第4話



「きみたちのためには死ねない。
 もちろんぼくのバラだって、通りすがりの人が見ればきみたちと同じだと思うだろう。
 でも、あのバラだけ、彼女だけが、きみたち全部よりもたいせつだ」

たったその一言を、真実を、覆い隠したまま。
曖昧な約束だけを舌先に浮かべて、俺は彼女を抱きしめた、何度となく。
やがて彼女の中の涙は枯れ果て、細やかな棘は剥がれ落ち、花弁は散った。
彼女は――行ってしまった、ぐずぐずしないで、行くと決めて。

 

薄い水色が引き伸ばされて、淀んだ薔薇色と交じり合う夕暮れの境界線。 その下に黒々と広がる町の中を、夕餉の匂いの混じった風が吹き抜ける。 生活の匂いを帯びたその温もりに包まれて、彼女は微笑を浮かべる。 幸せそうな笑顔を浮かべるようになったと、人は言う。 確かにその通りだと認めざるを得ない――この頃ついぞ見たことのない、その笑顔に。 俺は心臓に鋭い棘を立てられる。 かつて彼女が俺の手首に記したものよりも痛い、切ない、傷が疼く。 一目見るなり、真っ青になって身体を強張らせる。 近寄らないで、と今までの中で最も悲痛な想いを込めて俺を見つめる。 この子の幸せは此処にこそあるのかもしれない―― お前の考える彼女の「幸せ」など、所詮エゴに過ぎないのだと、心の片隅が訴えるのを無視する。 だって俺はこの子の温もりなしには、狂ったようなあの情熱がなくては、生きていけないのだから。 「……早く、乗れ」 細い腕を取り、引きずるようにして後部座席に詰め込む。 必死で抵抗する身体に、僅かばかりの荷物を押し付けてドアをロックする。 「いや……あたし、行かない。行きません。あたし、演劇やめたって、言ったじゃないですか!?なんでこんな所まで連れに来て――」 「そうはいかない。君が女優を辞めるとなると――いろいろと不都合だ」 「何が――あなたなんかに、何の関係があるっているの!?母さんを……あんな目に合わせておいて――あ、あたし絶対、あなたを許さないから。ここから出してよ、あっち行って――あなたなんか、大っ嫌い!!」 「煩い!いつまでも子供みたいに泣き喚くな!」 思わず怒鳴り声を上げてハンドルを叩きつけた。 あからさまに肩を震わせ、彼女は絶句した。 はっと飲んだ息が喉の奥に張り付いて、ひっきりなしの嗚咽すら死んだように止まり。 車内は恐ろしい程張りつめた静寂に包まれた。 皮肉めいた口調でこの子をからかうのは習慣みたいなものだったが、感情のままに声を荒げる事など、これまでの人生においてもほとんど皆無の出来事だった。そのショックに茫然としていたのはむしろ俺の方だったかもしれない。 背後を振り返ることなどできなかった。 その憎しみの瞳で射抜かれてしまったら、二度と立ち上がれる自信がない。 俺は一生この想いを心の内に閉じ込めて、彼女と視線をずらしたままで偽りを述べて生きてゆかなければならないのかもしれない。 それでも――傍にいて欲しいのだと、乞い願ってしまうのだ、馬鹿馬鹿しい事に。 「何で君は――いつまでたっても、そう理解が鈍いんだ?」 「……何を理解しろっていうんですか」 ぐすっ、と鼻を啜り上げながら。 それが思ったよりも落ち着いた声なのに、少しだけホッとしながら。 俺は深く溜息を吐き出し、バックミラー越しに彼女を覗き込んだ。 スカートの下で小さな膝を寄せた彼女は、拗ねたように窓の外を睨み付けている。 いつもなら可愛らしい程度のその姿に、深い哀しみが刻み込まれている。 その哀しみが、彼女の少女らしい純潔を僅かに歪め――大人への無理な脱皮を強いている。 そしてその傷を付けたのは他でもない、この俺なのだ。 「君の、本当の恋人は――明日、渡米する」 「……」 「会いたいか?」 「……本当に、放っておいて、くれませんか……? そしたら、それだけで――あなたに感謝できそうです、あたし」 小さな声で呟いて。 膝の間に顔を埋めた。 