第1話




本作には以下の傾向が含まれます。

自慰、オーガズム、「閃光」って使い古された感否めないけどそれ以外の表現ないよね、楽屋@鍵付


終幕――虹の世界は緞帳の奥でたちまち現実を取り戻し始めるのだ。 人や物で溢れかえった忙しない廊下を、その人物は大股で軽やかにすり抜けてゆく。 飛び抜けた長身に加えて人目を引く容姿、何よりこの劇場経営の最高責任者ともなればその顔を知らない者とていない。 擦れ違う人々は一様に驚きの声を上げ、目礼しつつ慌てて彼の為に道を開けた。 誰がどう見ても、今の速水真澄に近寄ればロクなことにならないのは明らかだった。 彼は今、どこからどう見ても不機嫌――いや、怒り心頭といった面持ちで、近寄るもの全てを視線で断ち切りそうな勢いで歩いていたのだ。 バタン。 勢いそのままにドアを開け、乱暴に閉めると、中に一人ぽつんと座っていた女優がビクリと肩を震わせた。 舞台後の余韻冷めやらず、いつものように一人で、心から抜け落ちてゆくもう一人の自分との別れを終えようとしていた、まさにその時だった。 「あ、速水さん――」 「・・・・・・」 全身から不機嫌オーラを臆面もなく放出していた彼であったが、その怒りの源である彼女――北島マヤをいざ目の当たりにすると、それをどう発散させればよいのか途方に暮れてしまう。 「ごめんなさい、怒ってますよね。でも――観て、くれましたか?」 「当たり前だ。俺が君の舞台を観ないはずがない。それを承知の上で強硬出演したんだろう」 「・・・・・・どうでしたか」 「・・・・・・」 速水真澄はこの瞬間、ありとあらゆる様々な言葉を脳内に羅列し、最も効果的な一打(今回に関しては、例にないほど辛辣に)を彼女に加えようと思ったのだが、かなわなかった。 自分の情けない感情・・・・・・・つまり、嫉妬や焦りから発生する言葉など、長年の彼女の最大の理解者である『紫の薔薇の人』が許すはずがないのである。 「芝居全体の感想はひとまず置いて、君の役に関しての感想は二つ。」 マヤは静かに居住まいを正す。 真澄が自分の芝居について語る時、そこに甘さや偽りがないことを誰よりもよく知っているから。 全身を耳にして、マヤは真澄の言葉に集中する。 真澄にとっては、仕事上のどんな重要な決定よりも緊張する一瞬である。 今回マヤが出演した芝居は、数年前にアメリカで公開された映画を元にした舞台で、そのテーマはずばり『SEX』。 仕事に私情は交えないはずの真澄が断固マヤの出演を反対した理由である。 映画自体もかなり際どい描写が大半を占め、日本で公開された時にはほとんどの部分がモザイク処理される、という異例の自体となった作品だが、SEXそのものをリアルに描写しながらも、人間の欲望の哀しさ、愛しさをユーモアを交えて表現したことに対する芸術的評価も高く、話題となった作品だった。 複数の主人公を中心に交錯してゆく物語の中における、マヤの役割は「オーガズムを知らない女」。 愛する夫に恵まれながらも、実は夜の営みで満足したことは今まで一度もなく、「演技」し続けることに疲れてしまった女が、”色々と”試行錯誤する――というわけで、舞台化に際して映画のような「直接的」場面こそなかったものの、演出はかなり過激なものとなった。 マヤの最後のシーンは、夜の公園での自慰行為。 台詞は一切ない。 生まれて初めてイキそうになる、ものの、結局失敗に終わってしまう、というオチで、この後にマヤの出番はない。 ”イケなかった”ことを観客に理解させつつ、エロティック以上の何を伝えるかが鍵となる、とても難しい場面だった。 真澄は複雑な感情を一時避難させ、その場面を思い出しながら言った。 「際どい役柄、演出にも関わらず――滑稽で、それでいて可愛らしくて、いじらしかったよ。  30代、いや40代くらいまでの経験ある女性なら、恐らくほとんどがルーシーに親近感を覚え、自分と重ねながら観ていたことだろう。  それだけに、結局彼女が”イケなかった”ことに関しては男女で感想が大きく異なるだろうな。  女性なら理解できるルーシーの感情が、多分男には理解できない――というか、理解以前に不満と不安を覚えるからだ。そこに男女の間に横たわる断絶をリアルに見せつけられるわけだが、どういう訳だかさほどそれに不快感を感じさせないのが君の演技の絶妙なところだ。不器用な人間の感情のズレが、それだからこそ愛おしいと思える――ルーシーの最後の微笑みからそれがよく伝わってきたよ」 マヤは思わず小さな溜息をついた。 