第3話


「不倫、なんだ」 「え」 「しかも、お母さんの事監禁した事あるんでしょ、あの人。  マヤさん、そんな男がスキなの?私には理解できないな」 「……」 私は、狡いコドモだ―― 年下なのを逆手にとって、彼女がわざと傷つく言い方をする。 案の定、彼女はあの俯き加減の笑顔で――目尻を赤くしたままの顔で――笑う。 寒いので、私は両手両足をぴったりとくっつけて、まるでミイラみたいに胸の前で手を合わせて空を見上げている。 眼鏡越しに、少し歪んだ小さな世界を、必死で見上げている。 彼女は私の頭の横に静かに腰を降ろしたまま、じっと穴の開きそうな――あ、開いてる――ブーツの先っぽを眺めていた。 遠く流れていく車の音。人のさざめき。街の音―― 「わたしは……もう26歳になります。  世の中に出て、いろいろな経験をして、もう男も知り、恋愛の体験も充分――  そして今では、男というものは、どんな男でも所詮は一ぴきのけだものに過ぎない、という事を悟りました」 突然、冷めたような女の声が隣から聞こえてきたので、ギョッとして首を傾ける。 枯れた芝生の上に座り込んだ、見たこともない女性がそこにいた。 長い黒髪を指です、っと掻き上げながら、彼女はきつく眉根を寄せた。 「だけど――ここにさとりきれないのは、あなたという詩人です。  あなただけは、何だかほかの男性とは別なような気がしてならない――  幼い日から親しんだ作品の影響によるものなのか、これだけは別で、時には神的(ディヴァイン)のような感じさえする――  わたしはこれが悔しくてならないのです」 女はゆっくりと立ち上がると、ぎゅっと胸の前に手をやり、コートの隙間から覗く襟元を握りしめた。 眦はつりあがり、口元は緊張して捩じれた、まるでいつもの彼女とは思えない、狂気と紙一重の女がそこにいた。 私は思わず半身を起こし、ズレかけた眼鏡を鼻の上に押しやりながら凝視する。 「わたしは死ぬ前に、この心の偶像をきれいにぶちこわして死にたい……!  あなたという詩人も、実態は同じく一ぴきのけだものにすぎないと――確信して死にたい!!  だからお願いです、どうか、あなたの生活がお忙しいことは十分知っているのです、だけどこれだけは是非叶えてもらいたいのです。  この手紙を見たらすぐに、私のアパートへ来てください……  本当はこちらから行くべきでしょうが、残念ながら初めての東京で――あなたの住んでいる柏木という土地がわかりません。  ……何でも近くだと聞いていますが、どうしても行けないから、だからどうか、是非、訪ねてきて欲しいのです……幡ヶ谷ハウス、十一号室まで」 全身に立つ鳥肌を擦りながら、私は嫌悪を隠すことなく叫んだ。 「そんなの勝手じゃん!キモいよ!!そんなのスキでも何でもない!  か、勝手に妄想して……勝手に決めつけてるだけ、でしょ?  死にたいなら勝手に死ねばいい、それが怖いからって関係ない人巻き込んでさ……そんなの恋とかじゃない!」 その瞬間、ふっ――と、目の前の女の姿が揺らいだかと思うと。 ちょっと驚いたような、でも優しい、いつもの笑みを浮かべた彼女が立ち現れた。 ふうう、っと大きく息を吐き出しながら、頬に両手を寄せるその姿。 さっきの怖い女の人はどこに消えてしまったのかと、それ自体に恐怖を感じながら、 私はようやく、北島マヤという女優の底無しの怖さ――魅力、に気づく事となる。 「だよねえ……あたしもそう思う。  でもね、何が恋で何が恋じゃない、なんて、誰にもわかんないんじゃないかなって――  どんな恋がだめで、どんな恋ならいいんだって……誰にも決められないよね、例え自分自身にだって――」 とん、と心臓の上を叩くようにして、彼女は空を見上げた。 