第1話


いつまで続くのか、とうんざりする程長かった夏が渋々引き上げたかと思うと。 物凄い速さで秋がやってきて、街は瞬く間に黄色と赤の洪水になった。 じっくり季節の変化を愉しみたかった私にはちょっと物足りないくらいの、物凄い変わり様。 所々化粧を施しきれていない木々の緑色が見えるのが、何だか可笑しかった。 ベンチの上に積もった黄色いベールを払いのけ、すぐ脇の自販機で買いこんだココア片手に、私は幸せそのものをかみしめながら座り込む。 段々肌寒さが我慢できなくなってきたので、今日からブランケット持参なのだ。これで長い時間ゆっくりすることができる。 つまらない塾と学校への行き帰りのほんのひと時、その公園のベンチで読書に浸るのが、17歳という微妙なお年頃の女の子にとっての唯一の心の拠り所だった。 都心の真ん中にあるおかげで結構な人通りにも関わらず、その公園は常に気持ちのいい静寂に包まれていた。 南西の入り口から入ってすぐの銀杏の木の下、そこが私の特等席だった。 向かいに3つ、2メートル程の間隔を空けて右隣に2つ、同じ型のベンチが並んでいる。 うだるような夏の日から数えて4カ月の間に、あたしはここで8冊の本を読んだ。 人より読む方だとは思うけれど、スピードはそうでもない、むしろ遅い方なのだ。 それに、目はあらすじだけを追いかけながらひたすらボーっとする――のも、ここでの愉しい時間の過ごし方だった。 そうやってボーっとしている間にも、目や耳はあたしの意識とは別に自由に動いていて、いつも同じ時間に犬を散歩させるおばさんや、向かいのベンチで水曜の夕方にだけ現れてクリスピードーナツを頬張るOLさん、不定期にその辺を歩き回ってる謎の占い師?(首に数珠みたいなのを巻いて、何やら白い本を捲って呟いている)、小説めいた恋が芽生えやしないかと密かに期待していた同い年位の男の子、その他何人かの「常連さん」と心の中で顔なじみになっていた。 紅葉が始まりかけた頃、水曜のOLさんは来なくなった。 その代りに、ちょっと変わった女の子が毎日やって来るようになった。 時間は、大体私と同じ、夕方の5時から6時くらいの間。 年の頃合いは――多分、同じくらい、かも。 あたしも同じ年頃の子に比べたらほとんど色気皆無のメガネっ娘だけれど、何のメイクも施してないスッピンで、大体いつも同じようなTシャツにジーンズ、時々ジャージ、といった格好の彼女に比べれば、あたしはまあそれなりにオシャレ服だし、アイメイクだけはガッツリするようにしてるから――どっちの方が年上か一見するとわからないだろう。 判断が微妙なところなのは、同じ年頃の女の子にしては、彼女の行動や身に纏う雰囲気が「ちょっと違う」せいだった。 ベンチに着くとすぐ、彼女はその肩にぶら下げたペラッペラのショルダーバックから1冊本を取り出す。 文庫本でもなく、ハードカバーでもなく、さらっとした上質紙を簡単に製本しただけの――丁度卒業文集といった風情の本。 表紙に何が書かれているのかは、膝に抱えたショルダーバックとの間に挟まって確認できない。 そうやって膝の間に本を挟むのが彼女の癖らしい。 そして片手の指を顎の下に置いて、何やらブツブツと呟き始める。 俯くと長い黒髪が顔にかかって、その驚く程真剣な顔が半分くらい見えなくなる。 周囲のもの何もかもが目に入らない、といった様子で。 同じ高校生くらいだろうと思っていた私だったけれど、毎日そうやっている彼女をみているうちにかなり興味を持つようになった。 あそこまで集中して取り組んでいるものは何なのか――ある日好奇心にかられ、さり気なくその傍を通り過ぎて背後から覗き込んでみた。 目に入ったのは真っ白な紙の上部に引かれた線と、台詞――戯曲の台本。 彼女は、どうやら女優のようだった。

