第3話




「あ、亜弓さん!?」

「ふふ、お久しぶり、マヤ。凄くいい絵が撮れたわよ」

振り返ったそこにいたのは、紛れもなく姫川亜弓その人だった。
長い豊かな髪を首筋で切り揃え、ゆったりと微笑む姿は相変わらず息を呑むほど美しかった。
その首にぶら下がった一眼レフに視線をやって、真澄は苦笑を漏らす。

「亜弓君――まさかまだ諦めてなかったとは驚いた。いつ日本に?」

「こんにちは、速水社長。二人とパリで別れてからすぐですわ。
 ハミルもこっちに来ているのだけれど、まさかこんな所でお会いできるなんて。
 ――彼の代わりにまたあなた方を口説こうかと、つい後をつけてしまったの」

「何度も申し訳ないが、俺もマヤもその気はないと――」

「はいはい、その言葉は十分承りました。まったく、相変わらずお堅いわね、あなたの彼氏」

マヤはぱっと頬を高潮させつつ、ふと周囲を見回してぎょっとした。
ただでさえ目立つ真澄に加えて亜弓まで現れたので、最早周囲の注目は人垣ができ始めるまでに広がり始めている。
そこで三人は場所を変え、近くのカフェでお茶を飲むことにした。


亜弓が写真家のハミルとの結婚と同時に女優を引退してから早2年。
『紅天女』の後継者を巡るマヤとの戦いに敗れた後、悪化する視力の治療も兼ねての長期療養が発表されてすぐの結婚&引退報道に、世間は蜂の巣を突いたような大騒ぎとなった。
『紅天女』の選にこそ漏れたとはいえ、亜弓が人気・実力共にトップ女優であることに代わりはなく、多くの人々がその早すぎる引退を惜しみ、引き止めようとした。
無論、マヤもその一人だ。
亜弓というライバルなしでの芸能界生活など、張り合いがないと言うには言葉が足りない程、空虚なものに思われた。女優・姫川亜弓の一番のファンは、もしかしたら北島マヤなのかもしれない。
だが、亜弓の意志は固かった。
長年の夢であった『紅天女』が夢に終わった時、彼女は新たな夢を見つける為に立ち上がることにしたのだ。

「別にハミルと同じ写真の道に進もう、とか思ってるわけじゃないのよ。
 勿論、可能な限りサポートしてあげたいと思ってるし、そのつもりでいるけれど」

パリで出会った亜弓はそう言いつつも、夫の影響で持ち始めたカメラを手にしながら言った。
そして、実はね、と声を潜めながら囁く。

「舞台演出家になりたいの」

「演出!?」

「そう。私、小さな頃から誰かに認められたくて一番身近な女優を志したけど。
 でもあなたに負けてから、もう一度自分を振り返ってみたのよ――私の本質は何だろうって」

私の肉体は表現するためにあるもの――頭の中の理想を形にする為なら、どんな努力だって惜しまなかった。
が、『紅天女』の夢敗れて初めて気がついたのだ。
理想を表現する手段は必ずしも「私」である必要はないのではないか、と。
凡庸な「私」がいかに足掻こうとも、紛れもない才能は存在する。
その才能を用いて何かを表現することと、自分の肉体を駆使して形にすることに大きな隔りはないのではないか――
そんな風に考えた時、絶望していたはずの未来が明るく開けていくような気がした。
亜弓は現在、パリの演劇学校で舞台演出を専攻し、学んでいる。
女優として培ってきた豊富な経験は決して無駄ではなく、また高名な両親のネームバリューなどほぼ気にされることもない世界は、亜弓に自由な創作活動に没頭する充実感を与えてくれた。

「凄い、亜弓さん!亜弓さんなら、きっと素晴らしい演出家になれる。
 あたし、すごく興奮してる――早く作品が見たくてたまらないくらい!」

頬を高潮させながら、マヤは叫んだ。
すると亜弓は意味ありげな微笑みを浮かべ、

「あら、じゃああの紅天女樣にタダで出演して頂くことって、可能だったりするの?」

「勿論――ええ、勿論です!あたしでよければどんな役だって、何だってやります!!」

「ふうん――所属社長の許可無しで勝手に出演しても……いいのかしら、速水さん」

それまで二人のやりとりなどまるで気にしない、とでもいった素振りで雑誌に目を通していた真澄は、

「ダメだと言われる程その気になる子に、そんな言い方はやめて欲しいな」

「実はね、ちょっとしたお願いがあって。
 私の作品より先に出て欲しい仕事があるんだけど――」

それは、ハミルの有名な作品の一つで――

「『アクトレス・モーニング』に!?あたしが?」

「正確には、あなたと速水さんが」

流石にそれは無理だ、と断った。
亜弓はあの手この手で説得を試みたが、ちょっと揺れ動いたマヤに対して最後まで渋ったのは真澄だ。
その理由に見当のつかない亜弓ではなかったが、無理強いしても仕方ない内容のため、その時は引き下がった。
だが、先ほどの二人の様子を見てしまうと……ムラムラと負けず嫌いの血が騒ぐ。
絶対に口説き落としたい、と思った。

