last updated/10/11/01
「……今、何時だろ」 冷えてゆく身体を擦り寄せながら、マヤが呟いた。 ぎゅっと背後から抱き直して、ぼんやりと瞼を開ける。 テレビの横に置かれた時計は午後4時を示していた。 「4時、か。そろそろ来るかな――ああ、やはり我が秘書様の仕事は早い」 テーブルの上で充電中のマヤの携帯がちりちりと鳴った。 床に転がったまま腕を伸ばし、パチンと蓋を開ける。 予想に違わずそれは水城で、二、三言交わした結果六時に六本木で新しい携帯を受け渡す事になった。 ついでに亜弓から引き受けた仕事の件も告げ、それが来週の計画にどう影響するか軽く打ち合わせることにする。 「と、いうわけで――シャワーでも浴びるか」 まだぼんやりとしているマヤの腕を引いて立ち上がる。 と、再び携帯の呼び出し音が鳴った。 マヤが液晶画面を覗き込んでみると、ものすごい勢いでメールが受信されている。 近しいほんの数人には長旅に出る事について話していたが、携帯を持っていかないことまでは話さなかった。 流石に心配するだろうと麗には時折真澄の携帯から国際電話をかけたが、その他の友人・知人とは全くコンタクトを取っていない。とはいえ、マヤの仲間は麗の仲間でもあるわけで、事情はわかっているはずなのだが――勿論、同行者については伏せておく約束だった。 「わ、34件も来てる――どうしよう、帰ってきたって連絡……」 しなきゃ、言いかけて、差出人の同じ名前の羅列に絶句する。 背後から覗き込んだ真澄はあくまで軽い口調で、 「――連日か。熱心だな」 「う――しまった……桜小路君に何も言ってなかった――」 「青木君に何らかの連絡がいってるだろう、気にするな」 というか、無視しろ――とは流石に言えず、ほら早くしなさい、と携帯を取り上げてソファの上に放り投げる。 これを予想していたから、彼女に置いておくよう指示したのだ。 バスルームの扉を閉めた瞬間、今度は着信音がなり始めた――ような気がする。 *** 流石に昼間のようにラフすぎるのはまずいかと、真澄は久々にフォーマルに近い服を着込んだ。 とはいえ肌の浅黒さが消えた訳ではなく、髪の長さも相変わらずなので、見ようによってはやや軽々しい印象も受けるが、そこは流石に”速水真澄”なのだ。 灼熱の太陽の下で汗と埃まみれで歩くのに必要な所作も、六本木の高級レストランに相応しいスマートなエスコート術も、彼は完璧に心得ている。 マヤは先程からちくちくと感じる視線に落ち着かなさそうに肩を竦めた。 流石に店の者は露骨な視線など投げつけてはこないが、近くのテーブルの特に女性客からは二人を値踏みするような視線が飛んでくる。 ――あの目立つ男はどこの誰だろうか、一緒にいるあの女とはどういう関係なのだろうか―― 海外では感じることのなかったその種の視線がマヤを不安にさせる。 こんな時程、自分の「パッとしない感じ」を嘆くことはない。 ――が、それをあまりにも態度に出すのは真澄にも失礼だと思うので、せいぜい、”一応人気女優ですけど、何か”とでもいった風情の仮面を被ることにする。 「大丈夫だよ」 「え?」 「無理して女優然としなくていい。君は十分綺麗だし、浮き上がってなんかいない」 もう――何で勝手に心の中を読んじゃうの? と、マヤは頬を紅くしながら頭の中で呟く。 シャンパングラスに薄い唇をつけたまま、完璧な笑顔でこちらを見られると――つい2時間前にその琥珀の瞳に宿っていた妖しい熱に翻弄されていた自分が猛烈に恥ずかしくなってしまう。 「だから君を外へ連れ出したんだ――世界中どこにいたって、俺と君はしっくりきてただろう?」 確かに。 様々な人種の中に身を投じてみれば、日本で気になっていた身分や外見、年齢差といった要素は誰にも顧みられることはなかった。