last updated/10/12/23
背の高い男だ、という事は出会った当初から圧倒的な事実な訳で。 でも小柄とはいえ決して言われる程にはチビっこい訳でもない自分なのに、この男を傍にすると――その腕の中に囲われ、視線でがんじがらめに縛られてしまうと――本当に、ちっぽけな小動物にでもなってしまった様に、小刻みに震える心臓の鼓動が止められないのが悔しい、とマヤは必死で考えていた。 狭い箱の中で、自分の首の下あたりで不審そうに目を瞬かせるマヤを見下ろしながら。 真澄は次の台詞を、行動を、その結果を、未だ臆病に計算している自分に呆れつつ、それでも目を離さずにはいられない――下まで降りるこのひと時が永遠に続けばいいのに……と、彼にしては非常に珍しくセンチメンタルな気分に陥っている事に気づく。 視界の隅で、階数表示の数字がどんどん降下してゆくのが見えた。 四階に差し掛かった時、遂に口を開いた。 「マヤ」 「速水さん」 二人、全く同時に。 「何ですか」 「君の方こそ」 三階――ガクン、と大きく揺れる。 よろめいた拍子に肘が折れ、壁際に追い詰めていたマヤの顔の近くにぐっと近寄ってしまう。傍目にも大きく動揺した彼女のその表情に、柄にもなく真澄もギクリと身を強張らせた。それと同時に扉の開く気配を察し、慌てて密着しかけた身体を離す。 数名の学生グループが乗り込んできて、緊張で張りつめていた箱の中が俄かに賑やかになった。その空気にホッと胸を撫で下ろしながら、彼女の横に身を寄せる。 集団の中で頭一つ抜け出した男が、相変わらず口元は緩めながら――その長い指が自分の左手の爪の先をそっと掠めていった瞬間を、末端まで敏感になっている感覚が受け入れる。 爪先から痺れるような――まるで高い場所から足元を覗き込んだ時に背筋を走るようなゾクゾクする刺激――に、もう頬はこれ以上赤くなりようがない、とマヤは思う。 どうやってエレベーターを出て、その建物を離れたのか、そして今何処に向かおうとしているのかわからない――ファミレスはもう何件か通り過ぎたけれど――などとぼんやり考えつつ、大股で自分の目の前を歩いてゆく背中を追う。 雪は降り積もる事なく、泥混じりに道路を黒く塗り潰し。 古ぼけたブーツの先から、ほんのちょっぴり水が浸み込んでくる、のも気にならない。 キンキンと肌を刺すような冷気も――今は気持ちいいいくらいだ、興奮して火照った体にはこれ位で丁度いい。 さっき、彼は何を言おうとしたんだろう―― そして自分は…… 数時間前まで、泣きに泣いて落ち込んでいたのは。 何も映画のお話のせい、だけでもなくて。 今夜のレイトショーに誘ってきたのは桜小路で、もうずっと長い事流れていた約束だから断りようがなかったというのが実際だった。 クリスマスイブの、今日という夜を。 二人きりで過ごす事の意味を、如何に鈍感なマヤとはいえ察する事ぐらいはできる。 まして彼からは事あるごとに「想い」を告げられてきたのだし―― 『……え、でも舞さんは?』 と、ごく普通の疑問を投げかけたら、困ったように苦笑されて、答えられた。 『舞とは別れたんだ――理由は、わかるだろ?』 ……だったら、あたしの気持ちもわかって。 なんて。 そんな台詞、日常生活で笑って言える程器用じゃない。 舞台を降りた自分という人間は、とんでもなく不器用に人を振り回して傷つけてばかりだ――と、穏やかな微笑の下で必死の想いを隠しきれない桜小路に向かって、内心そっと謝った。こんな優しさは、きっと優しさでもなんでもない、無駄な期待を与えるだけだと。 そう、わかっているのに――どうしてまた曖昧に笑いながら頷いてしまうんだろう…… 本当に、自分で自分がイヤになる、と思う。 大体、映画やお芝居を観に行くのに、誰かと連れ立って行くのは正直苦手なマヤであった。 苦手、というよりも、一度お芝居の世界に入り込んでしまうと周りの事が全く見えなくなってしまい、同行者とコミュニケーションが取れないのが元でクレームを受ける経験なら嫌になるくらい味わってきたからだ。 