「――で、入籍発表はいつなのかしら」

白い湯気と香気の立ち昇る紅茶のカップから視線を上げ、亜弓は切り出した。
一ヶ月前に出会った時とはまるで風貌の異なる真澄が、仕方ないな、というように肩を竦める。

「来週末に記者会見の予定だ」

マヤが飲みかけのホットココアを吹き出しそうになる。

「ふうん――ありがちに、ホテルの会見場で二人で並んで?
 それとも何かのイベントに二人で登場して、囲み記者に衝撃告白とか?」

亜弓は面白そうに唇の端を上げる。

「ありがちに、シンプルに済ませるつもりだが。君には何か思惑がありそうだな」

「ちょ、ちょっと、え、速水さん!?会見って……聞いてませんけどっ」

「それはそれで勿論いいと思いますけど――
 大都の速水真澄なら、自身の結婚イベントにもっと面白い仕掛けをしそうなものだと思いません?」

「マヤとの件に関して小細工は弄したくないんだよ、亜弓君」

「でも、マヤの魅力が人々に浸透することに反対はなさりませんわね?」

「まあそれは――」

「それに、あなた方の先ほどのご様子。絶対にマヤのマイナスにはなりません、勿論あなたにも。
私と夫を信じて、乗ってくれないかしら、例の件――」

真澄は掌で顎を支えたまま、暫し思案した。
それから長い前髪を掻き上げ、斜め下で不安そうにこちらを眺めるマヤに視線を落とす。

「どうする、マヤ?」

「あたしは――亜弓さんの期待に添えるかどうか、正直不安ですけど……
 でも、速水さんの迷惑にならないんだったら、お任せしたいと思います」

「女優ならもっと欲を出しなさい、マヤ。
 あの『アクトレス・モーニング』に日本人で初めて撮られるのよ?
 身内のことを言うもの何だけど、撮ってもらいたがってるのは世界的に有名な大女優ばっかりなんだから、話題にならないはずがないわ。それとも貴女は女優としての自分にさほどの価値も認めてないってこと?」 

最後の台詞の厳しさに潜む意味を、勿論マヤは知っている。
亜弓に対して、女優としてのプライドを自ら貶めるような言動は決してしたくない。
マヤはついっと顔を上げ、今度はしっかりと自信に満ちた微笑みを浮かべて言った。

「わかりました――是非、撮ってください。
 女優・北島マヤとしてのありのままの姿を、お二人に委ねます」

「決まりね――でも、委ねるのはそちらの速水さんにだけにしておいてね。
 写真家の役目はその真実を切り取るだけだから」

期間は、明日の朝から、日曜日までの3日間。
『アクトレス・モーニング』とは、ハミルの代表作でもあるシリーズのタイトルである。
モデルは、世界的に著名な女優ばかり。
”演じる”ことを職業とする女性たちの、素顔の朝の一場面を切り取った写真の数々は、スクリーンで活躍する彼女達の誰も見たことのない美しさを引き出し、大いに話題を呼んだ。
ある者はすっぴんの素顔を晒し、ある者は”女優”としてのイメージを固く守り――ハミルの前では、演じることに慣れきった彼女達がありのままの姿を曝け出し、カメラのファインダーに収まる。
そのハミルは、約束の期日の間の1日だけ、予告無しに彼女達の家を訪れるのが恒例だった。
眠い顔で呆然と座り込む者もいれば、艶然と煙草をふかす者、不機嫌そうに爪を切る者、にこやかに朝食を採る者――愛する者と交わる姿を隠さない者まで、様々な朝の光景が切り取られてきた。

「無理はしないでね。さっきみたいに、いつもどおりのあなた達でいいから。
 彼曰く、演じれば演じる程、コンセプトとズレちゃうみたいだから」

そう言い残して、亜弓は軽やかに席を立った。
残された二人は暫くだまりこんだまま――それから、ようやく口を開く。

「……あーあ、引き受けちゃった」

「引き受けちゃった、って、何ですかその企んだような言い方……
 最初に言っておきますけど、変なことしないでくださいねっ」

「変な事って、何」

「へ、変な――もう、そういうとこがキライ」

「何を考えてるんだか――チビちゃんは案外エ……」

「それ以上からかったら、本気でコーヒーかけますよ」

マヤはぐっと真澄を睨みつけると、その形のいい鼻筋をきゅっと摘んで立ち上がった。
そうやってふざけながら、二人でくつくつと笑いながら、店を出る。
思いがけない”仕事”を引き受けてしまったが、まだあと3日間――たっぷりと、二人だけの時間はある。
その贅沢な幸せを体中に感じながら、二人は久しぶりの東京の街を再び歩き始めた。

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last updated/10/10/30

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