泣き声を殺しながら、静かに涙を流しているのだった、たった一人で。 その黒髪に手を差し伸べて梳いてやることも、背中を撫でて慰めてやることも出来ない。 「俺と君との関係は薄っぺらい紙切れ一枚。憎しみを除けば、確かに何の関係もない。 今や君は転落したスターにすぎないし、大都にとってマイナスにこそなれ何の利益も生み出さない女優だ。それでも俺が――こうしてしつこく付きまとうのは、何故だと思う?」 何を――言おうとしているんだ、俺は。 ズキズキと脈打つこめかみを指で押さえながら、勝手に動く唇に内心慌て始める。 「知らない……あなたの気持ちなんか、全然わかんない。 それにもう――知りたいとも思わない」 「じゃあ、俺も何も言わない。今までと同じように、君を振り回して傷つける。 君にはまだまだ働いてもらう――たかが契約書一枚、なかなか便利な絆だな」 「あ、あなたって人は――」 振り返ると、膝の上から顔を上げた彼女が燃えるような眼をしていた。 憎しみも勿論あるだろうけれど、それよりも俺の狡さを非難するような、切実な眼だった。 そして俺は――結局のところ、その瞳の力に打ちのめされるのだった。 そう、いつもの事。 決して彼女には適わない。 逃げることなどできようもない。 「……キス、してもいいか?」 「――は?」 「いや――君が俺を憎んでるのは承知だし、頼めた義理じゃないのも知ってる。 けど――自分にもわからない。何で君にここまで執着してしまうのか、何故君が俺から離れると非常に――苛々してしまうのか。大人にも理解不能の感情はあるもんだな」 だから―― と、一呼吸おいて、俺は真っ直ぐにマヤを見つめた。 少女と女の境目で揺れ動く、脆くてしなやかな、何よりも大切な俺だけの花。 「それって――たぶん、好きって言うんですよ……」 「え?」 「その気持ち、間違ってなかったら、だけど。 すき、なんです――きっと。あたしも……あなたが、好きなんだと思います、速水さん」 「好き――?」 マヤが恐々と手を延ばす。 涙に濡れた小さな指先が俺の唇の前で躊躇う。 なんて酷い回り道。 互いに傷つけ合って、騙し合って、向き合う事を避け続けてきた結果がこの有様。 大切なものはいつだって目に見えない。 だから俺たちは手探りで互いの奥底を探り合う。 酷い回り道を繰り返しながら、騙し合いながら、互いの棘に傷つけ合って。 砂漠の底に埋もれた井戸、そこに湧く冷たい水を、軽いキスが暴き出す。 決して思惑染みた、欲情に彩られた、深い絡み合いでないはずのキス。 塩辛い彼女の唇に触れた途端、複雑だった彼女の心が甘く蕩け出すのがわかった。 そしてそれはゆっくりと俺の意識に染みわたり――頑なだった心をも解きほぐし。 続いてわき起こったのは、苦しい程の愛しさ。 ――そうだ、確かに俺は彼女を愛していた。初めて出会ったその時から、ずっと。 「だけど――今更、もう遅いです」 ふと唇を離した彼女は、切なそうに眉を歪めながら呟いた。 青白かった頬に赤みが差し、酷く艶めいて大人びて見えた。 俯きながら、マヤは言った。 「演劇辞めるのは、もう決めました。あなたがやった事を許せないのも、本当なんです。 だからもう――お別れです、速水さん」 その顔を引き上げて無理に口付け、あの日のように振る舞うのは容易い事。 だけどその瞬間、彼女の「好き」は無残に散ってしまうであろう事は間違いない。 だとしたら、今の俺に出来ることは―― 「……駄目だ、マヤ。それだけは許さない」 乱れた黒髪を、そっと耳にかけてやりながら囁いた。 夕闇が町を覆い尽くし、痛い程の想いで互いを見つめ合う俺たちの顔を群青に塗り潰す。 力なく座席に背中を寄せるマヤを目の端におさめながら、俺は静かに車を走らせた。 web拍手 by FC2

元ネタ解説などはコチラ。

last updated/10/12/05

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