案の定、出だしは憂鬱だったそのデートも、雰囲気のいいレストランでの食事を済ませて一度映画館の中に入ってしまうと。 あっという間にその世界に浸りきってしまい、頭の中にはさっき聞いたばかりの登場人物たちの台詞が踊り、美しい映像の断片に思考回路はくるくると翻弄されて。 いつもなら単純に役の世界に没頭するだけなのに、それは余りにも切ない、誰にも言えない自分の秘密と重なる所もあるような恋愛映画だったので――自分と重ねて映画を観る、なんて普通の人なら当たり前の行為も、マヤにしてはちょっと珍しい経験だったのだ。 そのお蔭で――隣でそっとその横顔を伺う視線にも、映画が終わって肩を軽く叩く気配にも、いつもにも増して全く気付く事ができなかった。 虚ろな足取りで引っ張られるようにその場を離れ――させられ。 何度か大きな声で呼ばれた、と思ったら。 『マヤちゃん――!!』 余りに、必死なその声は。 いつも穏やかな彼が――少しばかり非難するような色を湛えて、悲しそうにこちらを見つめているのが、ようやく視界の中に意味を伴って入ってきたのだ。 そしてその瞬間。 自分でも思いがけない台詞が飛び出した。 『あたしの好きな人の話、してもいい?桜小路君』 ずっとずっと、好きな人、なの。 もうわかってると思うけど、諦められないのも、それで苦しんでるのも、あなたはずっと傍で見ていてくれてたからきっとわかってると思うけど。 報われなくてもいい、とか、そんなキレイな事思ってるわけじゃなくて、ね。 今でも逢いたいの――今すぐ、声が聞きたいの。 何を考えてるのかわからなくても、ただ傍にいたい。 会話なんかなくていいから、黙って傍にいたいだけ。 だから、だからね――本当は今すぐ走って行きたいの、その人のいる場所まで。 ごめん、桜小路君、あたし今日一日、ずっとその事しか考えられなかった。 あなたと一緒にいるのに、これっぽっちもあなたの気持ちを考えてあげられない。 こんな酷い事ってないよね――だから、もう、お願いだから。 こうして誘ったりとか、もう暫くやめて欲しいの―― そして――駆け出した。 追ってくる気配がないことに気づく余裕もなく、ただただ走りたかった。 百メートル程走って、鞄を彼の手の中に置き去りにしている事にようやく気が付いた。 財布も、携帯も、何もかも。 でも勿論、戻る気になど到底なれなくって。 人通りの少なくなった、それでもクリスマスのイルミネーションに彩られ賑やかな街中を、鼻水を啜り上げながら走るのは実に苦しかった。 誰にぶつかっても、さほど嫌そうな顔もされず無視される。 浮かれた夜には涙顔の女の子の一人や二人、いてもいなくても同じなのだと云わんばかりに。 ――ああ、それならせめて。 冷たく人を小馬鹿にしたような台詞ならお手の物のあの男に。 馬鹿、でも何でもいいから一言もらえたら、それだけでもう…… クリスマスの夜に奇跡がおきる――なんて、すっかり信じてる程お子様じゃない。 奇跡は降ってわいたりしないのだ――ならばせめて、走って捕まえたい。 今日という夜、今夜くらいは……伝えられなくてもいいから、ただ傍に…… 滅茶苦茶に走っているつもりなのに、自然と足はあのビルに向かっている。 通いなれたあの道、もう見たくないと何度となく思ったエントランスの石畳、威圧するように聳える大都芸能本社ビルの――首をぐっと傾げただけでは決して見えない、最上階にいる、かもしれないあの男目指して、泣きながら――走ったのだった。 「――わっ……」 小さく叫ぶと同時に、こちらの様子などお構いなしに見えた背中が素早く反応した。 ずるっと足を滑らせかけてよろけた体の、二の腕をしっかりと捕まえられた。 お蔭で何とか濡れた地面でコートを汚すことだけは免れたようだった。 かなり早足で歩いていた事もあって、マヤの頬は真っ赤に、額には薄ら汗まで滲んでいる。 