第2話




「水城さん!ただ今帰りました」

「マヤちゃん、お帰りなさい。あら、あなたはあまり焼けてないのね?」

「当たり前だ。女優がそうそう日焼けもできないだろ」

「ほんと、速水さんったら自分だけそんなに真っ黒になってて――あたしが出歩く時はしつこいくらい紫外線対策させるんですよ。
  何もモンゴルで馬に乗ってる時に日傘ささなくったっていいのに」

「馬鹿、影一つない平原で照りつけられるんだぞ。肌には大ダメージだ。」

「いいえ、ちょっとやりすぎです。四六時中隣で傘さされる人の気持ちになって下さいよ」

「しょっちゅう日焼け止めを塗り忘れる、置き忘れる君のせいだろ。俺は当然のことをしたまでだ」

はいはい、痴話喧嘩は犬も食いません――
と水城は鼻で笑って、運転手に現金で支払いを済ませる。

「で、これからどうなさるんですか?」

水城は改めて、目の前に立つ二人の姿を眺めた。
全く接点などなさそうな凸凹コンビに見えるが、その実誰よりも似た者同士の二人であることを、長年の付き合いの彼女はよく知り尽くしている。
芸能社社長とその専属女優との”特別”な関係性。
真澄と全く同じ時期に北島マヤも長期の休暇をとっている、それが示す意味を考える者など、マスコミ関係者はおろか二人の周辺でも気づいている者はほとんどいないだろう。
真澄の方はくだけきった恰好だが、マヤはそれなりにバカンス帰りといった風情で、薄い水色のワンピースを着て、大きなスーツケースを脇に置いている。

「確か俺の休暇は今週末までのはずだ。それまで社長室に戻る気はないぞ。
 ――とはいえ、とりあえず新しい携帯を用意してもらいたい」

「かしこまりました。どちらにお届けすれば宜しいですか?」

「そうだな、ああマヤ、君の携帯、部屋に置いたままだな?」

「はい。速水さんがいらないっていうから・・・・・・
 でもこんな事になるなら、私も一応持って行けばよかったですね」

「では、本日中にマヤちゃんの携帯に連絡します。
 そうそう、私も明日は有休を頂いておりますので。
 そのまま週末まで、お互いに連絡無用という事で宜しいでしょうか」

「ほう、珍しいこともあるものだな」

「真澄様が異例の長期休暇を取られたお陰で、サポートに奔走したこの地獄の一ヶ月――を、
  たかだか1日の有休で我慢しようという健気な部下にそれはないですわ。何なら私も一ヶ月程お休みを頂いても?」

「いや、それはかなり、いや非常に困る」

本気ともつかぬ鋭い視線を浮かべる水城に、真澄は本気で慌てた声を出した。
そう、来週末には大都にとって重要な大仕事がある。
有能な彼女が不在では進行計画に大きな支障が生じるであろうことは明らかだった。

「わかってますわ。でも実際、大都も日本のトップ企業なら、そろそろ福利厚生のあり方を海外並に見直すよう、社長自ら実践して頂きたいものですね」

笑いながら、しかししっかりと本音の釘を打つあたりが水城である。
すっかりやりこめられ、真澄は苦笑で返すしかない。
トップに立つ者が最も日本的な仕事中毒者として名高い企業など、時代の流れに逆行していることはこれでも十分承知しているのだ。

「では私は戻りますので――他に何かお困りの事は?」

「いや、大丈夫だ。ありがとう」

「またね、水城さん」

マヤに軽く手を振り、水城は再びビルへと向かった。
その姿が見えなくなったかと思うと、マヤの隣からスーツケースが消え、真澄に片方の手を取られる。

「さて、とりあえず君のマンションに行こうか」

二人は手を繋ぎながら街を歩いた。
残暑の厳しい頃に飛び立った街は、既に街路樹の葉の紅葉が始まっている。
空を見上げれば、秋晴れの薄い水色の空が高層ビルの隙間にぽっかりとあった。
この一ヶ月に仰ぎ見てきた空に比べれば、あまりにも小さく、寂しい空。
それでも、振り仰いだ水色は優しく二人を見守っているように感じられた。
それはその視界の端にいつも、この金色の輪郭が見えるからなのかもしれない――

