last updated/10/12/19
暖房は十分に効かせてあるはずなのに、どうも背筋が寒い――と、ふと振り返った窓の外にみぞれのような雪が落ちてゆくのを見て、速水真澄は僅かに眉を上げた。 「あら、初雪ですね」 折よく、コーヒーの乗ったトレーを掲げた水城がドアを開けて入ってきた。 白い湯気と共に立ち上る豊かな薫りに、小一時間程しかめっ面で書類を睨み付けていた顔をやや緩めながら、ぐっと背筋を伸ばす。年末めがけて忙しさの度合いは天井知らず、昼も夜もなく会社に入り浸り――の毎日ときたら『仕事の鬼』の名に恥じないものだった。が、如何に真澄とはいえこうも連日残業が続くと、体力より先に気力の方が滅入ってくる。 世間一般の感覚などほとんど持ち合わせていないが、不景気とはいえ世の中がクリスマスだ何だと浮かれきっている最中に、だだっ広いオフイスの真ん中で一人ぽつねんと機械的な作業に没頭している自分が何だかとてつもなく空しく感じられて、彼にしては珍しく情けないような溜息をついてみせた。 「……何だ」 机の上に置かれたカップを手に取り、口を付けようとした時、意味深な水城の視線に気が付いた。 トレーを膝の上で支えながら、眼鏡の奥でじっとこちらを見つめている。 「いい加減、ケリをつけられては如何ですか」 「何の事だ」 「敢えて申し上げません。婚約解消に伴う厄介な案件は峠を越しましたし、汐留駅周辺開発プロジェクト始め今年度の主要なプロジェクトは全て順調に成功を収めました。今や表立っては誰も貴方の『気の迷い』に異を唱える者はおりませんし、むしろ先見の明があったと評価されている位ですわ。つまり――」 「ああ、もうこんな時間か。確かにこの辺でケリをつけないとな――君もいい加減帰ったらどうだ」 わざとらしく眉を上げながらコーヒーを啜る、その姿に水城はあからさまに不愉快な顔を差し向けると、くるりと振り返った。 もう二度と、この天邪鬼な男に余計なお節介は無用だわ――と決意しながら。 「――冗談だよ。確かに君の言うとおりだが……まあ、今更身動きが取れないのが実情で」 「……あとたっぷり八年、同じ事を繰り返しては如何ですか。 まあその間に彼女が別の誰かとどうなっていてもおかしくありませんけどね」 それに対しては何とも言い返すことができず、肩を竦めている間にドアがパタンと閉じた。 まだ熱く芳醇な薫りを放つそれが急に苦々しいだけに感じられて、真澄はカップを机の縁に置くと椅子を返して広い窓に身体を向けた。 僅かに結露した表面を、いかにも寒々とみぞれ交じりの雪が流れてゆく。 その向こうに広がる無数の人工の光の粒が、疲れた目の裏に気怠く点滅した。 眠りたいのに眠れない、間延びした時間――その間に浮かび上がるあの子の輪郭が何故か怖くて、ただ仕事に身を埋める事でやり過ごす空虚な時間――もうあとどれだけ、こんな夜を繰り返せばいいのか…… 馬鹿馬鹿しいと、水城が非難するのも無理はない。当の自分が一番呆れているのだから。 だけど今更――名乗り出たところで、想いを伝えたところで、一体何になる? 輝かしい未来に向かって若い命を燃やしている、あの子にとって自分のような男の惨めな想いが一体何の役に立つというのだろう。 これまで幾度だって「その瞬間」を想像したことはあったし、時には告白の台詞を何パターンも組み合わせて実行しかけた事だってあった。 けれど――困惑と絶望以外、彼女の表情を思い浮かべることができない。 自分の想いが成就すればそれでいいなどと自惚れているつもりはない――が、どんな形とはいえ彼女を不幸に陥れることだけは避けたかった。 その最たる形が――紫のバラの真実を知る事なのだろう、やはり。 ああ、時間だけはたっぷりと重ねてきたはずなのに。 あの子と自分との間には碌な絆が何一つありはしないのだ、偽りの影を除いては。 このままでは延々と思考のループに陥っているうちに夜が明けてしまう。 真澄は軽く頭を振り、カップの中身を無理矢理空けた。 パソコンの電源を落とし、数秒で身支度を済ませて社長室を出る。 水城はとっくに帰ったらしく、シンと静まり返った秘書課は緑色の非常灯に薄ぼんやりと浮かび上がっている。 突き差すような底冷えの空気に、外は更に冷え切っているだろう事が予想された。 直通エレベーターで一気に着いてしまうとはいえ、地下駐車場に止めてある車に移動するのがすこぶる億劫だと思ったが、そんな事を考えてしまう自分が遂に「いい年したオジサン」になってしまったような気がして、これまたそんな思考回路に陥る自分にうんざりし、ついた溜息は室内の癖に白い息となって出ていった。 雪は好きだが、たぶん今外にびしゃびしゃと落ちているのは、都会の空気に汚れた灰色の氷水に違いない――タイヤは滑るし視界は悪くなるし運転が面倒だ……と、一度マイナス方面に転がり落ちた思考はどんどん暗くなる一方で、こんな事なら今夜は社長室のソファで一杯やって寝込んでしまうのだった――と、車を地上に出しながらふと右手に視線をやったその時。 濡れたアスファルトとビルの狭間の闇に溶け込みそうな程小さく、だが紛れもなく、居た。 「……マヤ?」 一応、幻の可能性を疑いつつも、窓を開けて声をかけた。 が、幻ではない証拠に、痛い程に肌を刺す夜気と共に飛び込んできたのは。 「うっそ――速水さん、まだいたんですか?」 どこか泣き出しそうな――いや、確かに泣いていたのだろう、目の周りと鼻の頭を真っ赤にしたマヤが、言葉だけはぞんざいに、でも情けないような笑顔で呟いた。
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