小柄で童顔の為か稀に未成年者扱いされることもあったが、二人立ち並ぶ姿を見てカップルであることを疑われたり、指差されたりするようなことなどなかったのだ。 「それどころか、時々君はその類稀なる才能で生活の糧まで得てくれたし」 そう、世界にはクレジットカードというものが通用しない地域だってあり、いかに万事抜け目のない真澄といえども財布の残高金額を見誤ることも、今回のように盗難の憂き目に合うことだってある。 たった数ルピーの乗車運賃を得るために、身の安全を確保できる程度のホテルに宿泊するために、二人は何度か”芸は身を助ける”の格言を実行した。 言葉は通じずともマヤの卓越したパントマイム技術と独特の演技は街行く人々の喝采を浴びたし、よく考えてみれば真澄は興業主なわけで、外国語での人寄せなどお手の物。 更に簡単なバンドネオン程度なら演奏できるという芸まで彼は持ち合わせていた。 「ふふっ、あれ、面白かったですねえ――! 自分の芸でお金が稼げるって、改めて気づいたかも」 「大道芸は芸人の原点だからな。俺も自分の仕事の本来の意味を実感するいい機会だった」 「本格的にああしたパフォーマンスを勉強し直したいんですけど――」 「ああ、なら丁度今、日本に戻ってきている有名なパフォーマーがいる。 週明けにでもコンタクトを取ってあげよう」 と、真澄はひらがなのちょっと変わったパントマイム集団の名前を挙げた。 マヤがもう一度その名を聞き返そうとした時、後ろから声をかけられる。 「こんばんは、楽しそうですわね、お二人共」 水城の為に新しく席をしつらえると、三人は和やかに会話を楽しんだ。 旅先でのエピソードを幾つか披露するごとに二人の表情がくるくるとよく変わるのを、水城は笑いを堪えながら見守る――日本を発つ前の若干の不自然さがなくなり、居心地の良い関係になっていることは勿論わかったが、特に自分の上司の表情の変化には驚かざるを得ない。 ポーカーフェイスとは誰の為にある言葉だったのか、疑ってしまいそうになるではないか。 「――で、亜弓さん、というよりもハミル氏の仕事を引き受けた、という件ですけれど」 「『アクトレス・モーニング』だ。期日は明日から日曜までの3日間らしい」 何気なく言い放つ真澄を水城は思わず凝視する。 「大丈夫ですか?あの企画はかなり赤裸々なものまで遠慮なしのはずですが――」 「どういう意味だ」 「そのままの意味です。社長はともかく、マヤちゃんのイメージも考えて行動されて下さいね」 「演じる程コンセプトとズレるらしいぞ ――が、あくまでいつものマヤと俺の朝を演出すればいいんだろう?」 「マヤちゃん、一応気をつけておきなさい。調子に乗って何かやり兼ねないわ」 「うーん、そんな気がします、あたしも」 言わんとするところを察することができるようになったのも、今のマヤという所だろうか。 「で、何が撮れるかわからない、として――亜弓さんはその写真をどう使いたいのかしら?」 「来週の会見に絡めるつもりの様だ。写真の出来次第で変わってくるとは思うが、一応計画通りに進めておいてくれ。変更が生じ次第、すぐ動ける心づもりだけしてもらえればいい」 「かしこまりました」 それから会話は幾つか移り変わり、三人は席を立った。 マヤが割としつこく食い下がったものの、水城は突然とった有休の使い方については含みを持たせて応えてはくれなかった。しかしその後に別の面会があるであろうことは明らかだったので、真澄としても気にならないといえば嘘になる。 何にせよ、ようやく自分という厄介な上司の懸案事項がまとまりつつある今、彼女が彼女自身のためだけに行動できる日がやって来たことは歓迎すべき事に違いない。 