小さな顎の下、白く細い喉元が弧を描いて――泣きながら、逃げながら、それでも求めてしまうのはあの人なんだろうなって―― 思ったら、何でかもう、涙腺がおかしくなっちゃったんじゃないかって自分でも思うけど、涙が止まらなくて。 「あたしね――やっぱり、あの人を殺してみたいと思うの。  凄く頭がよくて――勘もいい人だから、駄目、かもしれないけど」 「一緒に死んでどうするの?どうにもならないよ。だって、死ぬ瞬間までは一緒かもしれないけど、死んだらおしまいだもん。  死後の世界とか信じてるの?もしそういうのなかったらおしまいだよ?  仮にあったとしても――別にあなたとあの人がずっと一緒、なんてわかんないじゃない」 うーん、とまるで解けない数学の問題でも考えているような顔で、唸ったかと思うと。 ふいにこちらを向いたその顔は、これから誰かを殺しに行くにしてはびっくりする程明るく、 まるで悪戯を思いついたコドモみたいにきらきらと眼が輝いていた。 「そうね――確かにそう!だからその一瞬だけ、掴み取れたらいいなって。  お芝居や物語の中にしかないハッピーエンドがどうしても見てみたいの。  現実には有り得ないってわかってるけど……でも、あの人がこの舞台に乗ってきてくれるかどうか、賭けてみたいの――  だから、手伝ってくれないかな?」 「何を……?」 ぎゅ、と両手首を握り締められながら、私は恐る恐る疑問を口にした。 彼女は満面の笑みで答えた。 「毒薬、つくるの!」 ……全く、彼女の突拍子のなさにはついていけない、と溜息をつきながら。 それでも、気が付けば私は冬の公園を這いつくばって、「毒」になりそうな草花を引っこ抜いているのだった――

「信じられない、冬なのにタンポポがあった!」 「温暖化だし、タンポポも頑張ってるんじゃない。  はい――ハコベ。七草だし、食べても問題ないと思うけど」 「もっと劇的に苦いの、とか……うっわ、これ不味い!コレだ!何だろう?」 やめといたほうが、と言う前に彼女は何の躊躇いもなく、集めてきた名もなき雑草を千切って一口口に放り込む。 途端に顔をしかめてぺ、っと吐き出したから、私は大笑いしながらその真似なんてしてみる。 うん、確かに美味しくない。 名前が何とかわかるものもわからないのも含めて、冬とはいえ結構な数の草花が集まった。 芝生の上に広げた彼女のハンカチの上にそれを並べて、私の持っていたタンブラーの中身を空ける。 自分たちの遊び場で何やら変な事を始めた二人の「お姉さん」たちの周りに、興味深そうに小さな子供たちが付きまとってくる。 彼女はそんな小さな子たちの心を掴むのもとても上手くて、 「世界一美味しくない草を探してきて!」っと頼んだ途端、その子たちは歓声を上げて公園中を走り回った。 ちょっと、親とかにバレたらマズいんじゃない、とか思いつつ、それでもこういう楽しさは久しぶりだったから、まあいっかな、なんて。 一時はアイドルとして結構な人気まで誇ったというのに、苦しい生活も長かったのか、彼女はいろんな野草の名前をよく知っていた。 聞けばやはり、食材に困って河原の野草摘みに出た事は一度や二度ではないらしい。 ホントに、あの『紅天女』とかいうスゴイ(らしい)お芝居を演じる事の出来るスゴイ(らしい)女優さんなのか、と。 改めてまじまじと見つめても、普段の彼女は―― やっぱり、どこか不思議ちゃんな、でも限りなく優しい、フツーの女の子、なのだった。 つい一時間前まで――あんな、切羽詰まったような表情で人の心臓を鷲掴みにしていたなんて、まるで嘘みたいに。 「ん……どうしたの?」 