『キス』



交わしたキスの数。
数えられなくなるのは何回目から――?

キスに憧れていたあの頃、そんな事をコッソリ考えていた。
キスを交わすような相手があたしなんかに現れるのがとうかも怪しく思えたので。
それは絶対に有り得ない夢を妄想するのに近かった。

ファーストキスは絶対に忘れないんだろうな。
でも誰と?どんな場所で?
キスの味ってホントにあるの?リップクリームの味とかじゃなくて?
その時、納豆とか食べてたらどうするの?
今はダメって言うの?
そもそもどんなタイミングでするの?
どんな気持ちで……?

そんな事を――とりとめもなく考えていた、あの頃。

今は……痺れたような頭の中でうわ言のように考えている。
同じ言葉をもう何度となく、呟きながら考えている。

これは……何回目のキスだろう?
今夜、あとどれだけキスできるの?
というか――これもキス?
唇じゃないところにも次々と降りてくる――
頬に、瞼の上に、目尻に、額に、髪の毛に……
場所だけじゃない。触れるだけだったそれは、時々軽い音を立てる。
きゅん、とその度に、その音そっくりに胸が鳴る。
時々、撫でるようにさっと掠ったりもする。
さらに時々、吸い付いたりもする。
一瞬で離してくれるけれど。

「あっ……」

思わず、変な叫び声を立ててしまう。

「な、何?」

左の耳朶を軽く口に含まれた。
勿論、そんな事をされるのは生まれて初めてに決まってる。
ボーッとしていたあたしはギョッとして耳朶に手を当てる。
デッキにもたれかかりながら、軽くあたしに屈みこんでいた彼は事も無げに言う。

「噛んでないぞ?」

含み笑いしたまま、右手の指先で次のキスの場所を探してる。

「これも……キス?」

「そう、これもキス」

囁き声が、さっき舐められた耳朶を伝って首の後ろまでゾクゾクと突き抜けてゆく。
同時に、指先が喉を滑り落ちて鎖骨の間に留まる。
反射的に視線を落として、あたしは再びギョッとする。
黒いレースに縁取られた先に、微かだけど、確かに胸の起伏の影が見えている。
勿論、上から覗き込んでいる彼の視線にも同じようにそれが映っているに違いない。

ちょっと、何か、見すぎですって――

と、ふざけながらその手を外そうとしたら。

(えっ――?)

胸の中に、彼の柔らかな髪の毛が飛びこんできた。
あたしは思わずその頭を両手で包み込む。
あたしに会うまで、此処で結構飲んでいたみたいだから――
実際、初めて触れた唇は……強いお酒の薫りがしたから、たぶん酔っぱらっているんだろうって。
だからあたしなんかに――キスできちゃうんだろって、そう思ったくらいだから。
だからその時も、酔ってフラついて倒れてきたのかな、っとそう思ったのだ。

やだ、速水さん無駄に大きいんだからあたし潰れちゃうよ?

なんて――軽口を言ってやろうなんて思ってた、腕はそのまま固まってしまった。
飛び込んできた頭は、そのまま鎖骨の上からどいてくれなかった。
ざわり、と僅かにざらついた感覚は、間違いなく――唇ではなくて、舌の先端。
生暖かく湿ったそれが、骨と骨の間の窪みを静かに舐めている。
ドキドキ、なんてもんじゃない。
息ができない――あまりの衝撃に、肺と心臓がハチャメチャな動きをしてる。
空気が足りなくて、あたしは思わず口を開ける。
さあっと、冷たい潮の薫りを含んだ風が喉の奥まで。
さっき肩の上にかけてくれた彼の上着ごと、しっかりと大きな両手に掴まれている。
息を求めて大きくのけ反ったら、ずるりとその上着がずり下がって肩が剥き出しになる。

今日、彼にプレゼントしてもらったドレス。
深いワインレッドのそれは、今まで着たドレスの中で一番肌の露出が多くて、大人っぽくて、正直初めてこれを身に纏って彼の前に現れた時は――笑われはしないかと思ったくらいだった。でも彼は――いつもの軽口くらいは言ったかもしれないけど、決してコドモ扱いして笑ったりはしなかった。それどころか――

……と、再び数時間前の記憶を彷徨いだした頭の中に。
しゃらん、と肩のストラップが鈴のような音を立てる。
夜気の冷たさに思わず肩を竦めたら、首元にあった顔がふと上げられて。

