全1話


「じゃあ、いって来る」 「……らっしゃい」 最初の母音はいつも曖昧。 目線は常にその人の肩の斜め上辺りを彷徨う。 何かと誤魔化しのきく夜とは違い、朝の光は何もかもを鮮明に浮かび上がらせる。 だからマヤはいつも上の空で返事をする。 この奇妙な関係を直視できなくて、認めたくなくて。 くる、っと背を向ける。 その瞬間を待ち構えていたかのように見つめてみる。 落ち着かなく成程洗練された物腰、折り目正しいスーツに収まった完璧な肉体。 その背中がほんのついさっきまで、生身の温かさをもって自分の掌の下にあっただなんて、まるで信じられなくて。 ――信じたく、なくて。 だからそっと、俯く。 そのきっかり五分後に、同じようにその扉を出てゆくための支度をする。 屈んで、ちょこんと並べられたローファーに紺色の靴下の爪先を突っ込む。 それから膝を伸ばせば、ドアが冷たく閉まる音が広い部屋にジン、と響くはずだった。 その空気の震えが、何故だかいつもマヤを泣きたい気分にさせるのだ。 だから自分が出てゆくときは更に大きい音を立てるべく、勢いよく扉を閉めるのが常だった。 だがその朝は―― 「わ……え、ど、どしたんですか。行かないの?」 そのまま出ていったはずの背中は、ドアと向かい合わせに。 その代わり、マヤにはまだよくわからない、複雑な感情を浮かべた瞳が上からじっと見つめている。   「……朝は、絶対目を合わせないな」 「――何が?あたし?」 なんて白々しい空気。 僅かに眉根に寄った皺を認めて、マヤはますます身を縮こませる。 だって――だって、とコドモのような言い訳で胸の中はいっぱいで。 でも結局、何も言えなくて。 ぎゅっと、右手の鞄の取っ手を指先が白くなる程握りしめる。 全身制服、で武装して、精一杯立ち向かってみせるのは何の為だろう? あんなに憎んでいたはずの、11歳も年上のオトコと、いつしか奇妙な―― いや、要は性的関係を結んでいる、という事実を未だ認められずにいる、「幼い」自分。 夜だけはそんな事、どうでもいいと呟ける程「大人」になれるのに。 陽の光に突き差された瞬間、猛烈な後悔と焦燥感に襲われる、なんて。 「――やめにしたいか、全部」 「え」 「今ここで君に幾ばくかの金を渡して出てゆけばそれっきり、  最初から最後まで俺は君を踏みにじった汚い大人として君に存分に憎まれる事ができる。そうしたいんだろ?」 「……」 そう、そうしてくれればどれ程楽か――って、こっそり考えていた事を、何故この男は知ってるんだろう。 ドアの傍、明り取りの小さな窓からキラキラと差し込む陽の欠片。 僅かに舞い散る埃さえ美しく彩って、その中に浮かび上がる柔らかな毛先が目に眩しくて。 マヤは思わず――溜息を零す、何故か微笑と共に。 「そう、したいんですか?」 あなたが、そうしたいなら、別に。 本当に。 何かを選ぶ事で、もう一つの何かを失っている、間違いなく。 「いや……」 形のいい唇が歪む。 夜、快楽の頂点を迎えたその一瞬だけ垣間見せるような、あの歪みだと気づく。 「いや――君に憎まれるのは慣れっこだが、この馬鹿げた関係をやめにする気はない」 突然、右手から鞄を引き剥がされる。 息を呑みこんだ瞬間、後手に腕を捩じられてドアに押さえつけられる。 あっという間にスカートが捲り上げられ、下着に指をかけ引き降ろされた。 「ちょっ――と、は、速水さん!?」 息一つ乱さず、淡々とした所作でいて、一分の抵抗も許されないような強い力で。 その身体の何処に隠されていたのか、とその瞬間はいつでも眩暈がする程熱い昂ぶりで。 一気に、貫かれる―― そのまま、息が止まってしまう――心臓さえ竦み上がったまま、動けなくなる。 「っあ、なんで、会社――あたしも、遅刻……」 ようやく絞り出した声を封じ込めるかのように。 冷たい指先が唇を割って喉の奥にまで這入り込んでくる。 ぐ、と噛み付きそうになる手前で引き抜かれると、太腿の裏側に膝頭があてがわれ、扉にうつ伏せのままで片脚を高く上げられた。 その姿勢のまま、更に深く抉り上げてくる。 体格差の問題で、鋭角に捩じれた腰と爪先が軋む。 いや、それ以上に―― 「やだっ――ぁあっ、あ、あ……」 甘い声が出せるのは、甘く狂った夜の間だけ。 何もかもが「おかしい」と責め立ててくるような明るい日差しの下では、戸惑いだけが増幅する。 だからこの声も多分、偽り。 だからほら、すぐに喉の奥に貼りついて消える。 口の中で無理に湿らされたような指先―― それがどれ程技巧と思惑に満ちた蠢きであろうとも…… 一度噛み合わなくなった気持ちの上から無遠慮に擦り付けてくる、まるでヤスリみたいにざらざらと――痛くて、痒くて、気持ちが悪い。 「やだ、ホントに――これ、イヤ……ねえ、速水さん、もう……」 もう、これ以上は、本当に嫌いになるからやめて。 と――舌先に乗せた言葉を、無理矢理吸い尽くされる。 首の後ろから回ってきたその薫りと共に、幾つもの感情と感覚の断片が瞼の裏を高速で巡る。 何も考えるな、何も感じるな、意味なんて求めるな、ただこの瞬間だけ分かち合え、と。 言葉にされた訳じゃないのに、そう、その心が叫んでいるんだって。 どうしてわかってしまうんだろう――? ドアから引き剥がされ、エントランスの上に押し倒される。 四つん這いになり重なった身体と身体の、重みと切なさに押し潰れそうになる。 スカートから引き出されたシャツの下を骨ばった五指が滑り抜けてゆく。 あっという間に包み込まれ、握りしめられて形を変えてゆく細やかな起伏。 滑稽な程に擦り付けて捲り上げても、繋がった部分は一向に濡れる兆しを見せない。 床の上に突いた掌の上に、ふと大きな掌が重なる。 は、と浅く溜息を零した瞬間、ぎゅ、っとその指が握りしめてきた。 と――ふいに、差し込む陽の色がより一層強く、濃く、鮮やかに辺りを覆い尽くす。 白く冷たい指先から手首にかけて、浮かび上がる筋肉の筋と静脈の形に、マヤは思わず息を呑む。 微かに毛羽立った肌の色も、その下で白く潰された自分の掌も、何もかもが素直に美しい――と、思わずにはいられなくて。 だから、そっと口付けた。 抑えられ、背後から小刻みに揺すられるお蔭で、そっと触れるはずだったのに、まるで食べるみたいに口いっぱいに食んだ。 きれい、きれいね、きもちわるいくらい――きもちよくて、とてもきれい。 そんなような事を、彼の皮膚の上に囁きながら―― 唐突に込み上げてきた快楽の戦慄に、咽び泣きながら。 END. web拍手 by FC2

「密室シリーズ」で最も描きたかった「エントランスで立ちback」!(笑)
エロ的にはかなり淡泊に描写しましたが、ニュアンスとしてはこの程度が好みです。

    

last updated/11/03/18

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