女優。 テレビやCMとかで見かけるような人たちばかりがその職業に就いているわけではない事くらい知っている。 ほとんど興味ないけど、小劇団とかに所属して頑張ってる俳優さん、女優さんだって数えきれないくらいいるらしいから。 同じくらいの年頃だとは思ってたけど、今時高校に行かないで演劇一本でやってく人ってのも珍しい気がするから、1,2歳くらい上だとして――18歳か、19歳か。 ああ、歳をあてるなんて苦手なんだ、あれですごい童顔の30過ぎだって事も考え―― いや、それは流石にないか。 そんな風に考えて、ふともう一度目線を上げたら足元にその人の黒髪がクラゲのように広がっていたものだから、私はぎょっとして息を詰めた。 「あ、すみません。落としちゃって……」 と、私の足元の地面から何かを拾い上げてにっこりと微笑む彼女。 指先には小さなガラスの小瓶が握りしめられていた。 その中で、薄紫色の液体みたいなものが揺れているのが目に入った。 「あ、いえ」 何故かドギマギしながら曖昧に首を縦に振ると。 彼女は立ちあがり、元のベンチに戻って行った。 今日も薄手のパーカーにくたびれた黒のジーンズ姿。 ずっと見ていたから、その然程派手でもない目鼻立ちはすっかり覚え込んでいたはずなのに。 そうやって至近距離で微笑まれて、思いかけずドキッとしてしまったのは何故だろう。 あたしは小説に没頭するフリも忘れて、彼女に視線を遣った。 ベンチの上に開きっぱなしの台本を取り上げて、でも膝の上に広げながら、彼女はボーッっと静かに座っているだけで、 それは今まで見たどんな彼女ともちょっと違う雰囲気だった。 唇は最早何の台詞も呟かず、宙を彷徨う視線は虚ろだった。 そう、さっき声をかけられて思わずドキッとしてしまったのは、その黒目がちの瞳が濡れたように光って――まるで泣いてでもいるように――いたからだった。 それまで御伽の世界の中しか知らなかった女の子が、急に現実に打ちのめされたかのような、寂しげな、悲しい瞳。 読まれる事のない台本の上で、彼女は両掌にあの小瓶をくるくると握りしめたまま、身じろぎ一つしなかった。 5分――10分、変わる事のないその光景。 流石に飽きて再び私が私の本に意識を戻し、またふと視線を上げた時、彼女の姿は消えていた。 お尻の形にかきわけられたままの落ち葉の空間に、ひらり、と一枚、音もなく黄色が落ちてきた。