「ぁ…あ、の――速水、さん?」

肩先に熱い頬が寄せられた。
冷たいと思い込んでいた彼の肌の下にも、熱い血が流れている事に、今更ながら気づかされるような瞬間。
その心地良さに、戸惑いの台詞は掻き消えてしまう。
すると、再びその頬が動いて……
さっき耳朶を含まれた時とは違い、歯を立てて噛まれてしまった。
勿論、痛みなんて感じない程度に軽く、だけど――
だけど痛みの代わりにそれは……

「えっ――あ……」

くっ、と挟まれて、肩の肉が寄せられる。
唾液と共にするすると、歯の先端が皮膚の上を滑ってゆく。
くすぐったさとはまた異なる、不思議な感覚がそこから広がってゆく。
甘い甘い、そう、リップクリームだとかチョコレートだとか、あの甘さとは違う、だけど確かに甘いとしかいいようのない感覚が、皮膚の上からパチパチと全身に広がってゆく。
痒いような、痛いような、熱いような、本当に変な感覚。
皮膚の下を走って手足の指先まで走るその感覚から逃げる様に。
あたしは思わず爪先を立てる。
いつもよりぐっと高いヒールの先。
よろめいた身体は、再びしっかりと両手で支えられる。

「は、速水さん、速水さんちょっと待って!こっ、コレって、な、何してるんですか?」

「何って――キス、だろ?」

ようやく唇を離した彼は、速水さんは。
ふうっ、と残念そうな溜息をつきながら私の顔を覗き込んだ。
完全に酔っぱらってるわけじゃない、と思う。だけど。
ポーカーフェイスを装ってはいるけれど、頬の熱も、あたしだけを映しこんだ切れ長の瞳の色も、どこか熱に浮かされたその様子は、やっぱり酔ってるんだと思う。
これって、目が覚めたら全部夢――ってコトになっちゃうのかな、なんて思いながら。
なるべく平然とした風を装って、あたしは言う。
剥き出しの肩に慌てて上着を引っかけながら。

「もう、速水さんってば酔っ払いすぎなんですよ。
 明日になってあたしが文句言ったら忘れちゃってるんでしょ?」

「確かに酔っているかもしれないが――どんな文句を言うつもりなんだ?」

「え……どんなって、それは――っていうか、あたしをからかって遊んでるでしょ!
 キスなんかしたことないんだろって顔して笑ってるし……」

「からかってるつもりは毛頭ない。
 それに君が他の誰かとキスしてる、なんて考えたくもないね」

「……」

多分、相当変な顔をしていたと思う。
思いっきり首を傾げて、たっぷり10秒はその悔しいくらい整った顔を見つめていた。

「何だその嫌そうな顔は」

「……速水さんって、ほんっと何考えてんのか理解できない」

「怒ったのか?」

「混乱してるんですっ!もうほっといてください!!」

そんな台詞を投げ出して走っちゃう辺りが――相変わらず、なんだけど。
走り去るなら彼の上着を返してゆけばいいのに、そのまま駆け出してしまう。
が――あっという間に捕まって再びデッキまで引きずられてしまう。

「もう!訳わかんないっ」

「訳がわからんのは君の方だろ。キスしたのに怒ってるんじゃないなら――
 なんで、困惑……え、おい、まさか泣いてるのか?」

「〜〜〜もうっ!!なんでこんなに、女心がわかんないんですかアナタって人は!!」

勢いのままに肩の上着を剥ぎ取ると、バサッと彼の顔に投げつけた。

「こっ、婚約者が、あんなキレイな婚約者がいるのに!
 なんであたしなんかに、きっ、キスできちゃうんですか!
 酔っぱらって冗談のつもりだとしても…そ、それっ、冗談で済ませられる程あたしオトナじゃないんです!悪いけどっ!!」

「だから!からかってないし、冗談でもないって――どうしたらわかってくれるんだ!?」

「――!!」

ぐっと引き寄せられ、身体を反転させられたかと思うと。
背中からデッキに押しつけられ、俯いた顔を無理矢理引き上げさせられた。
さっきまで熱っぽく、穏やかだった瞳は――どこか切羽詰まったような、不安、なような――そういう色を湛えていて、とてもいつものあの余裕たっぷりの彼とは思えなかった。
あたしは息を殺して、その唇を見つめる。

「何故――あの部屋の鍵を捨てたのか……
 君が他の男とキスするなんて考えるのもイヤなのか。
 わからないか?マヤ――」

「わか、んない……よ」

「じゃあ、わかってくれ――頼むから」

ああ――そしてこれも、何度目のキスになるんだろう……
あたしはぐっと瞼を閉じて、それを受け入れた。
拒むつもりでそうしたんじゃないけれど、身体に妙に力が入ってしまうのは仕方なかった。