ふと、手と口の止まってしまった私を訝しむように見上げる。 「う、ううん――何でも」 目を逸らしながら、彼女の選り分けた葉を細かく引き千切る。 指先が青臭く、緑色になってきた。 彼女はといえば、コレは食べられる、コレはちょっと駄目、コレは毒があるから――ホントの毒薬じゃなくて、死ぬほど美味しくないのが理想なの、と矛盾した事を呟きつつ――選り分けて、千切って、私のタンブラーの中に詰め込んでゆく。 それから、どこからか持ってきた割り箸で突いて、時折り水を加えながら撹拌していった。 見る間に、黒くドロドロの、得体の知れない半固体物がタンブラーの底に出来上がる。 「ねえお姉ちゃん、このどくやく、どうするの?」 ずっとその様子を見ていた、四歳くらいの女の子が無邪気に尋ねた。 「これ?へへ、お姉ちゃんねえ、実は魔女なの。魔法のお薬にするんだよ」 「じゃあ、こっちのお姉ちゃんは魔女の弟子?」 「ふふ。そうそう、魔女の弟子――ほおら、出来た……うはあ、凄いニオイ」 「くさーい!!毒薬、なんの魔法に使うの〜?」 彼女の掌に抱えられた半透明のタンブラー。 おどろおどろしい中身が、夕陽に反射してちょっとだけ美味しそう―― に、見えなくもない、琥珀色に輝く。 「昔、昔……ある所に、ホントは優しい心を持っているのに、それをずーっと隠して大きくなった、王子様が住んでいました――」 やや掠れた、彼女の声―― あっという間に、そこは小さな舞台に変化する。 私は女の子と一緒に足を折り畳み、じっとその世界に耳を傾けた。 熱い心を冷たい氷の鎧で閉ざしてしまった王子様は、誰にも負けない強い力を手に入れる。 だけどその王子の本当の心を知る者は誰もいなかった、長い長い間、ただの一人も。 ある日、王子はお城の舞踏会で小さな女の子が踊る姿を目にする。 たまたま目にしたその子は、風邪でフラフラの真っ赤な顔で、それでも一生懸命な姿が王子の優しい心を揺り動かした。 だけど今更冷たい心の鎧を解く術を知らなかった王子は―― 女の子に、一輪の薔薇の花を贈るのだ。 それまで誰も見た事のない、紫の薔薇の花を―― 「そして――成長した女の子は、いつしか王子のことが……大好きになってしまいました。  だけど王子には――既に、隣の国の綺麗なお姫様と結婚する事が決まっていたのです」 ええ、そんなのつまんない、と女の子が膨れっ面で野次を飛ばす。 「あ、でもどうせ、その女の子とラブラブになるんでしょ?  おとぎ話っていつもそうだもん、わかった、その毒薬ってホレ薬だ!  王子様に飲ませちゃうんでしょう?」 全く、空気読めない観客だなあ、っと私は歯噛みして、「大人げなく」その子の口を抑え込もうかと思ったくらいだ。 けど、あくまで語り手に徹した彼女はにっこりと微笑んだまま、その心の内を微塵も感じさせることなく、囁いた。 「そう――女の子も信じていました。  ホレ薬を飲ませてしまえば、きっと王子もあの優しい心のままに、自分だけを見てくれるに違いないと。  だけど王子は――薬が出来上がる前に、お姫様と結婚してしまったのです。  女の子はとてもとても悲しみましたが……でも、幸せそうな王子とお姫様の顔を見ると、  とてもホレ薬を自分の為に使うことなんて、できなかったのでした――それでも」 薄いコートを脱ぎ去り、ゆっくりと立ち上がる。 夕陽を背にした彼女が、みるみる王子に恋した小さな少女へと変化する。 私は息を呑み、その切なさに潤んだ漆黒の瞳を見上げる。 今日という日は――もう何度、彼女に驚かされたかわからない。 刻々と変化する、あの空の様に――見る間に色を、形を変えながら、彼女は紛れもなく彼女として、人の心を揺り動かす。 