彼女の様子はどんどん奇妙さを増してくるように思われた。 鞄から台本らしきものを取り出すことも稀になって、ベンチに座っている時間も以前よりずっと短くなった。 元々、羨ましい程ほっそりとした体形だったけど、この1週間の間に更にやつれたような感じで薄くなっていった。 持ち物や服装は相変わらずなのだけど、ただベンチに座ってボーっとしながらも、眼の色がまるで今までの彼女とは異なるのが気がかりだった。 何か不安にでも追い立てられているかのような目。 落ち着きなく動く指先には、ベンチの上に厚く降り積もった落ち葉の切れ端やレシートの紙みたいなものを握りしめていることもあって、 ほんの10分足らずの間にそれは掌の中で揉みくちゃの粉々になって風に乗って飛んでゆく有様なのだ。 何か悩みでもあるんですか――と、声をかけてみたいような気もしたけれど、公園で通り過がるだけの他人にそんな風に声をかけられても戸惑うだけに決まっている。 だけどその日―― 遂に、彼女がボロボロとその眼から大粒の涙を零しているのを目撃するに至り―― 単なる好奇心を超えた、何かせずにはいられない衝動にかられて、あたしは遂に本を放り投げ、立ち上がったのだ。 「どうしたんですか?」 「……え?」 「あの――ずっと、ここにいて、その……何となくあなたの事見てたんで、ずっと気になってたんです。 あ……怪しい事言ってるって思うかもしれないけど、でも、やっぱ気になるし。 何か……たっ、体調とか、悪いんですか!?」 素直に何か悲しいことでもあったんですか、と聞けばいいのに。 土壇場で「フツー」ぶろうとしたあたしは、余計におかしな台詞を口走ってしまった事にもその時は気付かなかった。 立ちあがってほんの数歩で辿り付く、彼女の目の前。 長い黒髪が冷たい風にぱさぱさと揺れる、青ざめて毛羽立った頬に次々と筋をつくって流れてゆく涙の粒を真正面から眺める。 その時、私は初めて―― ようやく、彼女が、実はとんでもなくキレイなんじゃないか、なんて思ったのだった。 「あたし――泣いてます、か?」 つう、っと、また涙が一粒。 右の眦から溢れて顎先に消える――けど、泣いているにしてはその声はとてもしっかりしていて、一分の震えもなく。 さっきまで絶望に押し潰されていたかのような漆黒の瞳には、驚くほどクリアにあたしの間抜けな顔が映り込んでいた。 「泣いてますよ……すごく。わからないんですか?」 茫然と呟きながら、私は段々理解していった。 ……そうか、彼女は女優だから。 もしかしたら、その感情も、表情も、全ては演技なのかもしれなくって。 それは普段の彼女とはとても似ても似つかないのも当然で、女優にしては地味だな、なんて思ってたはずなのに近寄って見ればやっぱり顔は小さくて、 目鼻立ちも派手さはないけどよく整ってる、多分ちゃんとお化粧したらこの人もの凄く可愛くなれるタイプの人だな、とか思いつつ、 いやそんな見た目よりも何よりもこの目なんだな、と。 一度見つめられたら絶対に逃れられない様なこの不思議な瞳の色に―― 私だけが映り込んでいて、その吸い込まれるような浮遊感が、こんなに心地良いなんて…… 「あ、ホントだ。びっくりした――や、びっくりさせて、ごめんなさい」 と、突然、明るい声があたしの意識を戸惑わせた。 やや頬を染め、右手の指先でゴシゴシと涙を拭うその姿をみて、思わずハンカチを差し出さずにはいられない。 ちょっと驚いた様に目を瞬かせて、それから嬉しそうに、恥かしそうに笑うと―― 彼女はあたしのハンカチを使って、トントン、と瞼の下を抑えた。 化粧っ気がないから、泣き腫らした跡のその顔はまるで子供みたいに真っ赤で、 先程の女のあたしですらフラッと心を奪われるような魔力は跡形もなく消え去っていた。 「あの……すいません、もしかして、お芝居の稽古、とかだったりしました?」 「え、これ?ああ――えっと、半分そうなんですけど、半分違うっていうか……  ホントは泣いちゃだめなんですけどね、でも勝手に―― あ、という事は全部、最初から見てました?」 初めてまともに聞く彼女の声は、想像していたよりも少しだけハスキーで、でも軽やかで。 それでいて、高いトーンの時は本当に鈴を転がす、という表現がぴったりの印象的な声をしていた。 私はごく自然に彼女の傍に腰を降ろす。 既に落ち葉の色気はほとんど見受けられなくなり、公園の木々は寒々と突っ立っているばかり。 その日は曇り空な事もあって、より一層肌寒さが増していた。 