そう、この芝居に於いて最も難しかったのが、最後のルーシーの表情だった。 台本には『寂しく笑う』と書いてあった部分。 確かに寂しいかもしれない、だけどそれではあまりにもルーシーが、観客が、女の子が、可哀想だと思った―― だから、演出家を根気よく説得して、演技を変えたのだった。 まるで孤独な天使のように、慈愛に満ちた微笑へと。 それは彼女の愛する者への微笑でもあり、彼女自身への慈しみでもあり・・・・・・ 「あたし、ルーシーには幸せになってほしかったから――例え肉体的には寂しい思いをしていても、だから不幸なんだってことにはしたくなかったんです。二人の間に越えられない溝があったとしても、それでも愛することを止められない女性の想いを、あたしなりに表現したくて。」 「一歩間違えればただのポルノだが、そこに意味を与えるのが芝居であり、役者の仕事だ。  危ない舞台ではあったが――まあ、よくやったんじゃないか」 「・・・・・・ありがとうございます」 マヤはうっすら涙を浮かべながら頭を下げた。 この芝居に出るにあたっては、真澄は勿論のこと、沢山の関係者からやめるよう忠告されたのだ。 自分だって、最初に話をもらった時は「絶対無理」だと思ったくらいなのだから。 しかし、渡された台本の、過激に過激な行為の狭間の登場人物の心理を想像してみると、何かひかれるものがあるのも確かだった。 狼少女から絶世の美少女、尚且つ自然界を統べる女神にして純愛の乙女まで演じた自分ではあるが、「性」という自分の一部に真っ正面から向き合ったことは勿論初めてのこと。役者としての幅を広げる上でも、挑戦する価値のある役だと思った。 もちろん真澄は最後まで反対し続け、一時はその権力を行使して舞台そのものを中止に追い込みかけたが、一夜限りの限定公演であること等の理由を挙げてマヤは粘りに粘り、最後は大喧嘩の末に強硬出演した、という次第だった。 「本当に、勝手な事しました。  『紅天女』のイメージを汚したって、思われるかもしれません。  解雇されても当然だと思います。好きになさって下さい」 きゅっと唇を噛み締めて自分を見上げるマヤに、真澄は心の底からお手上げだ、と思う。 解雇?そんなことをこの俺ができると、本気で思ってるならこの子は相当な―― 「・・・・・・一つ目の感想は以上だ。  二つ目は君の言う通り、『紅天女』だな。  役の幅を広げる上では確かに有効な芝居だっただろうが、原作自体の評価も真っ二つだった。  下劣なポルノか、前衛的な芸術作品か。性を切り口にした作品の避けられない運命ではあるが。  それにあの阿古夜を演じた北島マヤが出た、となれば――好意的な評価ばかりとはいかないだろう。  ボロクソに叩かれる可能性もある、が、そうした批評を受け止める覚悟はできているんだろう?」 「はい」 「なら、ご褒美だ」 真澄はスーツの上着の内側を広げると、無造作に一本の紫の薔薇を差し出した。 思いがけず現れたそれに、マヤの眼は釘付けとなる。 「え・・・・・・」 「流石に今回は花束にする気になれなかった」 「そんな――い、いいんですか?」 「いろんな意味で、俺は今回ばかりは君の芝居を観る気になれなかったし、観ても全く喜べないと思っていたんだが。 理由はわかるだろう?」 「はい・・・・・・」 膝を折って彼女に目線を合わせ、そっと薔薇を手渡す。 震える指先でそれを受け止めると、マヤは花びらの上にポロポロと涙を零した。 「が――全く、君って子は本当に恐ろしい子だよ。  あの舞台で感動するとはね。自分でも驚いた。完敗だ。」 「あ、ありがとうございます――もう、呆れて、嫌になっちゃったんじゃないかって思って――  ひ、批評とか、そういうの、どうでもいいんです。でも、速水さんに嫌われたらどうしようって、それだけが・・・・・・怖かった」 真澄は浅く溜息をつくと、泣きじゃくるマヤの顔を両手で包み込み、上を向かせた。 「以上で、『紫の薔薇の人』の感想は終わり。  速水真澄個人はまた別のことを思ってるが、聞きたいか?」 「は――っ」 返事の最後は唇により吸い取られた。 深く重ねられたそれは柔らかく、熱く、性急に動いた。 マヤが求められるがまま舌を絡めようとした瞬間、真澄はふいに唇を引き離した。 僅かに唇を開いたまま、マヤはじっと真澄を見上げる。 そしてその眼に宿る冷たさに怯えて、思わず睫毛を伏せた。 