忘れかけていた何かを、忘れてはいけない何かを、思い起こさせるのだ。 「ああ、王子様――私は、あなたが幸せだと知っていながら、信じていながら、それでもあなたのその心に直に触れてみたいと思ってしまうのです――  あの舞踏会の日、私にくれた薔薇の花……もう一度だけ、あなたのその手で、私の胸に届けて欲しいと願ってしまう、  私はとても我侭で自分勝手な女の子なのです……」 琥珀の毒薬を抱えて、切ない恋に震える少女の眼の色が僅かに変化する。 すぐ傍で女の子がびく、っと肩を竦めたのが伝わってきた。 小さな子に、恋する狂気なんてわかるはずない、と頭ではそう思っていても。 だけどその場を支配していたのは、紛れもなく苦しい恋に血の涙を流す少女の嘆き。 誰も目を離すことなんて出来ない、ドキドキと痛みに引き裂かれそうになりながらも、一瞬だって背を向けることが出来ないのだ―― あまりにも、美しい、その命の輝きを前にしては、決して。 「この毒薬は――既に幸せを手にした者が飲むと……  一口でも飲むと、忽ち全身に毒が回って――死んでしまうという、恐ろしい薬。  指先から一寸刻みに刻まれる、地獄の業火に焼かれるような苦しみが襲い掛かる、悪魔の薬なのだ……娘よ、それでもお前はこの毒薬が欲しいのかい?  もしかしたら幸せな王子は死んでしまうかもしれないよ、お前のせいで――  それでもお前は飲ませる、というのかい?その自分勝手で我侭な思いのままに……  王子が死ねば、お前も死んでしまうかもしれないのに――」 す、っと揺れる毒薬を胸に抱え、少女は小刻みに頭を揺する。 「わからない――わからないのです。自分でもどうしたらいいのか……  だけどこの恋は、この想いは、この薬なしにはきっと叶わない。  ああ、それで王子が死んでしまったとしたら、私は、私は――」 女の子と私は、二人同時にゴクリと息を呑みこんだ。 夕陽は既に雲の彼方に沈み込み、冷たい夜気が地面から立ち上り始めている。 と――遠くで、女の子の母親がその名を呼ぶ声がした。 彼女は、ふっと仮面を外し――即席の舞台はあっという間に風に消えた。 「ねえ、どうなるの?女の子は――毒、飲ませるの?  王子様は死んじゃうの?ねえ――」 早く、何してるの、知らない人と――と、小さな声で叱りつける母親の腕の下から、女の子はいつまでもぴょんぴょんと顔を出し、こっちを向いて叫んでいたが…… やがてその姿も消えると、薄暗い公園の片隅には、私と彼女の二人っきりしか取り残されていないみたいだった。 二人とも無言で――じっと、膝の間に置かれた毒薬を見つめている。 ジジ、っと電気が弾ける音がして、青白い外套がぽつり、またぽつり、と数を増やしてゆく。 「あの――」 と、口を開こうとしたその時。 ブブブブ…… くぐもった、低い音が――草の上に丸くなった、彼女のコートの中から響いてくる。 まるで遠い昔の夢の様な、あの光景が瞼の裏に浮かぶ。 向かい合った二人、すれ違いの心と言葉…… 仮面を取り去った彼女は、ほんの一瞬だけ私の顔を見ると―― ぐ、と下唇を噛んで、それから静かにコートのポケットに右手を忍ばせた。 固く冷たく震える金属を握りしめる、その汗と掌の熱さえ伝わってきそうな程に。 そして―― 王子に毒を飲ませる為の、彼女の決死のお芝居が始まった。 >第4話に続きます。 web拍手 by FC2

あちゃあ…今度はマヤちゃんが勝手に動き出した…^^;
次は〜次こそは〜!!

    

last updated/11/03/23

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