「いろいろ、本当に有難う」 別れ際、今までにない穏やかな声で頭を下げる真澄に、水城は眼鏡の奥で一瞬目を瞬かせた。 「これからも、宜しく頼む」 「ええ、こちらこそ――宜しくお願い致します」 差し伸べられた手をしっかりと握り、微笑んだ。 これほどまでに変わってくれたと言うならば、この一ヶ月の並大抵でない苦労も酬われようというものだ。 その変化を与えてくれた唯一の存在に、水城は心からの感謝の微笑みを浮かべた。 「じゃあね、マヤちゃん。社長も、よい休日を」 「はい、水城さんも」 *** 再び水城と別れると、二人は暫く六本木の街中を何処へ行くともなく彷徨った。 流石に夜風は冷たく、自然と寄り添うような形になる。 あと一月もすれば、街中がクリスマスのイルミネーションに包まれる。 その頃には、二人、いつどのような姿であっても共にこうして出歩く事ができるはずだ。 何の肩書きも名目も必要とせず、ただ恋人同士の二人として。 「さて、これからどうする。まだ8時前だし、映画のレイトショーには十分間に合うぞ。 正直なところ途中で眠りこみそうだが。君が望むなら、横浜に夜景を見に繰り出してもいいが、俺のテンションの方まではあてにしないでくれ」 「はいはい、疲れたからおうちに帰りたいんでしょ?お・じ・さ・ん。 無理しないでいいですよ、あたしも流石に疲れちゃいました。 よく考えたら今朝までマニラにいたんですよね?すごく長い一日だった気がします――」 「寛大なお気遣いに感謝します。オジサンには確かに旅帰りに夜遊びするだけの体力はないのです」 互いに無理をすることなく、疲れた時は疲れたと言えるようになったのも、いい変化だと思う。 以前は必要以上に相手の気持ちを考えすぎて、ぎくしゃくと身動きできなくなってしまうこともよくあることだったから。 でも時には遠慮なく踏み出さねばならないタイミングがあることだって知っている。 「マヤ。明日の予定その一、俺の財布を買う。その二、二人の新居を決める。その三、君の新しい芝居の台本選び、といきたいんだが、どれか一つ選べ」 「えっ……え、新しいお芝居!?」 「最初にそこに食いつくとは流石だな。 君名指しのオファーの中から面白そうなのを幾つか選んでおいた。 後は君のインスピレーション次第で決めるといい」 「ありがとうございます!!最近、テレビやCMのお仕事ばかり続いてたから……あ、勿論それが嫌ってことじゃなくて」 「わかってる。そろそろ舞台が恋しくなる頃合いだろうと思ってた」 一ヶ月を共にして、前よりもずっとずっと彼女のことが好きになった。 そして彼女の中に潜む才能の底のなさをも、改めて思い知らされた。 見知らぬ街の見知らぬ風景、雄大な自然の只中にあっても常に変わることのない、演じることへのあくなき情熱と好奇心――最初に出会った時から真澄を惹きつけてやまない彼女の胸の内の炎。 モンゴルの平原で星空を見上げながら物語を紡いだ時。 パリのオペラ座の楽屋裏でエトワール達の影を覗き見た時。 いついかなる時にも、彼女のきらきら輝く瞳にはまだ見ぬ虹の世界への憧れが浮かんでいた。 その身がある限り、そしてそこに観客がある限り。 彼女は千も万もの仮面を求め、物語から物語へと歩き続けるのだろう。 満面の笑みを浮かべて胸に飛びついてくるマヤを抱きしめながら、耳元で囁く。 「新居の方にももうちょっと興味を示して欲しいんだがな」 別に今のままでもいいけど――と呟きかけた唇をキスで塞ぐ。 入籍後まで彼女と別居し続けるなど耐えられるはずもなく、またそれがマスコミにどう書き立てられるかも大体予想がつくだけに、そのままというわけにはいかないのだ。
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