第1話




「砂漠が美しいのは、 
 どこかに井戸をかくしているからだよ」 

でもあの人の心ときたら、あまりにも滑らかで果てがないから。 
その井戸の深さも、場所も、あたしなんかには見当もつかないのよ。 
だから手探りで歩くの。 
そこに水があるのかどうかもわからないのに、ただ手探りで―― 

 

「そのまま夕陽でも見てろ」 何気なく言い放つ。 まるで事務的、何の感情も籠っていないようなその台詞。 ここに来たのはその人に文句を言ってやる目的があって、そう、あたしは喧嘩をしにやってきたはずなのだ。 なのにどうして、たったその一言で言うなりなんだろう。 くるりと振り返る。 広い机の横に背をもたれながら、言われた通りにガラスの外の夕陽を眺める。 だだっ広いその向こう側に、東京が絵の様に広がっている。 遥か彼方に沈みかけの飴色の太陽――間延びしたような黄色があたしの全身に手を延ばす。 そしてそれは背後の机についた手のひらに影を作り――影は彼の手首の辺りで留まる。 あたしは目の端でそれを確認する。膨れっ面で。 「……怒ってるのか?」 「笑ってるように見えますか」 「何で怒ってるか、理由を言え」 「――何で、いっつもそう上から目線なんですかっ!?」 「年上だから。君がチビだから。あと、そうするのが楽しいから」 最後の方は含み笑いで。狡い。本当に狡い。あたしが本当に怒れないことを知ってる。 この心の中の小さな嫉妬や怒り、全部彼の思うが儘なこと、全部わかっていて。 目線なんてちっとも上げてくれず、分厚い書類とパソコン画面の間を睨み付けながら忙しそうにしている癖に、口の端ではいかにも軽々とあたしと会話する。 まるで何事もない、ついでの作業のように。 「――速水さん、あたし昨日で17になったんですよ」 「知ってる」 「今はあなたにいいように振り回されてますけど。 あたしが今のあなたの年になるまでに――絶対、仕返ししますから」 「へえ、どんな」 「そうですね。カッコイイ彼氏つくって、いっぱい恋愛する、とか。二度とコドモ扱いされないように、ぐーんと大人になってみせますよ。でもって、速水さんなんてその頃にはいいオジさんだし?あたしがモテモテなの悔しがっても、絶対相手になんかしてやらない」 「安直……何だそのありきたりな大人観は。だからお子様なんだよ、君は」 ふん、と鼻で嗤われて、収まりかけていた怒りがまた燃え上がった。 そう、喧嘩を吹っかけようと思ったきっかけはそもそもそれなのだ。 「せめて目標にするようなイイ女のモデルをつくることだな。芸能界にはそれこそ沢山いるだろうが、そういうキャラを装っていない、本物の大人の女が。先達はあらま欲しき事なりってゆうだろ。え?意味がわからない?古文の時間何してるんだ君は。とにかく、何でも貪欲に見習って自分を磨くこともいい女優になるには不可欠なんだから――」 「ああはいはい、わかりましたよ。お子様とはまともに喧嘩もしたくないって訳ですね。あたしなんか放っておいて、せいぜい志田さんみたいにキレ〜な女性と大人のお付き合いでも楽しんでて下さい、じゃあこれで!」 最悪―― 遂に……言っちゃった。 どうせお見通しだとは思うけれど。 でも実際に自分から言葉に出すのは、やっぱり少し悔しくて、切ない。 この部屋に飛び込んできてからこの台詞まで、あたしの行動ときたら本当に、自分でも嫌になる程「ガキ臭い」。 やってしまった直後にはもう後悔する、単純で乱暴な振る舞いの数々に既に涙が滲みかけてる――のも、痛すぎる。 志田玲奈。 この人をテレビで見かけない日はないくらいの、超人気女優だ。 勿論、あたしなんか足元にも及ばないくらい綺麗で。 一度だけバラエティ番組で共演したことがあるけれど、あたしみたいなちっぽけなアイドルにもとても気さくで、優しくて、あと、うっとりするくらいイイ匂いがした。 芸能界に入ってまだ半年くらいだけれど――その間に沢山の女優さんに出会ったけれど、彼女くらい透明な美しさに溢れた女性はいない、と思う。密かに憧れていた人だった。 そして今、目下ワイドショーの話題となっているのは――その志田さんが、所属事務所とライバル関係にある大都芸能の速水真澄と熱愛中らしい、という報道なのだ。 「志田玲奈、ね。確かに――彼女は君が目標とするのに相応しいかもしれない。結構見る目あるじゃないかチビちゃん、但し道は険しくて遠いぞ――おい、ちょっと待て」 もういい、と思った。 