、それでいて雄弁にものを言う──君の肉体は実に神秘だよ」

これ以上、他の男の手にマヤを触れさせるのは我慢ならなかった。
が、かといってこの位置、立場では不自然でないようにマヤと溝河、そしてカノンの距離を離すことは不可能で、俺は内心苛々し始める自分を実感する。

「ふふふ、でもこちらの社長さんも中々のものだったわよ。
残念だけどオトコはお嫌いのようね?微妙に引いてる感じがよく合ってたわ」

カノンは特に嫌味を含んだ様子もなく言い放った。

「確かにその趣味は持ち合わせていませんが。貴女はドラァグクイーンという枠に収めるには勿体ない程の才能をお持ちですよ、カノンさん」

「ドラッグ?」

「それは薬。ドラァグ──引く、が語源なのよ。
いつでもイイ男ばっかり引き寄せられる訳じゃないけどね」

長い脚を組み換えながら、カノンは優しくマヤに微笑んだ。
メンソールの煙草を取り出したので、俺は反射的に火を点けてやる。
躊躇うことなくそれを受ける仕草は、ホステスというよりもまさにクイーンの風格だった。
溝河が他の常連客から声をかけられて場を離れたのを機に、テーブルは俺たち三人だけになる。

「あらら、まだよくわかってないって顔ね。教えてあげたら、社長さん」

「つまり──彼女は、彼でもあるということだ。肉体的にどうかは存じ上げないが」

「どこもイジってないわよ。痛いのは嫌いなの。」

「え……え、お、男の人!?本当に?」

「まあね。まあオトコもオンナも自分じゃあまり意識したことないけれど──びっくりした?」

「は、はい、でも、信じられない──手も脚も長くて、スタイルよくて、モデルさんみたい、ううん、歌ってるときはまるで女優さんみたいに綺麗でした。短い映画を観てるみたいで。ホントに素敵でした──歌詞の内容はわからないけれど」

マヤは眼を瞬かせながらカノンの横顔を見上げている。
俺はといえば何とも複雑な気分だ──”彼女”にとって男も女も関係ない、という台詞が本当だとしたら。そんな眼で見つめてしまったら厄介なことになり兼ねないんじゃないか?

「貴女ってコは本当に素直で可愛いわね。マヤちゃんって呼んでもいいかしら」

「はい、勿論!」

「マヤって名前は芸名?」

「本名です。東西南北の北に、島で、北島です。マヤは片仮名で」

「マヤ──マヤ、ね。漢字でないところが素敵だわ」

「どうしてですか?」

唇から紫煙を細く吐き出しながら、カノンは歌うように呟いた。

「何にも染まらない、無垢。
 真っ直ぐ突き抜けるような瑞々しさ。
 舌に乗せると始めは甘く、MAAA・・・・・喉の奥で震えて。
 最後は、YA、舌先から切なく飛んでゆく──
 自由な小鳥のような貴女、マヤ、マヤ、マヤ」


俺とマヤは唖然としながら、甘くその名を紡ぐ唇を見つめた。
即興の呟きさえもが魅力的な調べを奏でる──
悪魔のような唇がこれ以上マヤの名を呼ぶのは耐えられない。

「う、は、恥ずかしい──そんな風に言われたの、初めてです」

「そう?切なく、愛おしむように名前を呼んでくれる人──いるんじゃないかしら」

マヤの顔がぱっと紅潮したのを見て、カノンは堪えきれないといった様子で笑った。
そして意味ありげに俺の顔を覗き込むと、耳元で囁く。

「──気をつけないと、貴方の小鳥ちゃんを狙ってるのは溝河だけじゃないわよ」

「君がそうだとでも?」

「まだ冗談のつもりだけどね。あと一曲、私に付き合ってくれたら逃してあげてもいいけど」

灰皿に煙草を押し付けて立ち上がると、カノンは芝居っ気たっぷりに俺に手を差し出した。
一瞬の躊躇いの後、俺はその手をとって立ち上がった。

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元ネタ曲解説などはコチラ。

last updated/10/11/27

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