第1話




都心の一角に聳える大都芸能社ビルエントランスは、今日も様々な人々の往来でごった返している。
業界最大手の興行社ともなれば、TVでその姿を見ない日はないような人気芸能人の姿も幾つか見受けられるのは日常の風景だ。
行き交う人々はいかにも高級なスーツを身にまとったエリートサラリーマンから、一見くだけた恰好だが実は著名なインテリアデザイナーだったりと実に多様で、芸能関係者のみならず様々な業界の人間で溢れるその光景は、どこか国際空港の到着ロビーの雰囲気に似ていなくもない。

そんなわけで、ある木曜の午後、その青年がふらりとエントランスの回転ドアを抜けて入ってきた時にも特に注意を払う者はいなかった。
ただその背の高さから、所属する数多のモデルか俳優の一人だろうと思われた程度。
一般企業ならともかく、此処はそれ位のことで必要以上に人々の注目や好奇の視線が集まるような場所ではないのである。
故に、青年がその長い脚を軽やかに動かしてやってきた受付カウンターに控えていた二人の案内嬢も、いつも通りの営業スマイルを浮かべて軽く頭を下げた。
華やかな企業の案内嬢ともなれば、容姿もそこらのタレントや女優にひけを取らぬ程美しく、洗練された物腰である。また先に述べたような環境の最前線に立つこともあり、ちょっとやそっとの有名人に驚くこともない彼女達のこと。
その青年の醸し出す様々な雰囲気にも一向に怯まず、マニュアル通り丁寧に用件を伺ったのだった。

「いらっしゃいませ。どういったご用件でしょうか」

「水城君を呼んでもらいたいんだが」

確固とした口調で響いたその声に、流石の彼女たちも躊躇いがちに顔を見合わせる。
改めて青年の頭の先から脚の先までを素早く観察した。

背は高い――モデルだろうと、視界に入った時から見当はつけていた。
服装はシンプルというよりもかなりラフで、清潔だが洗い晒して襟のくたびれたような白いシャツを一枚と、色の抜けたデニム、そして傷だらけのブーツ、といった具合だった。
が、均整のとれたスタイルに長い手脚を持つためか、それで貧相に見えるというわけではない。
ただ、手首まで捲りあげられたシャツの袖口や軽くボタンの開いた首元が浅黒く日焼けしているのがよく目立った。
緩くウエーブのかかった髪も日に焼けて所々金髪に近くなっており、またその髪は無造作に伸びきっていて、前髪など高い鼻梁の下辺りにまで影を落としている程だ。
季節は秋もようよう深まろうという頃合いで、いかに夏に程よく肌を焼いた人でも地肌でない限りはここまで黒くはないだろう――ということは、この人物はつい最近まで日本とは季節の異なる場所にいた可能性が高い。

(――撮影か何かで海外滞在してた俳優かしら?)

案内嬢の一人はふとそう思った。
一見誰だかわからない、横柄な態度をとる人物が実は大物タレントだった――という失敗談があった彼女は、内心の焦りを表に出さず素早く頭の中の人物名鑑を捲った。
社員の全ての名前を把握しているわけでは勿論ないが、大都で水城、といえば該当する人物は一人しかおらず、それは一般の平社員にまで知られ渡った人物である。
それを名指しで呼び出すからには、この青年もそれ相応の人物である――のかも、知れない。

「秘書課の水城でお間違いないでしょうか?」

周囲に関係者らしき人の姿も見えず、カバンひとつ持たない恐ろしく身軽な青年を訝しみながら、隣のもう一人が声をかける。

(まさか、あの人の彼氏――とか?
 すっごい意外すぎるけど、でも悪くないわよね……髪が鬱陶しくて顔がわかんないけど)

――などと思いつつ。
そんな彼女は水城と同期入社の、妙齢の独身女性である。

青年はややもどかしそうに髪を掻き上げながら、早口で応えた。

「ああ、多分、いると思うんだが。 ――すまないが、上まで行ってる時間がないんだ。
 すぐ内線で彼女をここまで呼び出してくれ」

と、露になったその顔に、二人の案内嬢は文字通り唖然として、硬直した。
その秀麗な額に不機嫌そうに寄せられた皺。
こちらを見据える鋭い眼光。
厳しく冴え渡る低音の美声。
肌こそ見事なまでに浅黒く日焼けしているが、その顔は紛れもなく――