喧嘩ができないなら、せめて一人で泣かせて欲しい。 少し構ってもらえただけでもこっそり浮かれてた、のに。 惨めに嗤われるだけなんてのは――これ以上耐えられない。 「俺は夕陽を見ていろ、と言った。勝手に動くな」 離れようとしたあたしの右手首をとって、ようやくこちらを向いた。 鋭い目線――のふりして、その奥で笑ってるのがありありとわかった。 黄色い光に包まれて、あたしの顔が瞬時に紅くなったのも見られてしまった。 悔しさは消えて、ただただ悲しくて嫌になった――ら、涙が一粒、迂闊にも零れてしまう。 「泣くほど怒ってる理由は、志田玲奈か」 「……どうせ、また、お子様だって――笑うんでしょ?」 「笑われたくなかったら泣き止め」 手首を掴んだまま、反対側の手がスーツの胸元に潜り込み、綺麗に折り目のついたハンカチを突き出された。 誰が受け取ってやるか―― あたしは腕を強めに振って逃げ出そうとした――けど、掴まれたそこは頑丈に解けなくって、痛みだけが増す。大きな掌。すらりとしなやかに伸びる、でも確かに男性の骨の厚み。 「マヤ、俺は今結構忙しい。君と遊んでる暇はないんだ」 あ、ようやく名前で呼ばれた―― 興奮した頭の片隅でそんなことを考えた。 それから猛烈に悲しくなった。 わかってるよ、あなたは大人で。それもすっごく忙しい、誰も手が届かないような場所にいる社長さんで。芸能人じゃないくせに結構有名人で。あたしみたいな小さな女優にかまけてるような人じゃないって事くらい知ってる。だったら構わなきゃいいのに。あくまで大都の冷血鬼社長として振る舞ってくれたらいいのに。そうしたらあたしだってこんな思いをする事もないのに――なのに、なんで、手を離してくれないの? 「――だから、一区切りつくまでここにいろ。ご機嫌斜めのお子様をあやしてる暇はないが、久々に会った恋人との時間を有効に使う事に関しては吝かじゃない」 「え……?」 掴まれた手首を強く引き寄せられたかと思うと。 あっという間に彼の胸の中に落ちていた。 大きな椅子が微かに軋む。 冷たい、皺ひとつないスーツの胸元に顔を押し付けられる。 妙な姿勢――上半身を屈めてよろめいたあたしの腰を軽々と持ち上げて、膝の上に乗せられる。制服のスカートの裾が広がる感触に、ようやく我に返る。 ずっと笑いを含んでいた眼が、急に真剣になってゆくのに息をのむ。 腰に添えられていた手がゆっくりと背中を這い上がり――反対側の手がそっと頬を撫でる。 大人の男の人のこういう変化を目の当たりにするのは――勿論、彼しか知らないけれど、まだ全然慣れない経験で。 あたしはドキドキする、というより、むしろ息が詰まるような不安に似た気持ちで彼の口元だけを見つめる。形よく整った、薄い、綺麗な唇。そこだけみたら、女の人みたいに綺麗。あの唇からあんな意地悪な台詞や、怒鳴り声や――甘くあたしの名前を呼ぶ声が漏れるなんて――本当に、夢みたいな、嘘みたいな。 「マヤ」 「……はい」 「これは、君と俺だけの秘密だから。絶対誰にも言うなよ」 「――はい」 「学校の友達にも、劇団の仲間にも、親友にも――無論、月影先生なんてもっての外だ。 あと世間一般って奴にバレるのもかなりマズい。水城君には――隠せないから除くとして」 淡々と喋り続けながら、しなやかな指が魔法のように動くのをあたしは茫然と見守った。 膝の上に乗ったあたしの胸元は彼の肘のあたりにあったのだけれど、そこで制服のネクタイがあっさりと解かれ、シャツの第三ボタンまで一気に弾かれた。 まるで淀みなく、自分の身支度でもしてるぐらいにさり気なく。 ……ふと、睫を上げた琥珀色の瞳とばっちり目が合ってしまった。 瞬間、遅ればせながら激しい動悸と興奮であたしの身体は――震えだした、小刻みに。 その背中を、なだめる様に軽く叩きながら。 速水真澄はどこか少年みたいな悪戯っぽい微笑を浮かべ、囁いた。 「俺の恋人は、17歳になったばかりの北島マヤなんだよ、実は」 それから―― ぎゅ、っと喉が詰まったような変な声を上げそうになったあたしの、胸の真ん中に。 吸い付くような、噛み付くようなキスをもらったのは、それが最初だった。 web拍手 by FC2

last updated/10/12/05

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