「・・・・・・何だ」

ふっと、真澄が視線を落とす。
マヤはどきっとしながら首を振る。
一ヶ月の間にもう慣れたと思ったこの距離感も、やはりこうして見つめられると動悸が止まらない。

日本を発つ時にはいつものようにスーツ姿だった真澄は、最初の目的地に着く前にその武装を解いた。
幾重にも重ねた覆いをマヤの前で一つずつ解き放ってゆく真澄の姿は常にマヤを驚かせ、それから徐々に例えようもない安心感と幸福感を与えてくれた。
誰もが知る”速水真澄”の鎧を脱いだ彼自身は、強く、しなやかで、悪戯心に満ちた少年と何ら変わることなく、だがマヤを見つめる視線だけは常に変わらず穏やかだった。
いや、日本という場を離れたことにより、穏やかだったそれには奔放な情熱が加わってきた。
最初こそ真っ赤になって戸惑うだけだったマヤも、いつしか自然と受け入れるようになる。
道端で頬に軽くキスされるくらいでは慌てふためかなくなったし、自分から背伸びしてその首筋に腕を回すこともごく当たり前の行為となった。
幾つもの国境線を越え、海を越え、二人の肌が小麦色になるにつれてその距離はどんどん縮まり、不自然さは掻き消えて、互いに知らなかったもう一人の自分が胸の奥から生まれ出てくるのを快く感じた。
このまま二人で延々と旅を続けた果てにどんな姿となるのだろう――
思わずそう夢想してしまう程に魅力的だった、夢のような一ヶ月間。

――が、戻ってきたここは東京だ。

途中に立ち寄った銀行で現金を引き下ろした後、それをマヤの財布に収める。
明日は盗られた財布の代わりを探しに行こうか、などと話しながら歩いているうちに、マヤはどうしても気になる視線に耐えきれず、小声で真澄に囁いた。

「あの、速水さん――や、やっぱりまずい気がします」

「何が」

「すっごい、見られてる気がしませんか?ほら――
 あたしは全然平気ですけど、速水さんは・・・・・・」

「俺も全然平気だ。何を今更――」

「いや、そうなんですけど。けどほら、何ていうか」

「俺の立場も君の立場も、もう気にかける必要はない。
 ・・・・・・大体、俺と君だとバレてるとも思えん」

ふと立ち止まり、ショーウインドーに写る自分たちの影に目を遣ってみる。
いや、確かに”あの”速水真澄と北島マヤだとバレているとは思わないが――
それにしたって、どんなに目立たない服装であろうと、普段と異なる外見だろうと、その内部から滲み出る魅力は覆い隠せようもないのが速水真澄という男なのだ――
マヤは自分のはるか頭上で「何を気にしてる」と笑い出さんばかりの端正な顔を想像してほっと溜め息をつく。
旅先では人目など気にせず見つめ返し、微笑むことのできた顔が、ここ東京では眩しすぎる。

「マヤ――マヤ。こっちを向いて」

そんな自分の些細な内心の動きなど、この人には全てお見通しなのが、ちょっぴり悔しい。
でもその声に抗うことなどできるはずもないのだ。
マヤはゆっくりと顎を上げた。
ふっと、柔らかな髪の毛が揺れる。
秋の光を受けて黄金に輝く幾つもの筋がマヤの目を眩ませる。
思わず閉じた瞼をかすめ、ゆっくりと唇が重ねられる。
しっとりと馴染んだその感触に、固くなっていたマヤの体から力が抜けてゆく。
何も恐れることはなく、愛されている事実を深く受け止める。

「・・・・・・甘い」

「空港で飲んだコーヒーの、お砂糖かも」

「4本も入れないだろ、普通。あれじゃコーヒーというより砂糖水だ」

「甘いもの苦手な速水さん避けです」

「舐めとってやろうか」

甘い冗談に、もっと甘い冗談で返す。
こうした会話ができるようになったのも、この一ヶ月の成果といえる。
周囲の視線など最早気にならない。
――が、視線ではなく明らかに押されたシャッター音に、二人はようやく我にかえった。

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last updated/10/10/28

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