「真澄様!?」

と、遠くから鋭く響く涼やかな声。
その名のもたらした影響は見事なもので、受付カウンターを中心とした一帯が一瞬のうちに静まり返った。

「まあ、いつ帰っていらしたんですか?
 先日から全く連絡がつかないし、何か事故にでも巻き込まれたのかと――」

カツカツとヒールの音が緊張した空気を割り、真っ直ぐこちらにやってくる。
大都芸能秘書課のトップにして、社長の側近中の側近――彼ですら時に彼女には頭が上がらないと専らの噂だ――水城冴子は、今日も長く美しい黒髪を翻して毅然とそこに立つ。

「今さっきだ。成田から直接来た。
 ……まあ、事故といえば事故だな。マニラで荷物を全部やられた」

「は?どういう事ですか?」

青年――いや、速水真澄。
目の前に立つ水城の直属の上司にして、他でもないこの大都芸能の取締役社長。
仕事の鬼とも称される、冷徹にして的確な判断力と行動力は業界随一の切れ者と名高い。
そしてのその人目を引く容貌と、癖のある人間性もまた同じく。
――が、そうと言われれば確かにその人本人なのだが、周囲が固唾を飲んで見守る彼は明らかに常の彼の風貌、容貌とは大きく異なって見える。

「パスポートとカード類の入っていた鞄は無事だったが、財布と携帯をやられたのは痛かった。
 その他の荷物も全部、滞在先のホテルから行方不明だ――
 今回パソコンを持っていかなくて本当によかったよ」

「そういう事でしたの……私はまたてっきり――」

と、何か口を滑らせかけて真澄の視線に気づき、わざとらしく肩をすくめてみせる。
と、真澄は思い出したように、

「ああ、そんなわけで空港からここまで無賃乗車なんだ。
 今時カード払い不可のタクシーに乗るとはついてない――すまないがちょっと貸してくれ」

来た時と同じようにさっさと外へ出てゆく真澄の後を、水城は慌てて追いかけた。
残された人々はざわめきを取り戻しつつ、今見たものが何だったかについてひそひそと噂し始める。
確かに、社長は一ヶ月から異例の長期休暇を取って不在だった。
海外ではさほど珍しくもないが、一ヶ月もの間会社を休む事など日本では相当稀だ。
それも、何年もの間仕事以外楽しみなどないといった様子を崩すこともなく、いつ寝ているのかと揶揄される程のワーカホリックである、あの速水真澄が。
はっきりいって、かなりの異常事態だといえた。

――鷹宮令嬢との婚約を蹴ったツケを会長に払わされたのだ

だとか。

――海外で新規事業を立ち上げる為のリサーチ行脚らしい

だとか。

――多忙がたたって遂に倒れ、そのまま長期療養中らしい

だとか。

様々な噂が社内を飛び交ったが、真実を知る者は社中でもほんの一握り。
その数少ない一人である水城は、真澄の後を追って外に出ながら、思わず零れる笑みを抑えられない。

「随分とまた焼かれましたわね。
 そのご様子ですと、休暇は存分に堪能されたというわけですね?」

「ああ、最後の最後にコレがなければ、最高の一ヶ月だったよ。
 小学校低学年以来だな、夏休み丸ごと好き放題に浪費したのは」

脱色して赤茶けた髪の毛を掻き上げながら、真澄は柔らかい笑みを浮かべた。
雄大な自然に触れることの多かったこの旅では、行く先々で良い風に出会った。
湿度の高い日本では鬱陶しいことこの上ない癖っ毛も、大陸の風を受けるのは大層心地良かった。
お陰でひと月の間放っておかれた髪の毛は、気がつけば軽く括れる程に襟足が伸びきっている。
全身浅黒く日焼けしたせいか、いつもは冷たく人を寄せ付けないような美貌も、今は健康的で若い男性の野性味を帯びた美しさとなって魅力を放っていた。
普段、スーツで完璧に武装した真澄の姿しか見たことのない人が見れば、これが真澄だとは指差されても到底信じられないであろう。

「――さて、待たせたなチビちゃん」

会社前に長く続くタクシーの列、その最後尾に付けられた一台のドアを開けながら真澄は車中の人に声をかける。ぴょこんと中から飛び出してきたその少女――いや、最早少女ではないはずだのだが――は、水城の顔を見ると抱きつかんばかりの勢いで笑みを浮かべた。
相変わらず、弾けるような笑顔はあどけないが、ふと伏せられる長い睫毛の影や透き通るような肌の艶から、色づいてきた女の美しさが漂う。
それを彼女の内奥から引き出しているのは、他でもない、すぐ側に立つ皮肉な微笑みを浮かべる男なのだ。

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last updated/10/10/27

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