『服従』



「速水さん」

今にも消え入りそうな、掠れた声が呼び止める。
俺の未練。
甘い毒。
最後の悪足掻きに、無関心を装った視線をつくって足元の女を眺める。

「あたしのしたい事は」

寒さに肌を粟立てながら、マヤは自分の肩を掻き抱く。
俺はまるで死を宣告されるかのような心持ちで、じっとりと掌に汗をかく。

「この、遊びを続けること」

違う、本当は遊びじゃない、見え透いた誤魔化しだとわかっているはず。
この期に及んで何故くだらない嘘に乗じるんだ、マヤ。

「あなたの言う通り――遊びは今夜で、お終いです。」

それで?

それで君の、気持ちは。

「そして、明日からあなたは紫織さんと幸せになる。
 それが、あたしがあなたとしたい事、の答えです。」

何かがふっつりと切れた、確実に。
俺は多分初めて、その幼い頃から見守り続けてきた女に増悪に近い感情を抱いた。
何ということだろう、あの婚約者の自分に対する執着心が少しだけ理解できたような気がする。

「――お幸せに、どうかお幸せに、ね。
 君に俺の幸せの何たるかを理解してもらう必要はない。
 まして願ってもらわずとも結構。」

怒りを抑えながら、俺は言葉を選んだ。
的確に彼女を追い詰め、今宵で最後だと宣うその唇に厳罰を下す為に。
マヤは目を見開いたまま、言うことを理解できない子供みたいな顔でぽかんと俺を見上げている。

「大体、遊びにはルールが必要だ。君はそれを忘れている」

「ルールって・・・・・・」

「いい加減本音を吐け、マヤ。それがルールってもんだろ?
 君は自分の都合のいいようにゲームを進めようとしてる、狡い子供みたいに、まるで大人のする事じゃない。」

「な――なんでそんな風な、嫌な言い方するんですか!?
 あたしの気持ちなんか、知りもしない癖に!」

「君の気持ち?わかる訳がない、君はいつも泣くか怒るか黙り込むかで、本当のところどう思ってるなんてこれっぽっちも俺に差し出す気なんてない癖に。もうその手には乗らない。遊びは今夜でお終い?そんな都合のいい話があると思うか?中途半端な所で放り出してすまないが、不満なら自分でオナニーでも何でもして自己処理してくれ。何なら桜小路でも呼んでやろうか?嫌なら他の男でも女でも見繕ってやるよ――何せ君は大都の紅天女様だからな、何だって思い通りだ、だが俺はそうはいかない」

壊した。
全部ぶち壊しにした。
積み木の塔を倒すどころではない、俺とマヤの間にあるもの、紫の薔薇の絆さえも完璧に。
マヤはまだ俺を見上げている。
さあ、また泣き叫ぶのか?
それとも怒り狂ってお得意の「大っ嫌い」か?
何だって来るがいい、もうどうだっていい。



――長い、長い、本当に長い、どろりと流れる泥のような時間。



マヤは――


深く項垂れた。


そして再び上げた顔は。


驚く程、透明感に溢れた、優しい顔だった。


「――ごめんなさい」

虚を突かれた俺は、先程のマヤと多分全く同じ顔なんだろう。

「ごめんなさい、速水さん。
 狡くて、子供で、ごめんなさい。
 でもそうでないと――本音を言ってしまったら、あたしも、あなたも、多分駄目になるって」

誰が。
誰がそんな事を決めた。
君が決めても、俺は認めない。
ああ、そして、君の本心は――

「そう思って、ずっとずっと我慢してきた――けど、でも、もう、許してくれないんですね。
 あたしは・・・・・・あたしは、あたし、あなたが」

俺の足元で四つん這いになって、懺悔するかのように顔を歪める。
白く嫋やかな、何よりも美しい生き物。

「あなたが好きです。大好きです。おかしくなる位、好きで――実際、もう半分くらいおかしいんだと思います。
 だから言います、あなたが言わせたんだから絶対に怒らないで聞いてください」

細い指が床の上を這うように進む。
俺の革靴の爪先でぴたりと止まり、恐る恐る、でも確固とした声で。

「あたしは、あなたを見ていたい。そしてあなたにも、あたしを見て欲しい。
 紫織さんと結婚しないで、誰も側におかないで、誰もみないで、あなた一人っきりで、ただあたしだけを――見ていて下さい・・・・・・」

懇願する姿が、これ程美しいと思ったことはなかった。
平伏すなどただ弱さを示す擬態に過ぎず、俺には理解できない行動のはずだったから。
だけど足元に平伏されながら、その実全身全霊で懇願しているのは俺自身なのだと、誰よりもよく理解していた。
彼女はそれを抉り出して体現して見せただけだ、そこにいるのは、その言葉は、紛れもなく俺自身のものだった。

ゆっくりと、屈み込む。

冷たくなった頬に掌をあてると、ぴくりと怯えたように目を閉じる。

そしてまた、そろそろと見開かれる、深い漆黒。

俺はその中にゆっくりと沈み込む。

互いへの服従の印に、その漆黒に舌先で触れる。

ひたり、と冷たく柔らかい、なんて心地良いのだ、この泥沼は。

その底に光が差すのを、俺もいつまでも見ていたい。

そして、そうやって俺だけを、俺一人だけを、見上げていてくれれば、それでもう。


「──最高に、幸せ。」

END.

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原作中マヤたんが「どうかお幸せに!」と叫ぶ度にイラッときている読者は決して少なくないはず……たぶん、きっと。
社長もそろそろキレるべきだと思う。
「おま……調子こくなよっ!」とな。
そんな気持ちをこめて(嘘)書き上げたSSです。 どちらがどちらにひれ伏しているのかは一瞬ごとに入れ替わる、と。
目玉に舌を這わせるシーンははナボコフ『ロリータ』より。
シチリアだかブルガリアだかの、目のゴミの取り方なんだそうな(今ネカフェにいるのでうろ覚え。
大変エロチックなシチュエーションではありますが、日本人にはあまり馴染みのない取り方ですよね(笑)

last updated/10/17

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