何か眩しいような顔で自分を見上げるその姿に、黒く煌めく瞳の中に、しっかりと捉えこまれた自分の存在を意識し、真澄は――ようやく立ち止まって、言った。 「君に相談の件、だが。ファミレスじゃなくてここで言ってもいいか?」 「――あ、ハイ。何ですか、改まって」 ぎゅっと握られた二の腕の力が緩まない。 掴まれた姿勢のまま僅かに肩を上げて、上ずりそうな声を抑えて、マヤは応える。 真澄はふと首を上げて空を見上げた。 ――どんよりと淀んだ雲だらけの夜、星も月もなし、か。 まさかこんな場所で、こんなタイミングで。 何年もの間ずっとずっと想い続けて悩み続けてきた――一言を、言ってしまうのか、俺は。 いつのまにか寂しい通りに出てしまったようで。 ロマンチックなイルミネーションもツリーも何もない、シャッターの閉じた商店が軒を連ねるだけの灰色の街、人っ子一人いないその只中で、冷たい風が吹きすさぶ中で向き合う。 「……この年になって、この時節にも関わらず、聖夜を共に過ごす彼女もなしで馬鹿みたいに仕事漬けだったんだ、三時間前まで。眠くて疲れた上に外は冷えきっている様だし、雪で帰りの運転が面倒だし、何よりその程度の事で憂鬱な気分に陥ってる自分が面倒臭くて、最低の気分だった、君に会うまでは」 掴んだ腕をそっと離す。 ぎこちなく降りてゆく腕の先――コートの裾の中に埋もれてしまいそうな、冷たい指先にそっと手を伸ばす。 戸惑いつつも、マヤもゆっくりと手をさし伸べてきた。 弾かれるのを覚悟しながら、思い切ってその手を握りしめる。 その瞬間、ぎゅっと、突然呼吸が苦しくなったのは何故だろう――と、二人してぼんやり考えながら、でも身体は勝手に動いてしまう。 握手するように繋いだ掌が、どちらからともなく互いの指に指を絡めながら繋ぎ直される。 「君といると退屈しない、っていつも言ってきたけど、正確じゃない。 君といるのが俺は楽しい。もっと君の傍に居たい、と思ってしまう――だから」 すうっと、緊張した胸の中に空気を送り込む。 柄にもなく火照った身体に冷たいそれが隅々まで行き渡り、最後の躊躇を蹴散らしてゆく。 真っ直ぐに澄み切った瞳が、揺らぐ自分を映し返す。 「だから、もし君がイヤでなければ――俺と、付き合ってくれないか?」 ああ、もちろん付き合うってのはたまに一緒にゲーセンに行くとか、あてもなく深夜徘徊を共にするってだけの関係じゃなくって……と、半ば照れ隠しに付け加えようとしたら。 「……嘘、じゃああたし、傍に居ても――いいんですか?」 ほろっと、大粒の涙が滑らかな肌を伝い、落ちてゆく。 小さく呆気にとられた自分の顔が、ゆらゆらと涙の膜に揺れて――柔らかな睫の中に消えてゆくのを、まるで奇跡でも目の当たりにしているかのような心持ちで、真澄は見つめる。 「は、速水さんの――傍に、今夜だけじゃなくて、いてもいいって―― 付き合うって、そういう意味の付き合うって事だって、かっ、勘違いしてもいい?」 握りしめた指先から、流れるように伝わってくる。 まるで血の巡りまで一緒になってしまったような――温かさと、愛しさが、とめどなく。 「勘違いじゃない……そういう事」 はあっ、と息をのんだその頭ごと、空いている方の腕で抱きしめた。 ふわっ、と倒れてきた冷たい黒髪が、真澄の掌の中でぐしゃぐしゃに掻き回される。 ずっとずっと、したかった事―― 何気ない会話の中で、さり気ない仕草で触れながら、密かに願っていた。 その身体を思いのままにしてしまえたら、恐れや戸惑いごと抱き潰してしまえたらと。 押し当てた胸元がじんわりと熱く熱を持つ――彼女の熱と、自分の熱と。 もっと伝えるべき言葉はあるはずなのに、どうしても言えなくて、言葉にならなくて。 だったらせめてこの熱から伝わればいいんだ――と。 どこか心地良い自棄っぱちな想いごと、ますます強く、その肩を抱きしめた。
last updated/10/12/23