再び、彼の唇があたしの唇に重なって――
熱く熱を孕んだ四つの薄い肉が、震えるように互いに互いを擦り付ける……
そこからどんどん流れ込んでくる、流れ出てしまう、心の奥底に抱えていた一番大事な秘密が。
誰にも明かしたくない、あたしだけの秘密が――引き出されて、重なる。

同じ思い――?
速水さんも、あたしと同じ思いでキス、してるの?
うそだよね、そんなことないよね――だって彼が、あたしなんかに――そんな。

いつもいつも同じ台詞で抑え込んできた感情が。
抑え込む傍からグラグラと揺れ動く――ゆっくりと深い、キスの衝撃に揺さぶられて。
デッキを握りしめていた掌が緩んで、勝手に速水さんの胸に向かって伸びてゆく。
頭のどこかが、違う、それは彼の気紛れなんだから、受け入れちゃ駄目……そんな風に言ってるのも、段々ぼやけてくる。
頑なだった身体の力が緩み出し、触れた鼻と鼻の位置が僅かにずれて。
一瞬だけ空いた唇の隙間で精いっぱい息を吸う。
それを封じ込めるかのようにまた重なる。

あたしはさらに腕を伸ばす。
滑らかなシャツの感触。
その下から伝わる男性の身体の重みや厚さ、ドクドクと動く心臓の鼓動が伝わってくる。
そのままするりと背中に腕を回す。
ぎゅっと抱きしめたその瞬間、キスがまた変化する。
段々どれが自分の唇で、どれが速水さんの唇かわからなくなってきた、その狭間に、先ほど胸元に押し当てられたものよりもっと熱いものが――舌が、滑り込んでくる。

そんなやり方なんてまるで知らないはずなのに、あたしは慌ててそれを受け入れる。
するとすぐさま絡みつけられ、いつしか互いの唾液を交換し合っている。
別の生き物のように互いの頭を撫で合って、筋を辿り、粒を数え上げる……
あたしと彼の口の中の断面を想像して、あたしは興奮してゆく。
まるで違う生き物、女の子とも別の生き物になってゆく。

キスに没頭し、溺れていくうちに、全ての規制が緩やかに取り払われてゆく。
此処は何処で、彼は何者で、あたしは誰なのか。
この行為に何の意味があって、今逃げて行った舌が今度は歯茎の間をずるずると移動している、その次に何をするのか、あたしも同じようにしてみればいいのか――ああ、そんな事どうでもいいのだ。

ただ、彼とキスをする、あたしがここにいる。
あたしとキスとしている、彼がここにいる。
――その二つが、今、完全に重なっている。

その事しか考えられない。

キスの、その事だけしか。




「ん……ぁ、はっ――あ……は、やみさ……」

ずる、っと音を立てて離れてゆく。
それがあまりにも切なくて、あたしは思わず彼の名前を呼んでしまう。
いつの間にか濡れて汚れた口元を、愛おしそうに彼の指が拭う。
熱く毛羽立った頬を、顎ごとすっぽりと包まれる。
長い指が目の周りの骨の上から押さえつけてくる。

「……わかったか?」

「……たぶん……でも、ちがう、かもしれない」

「――間違ってない、それで正しい」

「やっ……あ――」

そっと瞼の上にキスされたかと思うと。
素早く首元に移動した唇が、痛い程吸い上げる。
その髪の毛の中に指を差し込み、痛みと快感に耐える。
押し付けられた硬い胸元の、シャツを破れそうな程握りしめる。
首筋を、点々と吸い上げながら降りてくる。
ああ、そして――

「や、だ――だ、誰か……き、来たら――」

「余計な事は考えるな」

「でもっ……あ、な、んか――へっ、変な声――」

「確かにそれはちょっと控え目にしておいた方がいいかもな。
 出そうになったら――噛んでいい」

「んっ」

返事をする前に、口の中に彼の掌、親指の付け根から手首辺りを突っ込まれてしまう。
ふわり、とそれを甘噛みして、あたしは迫りくる感覚に背筋を震わせる。
もう駄目、本当に、余計な事なんて考えられない。
そうでなきゃ――こんなキス、受け入れられない……

押し付けられていた上半身が少しだけ離れて、代わりに左手が右のストラップを外す。
恥かしさの余り、彼のシャツを掴んで引き寄せようとしたけれど、無駄だった。
片方が捲れた胸元、バラのコサージュが散りばめられた縁から。
下着に覆われた胸が夜気に晒される、彼の目の前に。

駄目――っと、叫ぶ代わりに噛みしめる。

でも本気で圧力を加えることなんて出来ないから。

左手の指が下着の縁にかかって、ずり下げられる。
ふわっと、寒さに竦み上がったような、あたしの胸――
細やかな起伏、それでも昔よりは少しは存在感の出てきた、円い肉。
その、先端をさらりと撫でながら、彼は呟いた。

