第2話



「馬鹿、いつからそこにいたんだ?さっさと入れ、風邪引くぞ」

心からの心配と、うっかり本音を滲ませてはいけないとの長年の習慣から、優しいんだかそっけないんだかわからないトーンの声が出てしまった。
マヤは一瞬たじろいだ様子だったが、特に躊躇するでもなく、二、三歩前へと足を進める。
どちら側から乗ればいいかと迷っている様子だったので、真澄が助手席側に腕を伸ばして開けてやると、おずおずと回り込んできた。
空いた扉から吹き込む冷気は肌身に寒いはずなのに、何故だか酷く心地良く感じられた。

「……ぐしゅっ」

座るなり、いかにも水っぽい音を立ててくしゃみをされる。
一瞬でそこら中が風邪菌だらけだな――と頬が緩むのを何とか抑え、スーツの胸元からハンカチを差し出してやった。

「い、いいです……持ってますから。
それに、風邪っていうより、泣いてたせいでこうなっちゃったんで」

「泣いてた?何で」

改めて彼女の全身を観察してみると、薄手の紺色のピーコートの先から真っ赤に染まった膝先が露出し、その下は厚手のタイツとブーツに覆われていた。
首元はざっくりと編まれた薄ピンク色のマフラーでぐるぐる巻きにされているものの、真っ赤な指先から察するに手袋もつけていないらしく、夜風に掻き回された髪の毛から垣間見える薄い耳朶も痛々しい程に紅い。
雪は降り出す前が一番冷えるというのに、この恰好でどれだけ長い間外にいたのかと考えて、真澄は本気で説教をせずにはいられない気分になった。

「というかこんな時間にこんな場所で何してたんだ本当に。
俺に用があるならいい加減アポを取るってことを覚えたらどうだ?
待伏せも程ほどにしろ、危なっかしいな」

「別に待伏せてませんよ。その先のミューズシアターで映画観てたんです。レイトショーの……すっごく悲しいお話で、途中からどんどん涙が止まらなくなっちゃって――で、気が付いたらもう時間だからって追い出されちゃって、ふらふらしてたら劇場に鞄忘れちゃったのに気が付いて――それで……」

「それで、俺ならこの時間まで残ってるだろうからタク代わりに使ってやろうと待伏せていた訳か。相変わらずだな」

なるべく冷たい口調を試みたつもりだったが、無理だった。
途中から笑いが止まらなくなり、遂にハンドルに頭をもたげて腹を震わせながら笑い始める。
全く、今夜の俺はどうかしている――と、半ば自分への自嘲も込めて。
どん底の気分からこの浮かれようときたら、実に可笑しい――彼女がそこに居る、というだけで、疲れきった真夜中の頭が呆れる程湧きかえっている。
彼女の方は決してそんな事ないのだろうけれど。

「笑いすぎですよ――デリカシーないんだから。
そんなんだからキレーな婚約者にフラれちゃうんじゃないですか」

「余計なお世話だ。で、何、君の部屋まで送り届けたらいいのか?」

「うん……そう、ですね――ハイ、できたら」

「歯切れが悪いな。どこか行きたい所でもあるのか?」

「いや、行きたいところっていうか――」

スン、と鼻をかみながら、マヤはぼんやりとフロントガラスにぶつかっては流れる雪の滴に視線をやる。
どこか虚ろなその視線、真っ赤に染まった頬と小さな額――
所々濡れた黒髪ごと抱き寄せたくなる衝動を堪えながら、真澄は呟いた。

「ああ……悲しい映画を観てしまったから、滅入った気分を何かで紛らわしたい、とか」

途端に、ぽかんと呆気にとられた顔でまじまじとこちらを振り向いた。
三〇センチ程の隙間を空けて見つめ合ったその眼が、嘘でしょ、と溜息をついている。

「速水さんでも――そんな気分になることって、あるんですか」

「あまり。滅入る程感情移入しないからね、ほとんどの場合」

――君の舞台は別だけど、という台詞を飲み込んで。

「じゃあ、とりあえず移動するか――平日のドライブにしてはだいぶ遅い時間だが。
君のスキな甘いものでも食べに行くか?こんな時間でも空いてる店はいくらでもあるだろうし」

「……ボーリング、若しくはゲーセンで身体動かすヤツがしたいです。
全部速水さんの驕りで。」

「え?」

突拍子もないセリフが飛び出すのはいつもの事だが。
この夜中に、大都芸能の速水真澄が女の子とゲーセンでボーリング……?

「……別にいいけど、ストレス堪るだけだと思うぞ」

「どういう意味ですか」

「何年もご無沙汰だが、それなりに上手い方だぞ俺は。君、絶対スコア100以下のクチだろ」

「うっ……そうですけど――でも、テキトーにやる格闘ゲームとか、結構強いですよ?」

「テキトーにやるののどこが強いんだ。せいぜいCPU相手に二人目までだろ」

「もう!!どこまでイヤミったらしいんですか!じゃあいいですよ」

「別にいいって言ってるだろ。ただ遊びだろうが何だろうが俺は手加減しないから、ふて腐れて後で文句言うなよ、と忠告してるんだ」

「奢ってもらって付き合ってもらってるのに不機嫌になる程お子様じゃありません」

奢って、という部分とお子様、という言葉を強調しながら口を尖らせる様子は、最初に見た時よりもずっと明るく生き生きして見えた――まるで出会った頃の彼女とやり取りしているように。

そう、この所の二人ときたら、隔てるものはただ互いの臆病さとタイミングの悪さだけといった調子で。
時々顔を合わせる事はあってもかつてのように軽口をたたき合う事もなく、淡々と近況報告と事務連絡を交わすのみで。
その癖聞きたいことは、言いたいことは山のようにあって、そのどこから手をつけていいか考えあぐねている内に別れてしまう――水城が呆れかえるのも無理はないのだ。
折角最大の難関――意に沿わぬ結婚、という非常事態をクリアしたというのにこれでは、数年前と状況は何ら変わらない。むしろ後退していると言っていい。

だけど――今夜は何かが違う。
いつも通り、不器用なやり取りを交わしながら、どこかくすぐったいような感情を共有していると思いたくなる、仄かな何かがある。

「じゃあ、行くか――ついでに相談したい事もあるし」

「相談?あたしに?」

そう、と頷きながら、真澄はゆっくりと車を進ませた。
灰色に潰れた雪とはいえ、雪は自分にとって幸運の兆しなのかもしれない――いつかの夜と同じように。
緑色に光る信号と共に、凍てついた街を彼女と走る。
伝えたい気持なら抱えきれない程に。
だけどどんな言葉も物足りなくて――引っ張り出しては、これでいいかと眺めまわして、溜息をついて再び仕舞い込む。
他愛ない軽口なら幾らでも――だけどそれ以外の何かを、今夜くらいは伝えてみたいのだと密かに決意しながら。

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last updated/10/12/20

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