「最初からっていうか――ここ1ヶ月くらい、あたしもずっとそこで本読んでたんで。  あなたの事、たぶん女優さんかなとは何となく思ってたんですけど。  この1週間くらい、その本読み始めてからちょっと様子が変だなぁって思ってて……」 「ああ――ああ、そういえば!そうですよね、ずっと本読んでた、覚えてる! 何だか賢そうな女の子がいるなあ、って思ってたの!」 彼女は、あとで北島マヤ、と名前を教えてもらったその子は、ぱん、と両手を叩くと、 それが彼女独特の笑い方なのだけれど、少し俯き加減でくつくつと笑った。 「あたしの――どこが、変だなって思ったか、よかったら教えてもらえませんか?」 ふと、風の冷たさに肩を竦めながら――やはり顔色が悪いのは否めなかった――彼女は興味深そうに私の顔を覗き込んできた。 まるで初対面らしくもない、壁を感じないその雰囲気に戸惑いつつも、私は答えた。 「だって、どんどんやつれて――痩せてきてるし、前より顔色悪いし、暗いし。  その台本もほとんど読まなくって、溜息はつかないけどずーっと憂鬱そうにしてるし、何たって目が虚ろなんだもん。 何ていうか、全ての感情を胸にぎゅうっと閉じ込めて固くなってるっていうか……」 あまりにも素直に、いや、馴れ馴れしく答えすぎてる、というのに途中で気付いたけれど、もう遅かった。 大体、後で思い知ったのだけれど、彼女という人を前にすると自分の壁が自然に剥がれて中の本音が勝手に零れてしまうのだ。 彼女自身はその間ほとんど喋ったり、碌な反応をしてないにも関わらず、だ。 女優としてこの人と対峙するってのにも、結構な才能が必要なんじゃないか、なんて、彼女の女優としての資質なんて知る由もなく、 そもそも舞台経験なんてまるでないくせに、私はふと思ったのだった。 「そうかぁ……そうか、駄目だなあ――うん、体重減ってるのはわかってたんだけど。  感情を閉じ込めて、か……そう見えるんですね、人が見ると……」 彼女はふう、と溜息をつくと、もぞもぞと、あのいつものように両膝を抱えこむような姿勢に座り直した。 「駄目、なんですか。どんなお芝居、するんですか?」 興味津々で、彼女と私との間に置かれた台本の表紙に目を遣る。 そこにはシンプルな黒い文字で、『十一号室の女』と印刷されていた。 本は読む方だけど、そんなに広く深く読むタイプじゃない、と先に言っておいたけど、勿論そのタイトルにもどこにも思い当たるものはない。 「うん、確かにお芝居なんだけど――ちょっと、現実と見境がつかなくなりそうなのが怖い、っていうか……」 膝と膝の間に顎を乗せて、彼女はぼんやりと遠くを眺めながら呟いた。 「そうか、それが怖くて、感情を閉じ込めてたのかなあ……あ、ごめんなさい、いきなり変なこと言い出して」 「いえ、別に」 ざあああ、とふいに風が木々の枝を揺する音が頭の上から落ちてきた。 一瞬の嵐の様に、地面に積もった枯葉を巻き上げ、掻き乱し、カランカラン、と向こうのの方から空き缶が転がってくる。 小さく悲鳴を上げる女性や子供の歓声を遠くに聞きながら、私たちは一緒に目を閉じた。 ようやく嵐が収まり、ゆっくりと瞼を開いてみる。 同時に、隣の彼女がぼそりと呟いた。 「ある男の人をね――殺して、一緒に死のうと思うの」 ゾク、と鳥肌が立ちそうになるのを抑えて、何気なく私は答えた。 「その、お芝居の話?」 「うん――それがね、ホントになりそうだから、恐いなって」 私は思わず彼女を凝視した。 ほとんど歳の変わらないように見える彼女。 そうして座っている姿は、ずっと幼く無垢に見える彼女なのに。 「殺したい程、憎い人が――いるの?」 「ううん……殺したい程……すき、なのよ。たぶん、ね――」 掠れたような、甘い声にほんのりと毒が混ざってる。 ふと、いつか見た彼女の掌の小瓶、紫色の液体を思い出す。 彼女はあの毒で――誰かを、男を、殺したいと思ったのだろうか。 それとも…… web拍手 by FC2

だは〜「甘々月刊」にするはずがやや暗いですね!仕方ない、なんか体調悪いし!(笑)
書きだしからご推察頂けるかと思いますが、去年の11月頃に書きかけて放置していた作品。
『十一号室の女』は実在する小説タイトルです。作者は……わかるかな??^^

    

last updated/11/03/21

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