「綺麗だ、本当に――マヤ……」

何も言えない、言えるわけがない。
眼を閉じたまま、口の中に彼の手を噛みしめたままで、あたしは小首を振る。
イヤ、恥かしい、こんなの……ああ、でも、でも拒めないのは、きっと――




「此処にも――キスをしたら……流石にもう、抑える自信がない」

ゆるゆると、何だか硬くなったような周囲を撫でながら。
どこか熱をふっきったようなその声に、あたしは恐る恐る目を開けた。
ふうう、っと深い溜息をついた彼は。
やや素っ気ない仕草で、でもとても丁寧に、捲れた下着を元に戻して外れたストラップを肩にかけ直してくれた。
あたしはどんな顔をして彼を見ればいいのか――
この先まだ続く長い夜をどうやって過ごせばいいのか、わからないまま、項垂れた。

「――マヤ、あれってもしかして」

「……え?」

やや高くなった声のトーンに、あたしは目を瞬かせる。
向き合っていた身体、その背中側、海の方角を彼が指差した。
そのまま振り返り、視線の先を見てあたしも声を上げる。

「あ――え、イルカ?」

そう、イルカだった。
船の進行方向に合わせて浪間から飛び出す、三つの黒い影。
水族館でしか見たことがないけれど、確かに。

「船についてきてるんだ?」

「昼間だったらもっとはっきり見えるのにな」

「すごい……クジラも見れたらいいのに」

「クジラ……伊豆沖、どうなんだろう」

さっきまでの緊迫感が嘘みたいな会話をしているうちに。
興奮したり緊張したりで落ち着かなかったあたしの心は、ようやくホッと緩み出した。
だから、いつしか背中からすっぽりと広い背中に包まれていることに気づいても、思いのほか落ち着いてそれを受け止めることができた。

キスから伝わってきた、伝えてしまった想いを言葉にするのは――
情けないけど、あたしにも、多分彼にも、まだ勇気が出ないのだ。
だけど、それは間違っていないのだと彼は言った。
どうして、とか、何故、とか。
問い詰めてしまうのは簡単かもしれない、だけど。
今はこの温かさに包まれながら、どうでもいいような事を話しているのが楽しくて。

「部屋の中では襲わなかったのに、こんな所で危ない所だったな、チビちゃん」

そんな台詞にも、

「ホント、やっぱり何考えてるかわかりませんよ、速水さん。
 試演前にとんでもないスキャンダルになるとこだったかも」

なんて、軽く返すことができたりする。
やがて話が途切れ――ずっしりと眠気が襲ってきて。
立ちっぱなしだった足が痺れて、いくら抱きかかえられているとはいえ、速水さんの方も寒さに耐えきれない様子だったので、あたしたちはその場を離れる事にした。

帰る部屋のない二人は、人気のなくなってしまった船内を暫くの間彷徨って。

その間、軽く繋がれた掌が外れることがなかったのが、泣きたくなる程幸せだった。

広いロビーの一角、観葉植物の影になったソファーを選んで、あたしたちは横になった。
けど、ソファは身を寄せ合う程には幅がなかったし、あんなキスまでした癖に二人して妙に恥ずかしさが先だってしまって、くっつき合って寝るなんて事はできなかった。
折角もらったドレスが皺になったらどうしよう、と嘆くあたしに、後で好きなだけプレゼントしてやるから気にするな、なんて言うから。
「さすが紫のバラの人ですね」っとこれまた軽く返そうとしたけれど、流石にそれは言えなかった。
まだ言えない――伝えてない言葉なら沢山ある。
けど、今は――

「……ああ、忘れてた」

足元の方のソファで一度横になった速水さんが起き上がる気配がする。

「何ですか?」

「今夜、最後のキス」

おいで――と差し出される腕。
そのシャツの袖を握りしめてそっと目を閉じる。
右手で髪を撫でながら、柔らかく重ねられる彼の唇。
今夜で最後、そしてもう二度とないのかもしれないキス――を。
何気ない仕草で、でも全身全霊を想いを込めて、あたしは受け入れたのだった――

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別花2月号発売日の絵チャにて、私の拙いラクガキになーんとマコ様につやっつやの色を付けて頂きまして!
もう元の線画の未熟さを一気に吹き飛ばすあまりの艶っぽさに、そのラクガキネタだけで1話SSが書けそうだ、などと口走ってしまいました。
実はチャットしながらメモってたんですけど(笑)
M−1とフィギュアに振り回されつつも何とか脱稿しましたので、上げてみました。

last updated/2010/12/26

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