ああ、彼が怒るのも当然だ―― あたしは、速水さんの優しさに甘えすぎている。 だがそんな懸念は実は見当違いで、真澄はつい身の内に点じてしまった欲情の炎をどう扱うべきか悩んでいたのであった。 ただでさえ彼女に触れずにいるには困難が伴うのに、あんな姿を観てしまったのだから。 だが、今ここで彼女にその行為を押し付けてしまうにはあまりにも自分という男は嫉妬深く甲斐性がないようにも思われ、それでも情動を抑え込むことができずに、つい表情は険しくなってしまう。 マヤは今、最後の舞台衣装であるシフォンのワンピースドレスの上にローブを羽織っている。 衣装効果上わざとそうしているのだが、大きく開いた襟元は少し屈んだだけで中の赤い下着が見えるようになっており、パイプ椅子に座ったマヤを見下ろしている立場としては、あまりにも扇情的な光景だった。 ――これより、もっとあられもない姿を、芝居とはいえあれだけの観客や出演者、スタッフの前で見せていたかと思うと・・・・・・・ああ、まずい。一時避難させていた感情が、沸々と沸き起こってくる。 優しく、懐の深い『紫の薔薇の人』と違って、速水真澄という男のマヤに対する人格はかなり偏狭的で、見境がなく、歯止めが効かないと、本人は深く自覚している。 それは長年彼女に嫌われていると思い込んできた心の傷のせいでもあり、幼い頃から人を愛すること、愛されることに極端に恐れを抱いてきた習慣によるものでもあった。 マヤの自分への信頼や愛情を疑っているわけではないのに、自分の愛情がともすれば彼女を押し潰してしまうのではないかという恐れからか、つい必要以上に厳しく接してみたり、心と裏腹な行為をとってしまう。 そこで互いの感情を無駄にこじらせては深く傷つく、どうしようもない悪循環がもう1年余り続いていた。 どうすれば断ち切ることができるのか。 どうすればお互いを完全に受け入れることができるのか。 想いが通じ合った今も、そんなことで迷い続けている。 「舞台の間中、必死だった。  君はどうしてこんなに俺を苦しめるのかと、憎んでみたりもした。  でも結局、俺は君から目が離せなくて、君に飲み込まれてしまう。  もう、お手上げなんだ――君がその気になれば俺の心を壊すことはすごく簡単だってことを知っておくべきだ、マヤ。」 真澄はマヤの膝の上に崩れ落ちた。 その大きな身体は、マヤの細い腕の中で確かに震えていた。 ――あまりにも、切なく苦しい告白。 マヤは打ちのめされていた。 これ程までに自分が彼に影響を与えてしまっていると、知らない訳ではなかった。 わかっているつもりだった。 深く愛されていると、自分も心から愛していると。 でも、何もわかってはいなかったのだ。 単なる嫉妬だとか怒りでは済ませられない感情に、真澄はボロボロになっている。 そうさせたのは、他でもない自分だ。 「ごめんなさい――ああ、あたし、本当に馬鹿でした。  速水さん、ごめんなさい、許して」 震える指先で、自分の膝の中に埋もれる柔らかな髪の毛に触れる。 指を増やして、そっと耳の裏をなぞって、広い肩を抱きしめる。 「速水さんがいないと、あたしは舞台に立てない。  速水さんを苦しめてしまっても、あたしは舞台に立たずにはいられない。  変ですよね、本当に・・・・・・なんでこうなんだろって、自分でも苦しくなります。  でもあたし、速水さんのことがとても好きです」 心の底から、絞り出すようにして伝えた。 まだまだ足りない、互いを知るにはあまりにも足りないけれど、少しでも伝わることを念じて。 ――やがて、真澄の頭が動いた。 いつもの、柔らかな笑みを浮かべて。 「――まあ、あの阿古夜を観てしまった瞬間から、君を愛するってのがどれ程苦しいことか覚悟してたつもりだったんだが。 たまには俺も弱気になるって事」 その額をそっと撫でながら、マヤは弱々しく笑う。 「弱気な速水さんなんて、変なの」 「誰のせいだと思ってる」 マヤが静かに顔を寄せる。 真澄は僅かに顔を傾けてそれを受け止める。 艶やかな黒髪の中で、二人の唇が重なる。 真澄が片腕を伸ばしてマヤを引き寄せようとしたその時。 ドアをノックする鋭い音が楽屋に響き渡った。
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last updated/10/10/25

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