第6話

 


「予定その四、みつけちゃったかな――」

心地良い沈黙につい微睡みかけた頃、ぽつんと呟いたマヤの声に真澄は瞼を開いた。
マヤのマンションに帰り着いた後、荷解きをするのはとりあえず後回しにして紅茶を煎れた。
マヤは勿論、砂糖たっぷりのミルクティーにして。
真澄は彼には珍しく、ほんの少し砂糖を足したストレートで。
芳しい茶葉の香りに包まれて、指先から胸の内までじんわりと温まる。
マヤの膝を枕にし、収まりきれない足を折り曲げてソファで丸くなるのが、この部屋での真澄の最も馴染んだ姿となっていた。耳をすませてようやく聞こえる程度にボリュームを落としたテレビを付けて、観るともなく眺めながら、マヤは柔らかな真澄の髪に指を差し込んでゆっくりと梳く。
いつもならするりとすぐに指の隙間から流れ落ちるその髪は、今や二重、三重に巻きつけても余りある程の余裕でマヤを飽きさせない。

「その四――何だ」

「髪。切らないといけないんじゃない?」

「ああ――そういえばそうだったな、忘れてた」

「今日、誰も速水さんだって気づいてなかったんじゃないですか、会社で」

「……あー。そういう事か。何か変だと思った」

再び瞼を閉じる。
額を撫でるようにして前髪を梳いてゆく。
端正だが限りなく油断しきった顔が露になり、マヤはきゅっと胸が高鳴るのを感じる。
その薄い唇にキスを落としたくて、愛しくて堪らなくなる。
今すぐそうしたいのと、このゆったりとした会話を楽しみたいのと。
どちらの魅力にも抗いがたく、中途半端にこめかみに唇を寄せてみる。

「でも、ちょっと勿体ないな――」

吐息にぞくりとしたのか、真澄は僅かに肩を竦めて

「流石にここまでだと鬱陶しいだろ?」

「でも長いのも案外。可愛いです」

「カッコいいんじゃなくて、可愛いのか」

「そうだ、ちょっと前髪括ってみて?」

思いついて、テーブルの上にあった自分のヘアゴムで前髪を軽く括ってみた。
一気に幼くなってしまったようなその姿に、遂に声を立てて笑い出してしまう。

「三十も過ぎた男に何不気味な事して遊んでるんだ――」

「ふ、あははは――は、速水さん、その顔、素敵。ちょっと写メを……」

「駄目、絶対。こら、やめなさい」

黙ってしたい放題にさせていたら、本気で写真を撮られ兼ねない。
手にした携帯を取り上げて、ソファの下に投げ込む。
冗談じゃない、明日の朝何を撮られても特にどうとも思わないが、この姿だけは御免こうむる。

「もう、大丈夫、誰にも見せませんから――」

「そういう問題じゃない」

尚も諦めずにソファの下を手探りしだしたマヤに、真澄は遂に身体を起こして覆い被さり、動きを封じ込める。
細い手首を胸の上で掴み上げると、さも残念そうに口を尖らせた。

「もう、髪の長い速水さんなんて滅多にみられないのに――普通に写メも駄目ですか?」

「何か……嫌だ」

中高生じゃあるまいし、いい年して恋人の携帯電話に自分の写真を残すなんて振る舞いは恥ずかしすぎる――と、頼むから気づいてくれ、マヤ。

「ケチ〜」

ますます尖る唇を摘み上げる。
そうやっておねだりしても、駄目なものは駄目――と言いかけて、ふと思いついた。

「ああ、じゃあ交換条件でどうだ」

「どんな?」

「君が……」

――なら、撮られてもいい。

と、その一言を囁いた瞬間。
マヤの顔が真っ赤に染まり、つくづく困惑しきった嘆きの声をあげた。

「もう――速水さんて、やっぱ……」

「何とでも言え。無理なら、君も諦めるんだな」

「……出来ますよ」

「え?」

封じ込めていた両手に力がこもったかと思うと、ゆっくりと真澄の頬を包み込む。
上気した頬の産毛の柔らかさを、吐息で感じられそうな程の近さで。
黒曜石の瞳に挑むように覗き込まれ、真澄の身体の奥がじわりと熱を帯びる。
昼間に通りすぎていった小さな嵐が大型化して、今度はしつこく停滞しそうな様子で部屋の中を湿らせてゆくのを、二人は快く受け入れる。

「出来る、んじゃなくて」

「はい――したい、んです。あたしが」

「……いい子だ」

真澄はゆっくりと目を閉じた。
その瞼の上に、マヤが静かに唇を重ねる。
それから、さっきようやくのところで堪えた、形のいい唇の上へと。
吐息を被せるようにして口付けると、後は身体が勝手に動いた。
マヤの手が、足が、腕が、鼓動が、若々しい情熱の全てが熱く滾り、真澄へと向かって雪崩れ込んでゆく。
真澄はただそれを深く受け止め、マヤの為すがままに翻弄された。
真澄の広い胸の上にうつ伏せになり、シャツの上から頬を擦り寄せる。
ふわりと漂う煙草と、香水と、彼独特の微妙な薫り。
その全てを胸を膨らませて吸い込み、自らの吐息に変えてゆく。
開いた襟元から除く鎖骨の形の鋭さや、喉仏が上下する様を上目でうっとりと眺めながら、指を這わせてゆく。
いつしか湿り気を帯びてきた小麦色の素肌に彼が明らかに興奮しつつあるのを感じ、マヤはお腹の奥がじくじくと疼いて堪らなくなる。
シャツ一枚に覆われただけなのにやけに遠く感じられる身体――引き締まった筋肉の震えを、熱を、今すぐ自分の素肌で確かめたくなる衝動のままに動く。

「で、この後は――?」

シャツのボタンを全て外し終わり、現れた肉体の造形美にマヤが言葉を失っている所に、真澄が笑いを含んだ声で囁いた。伏せた睫が作り出す陰影、形のいい唇が皮肉っぽく傾く様――まるで美しい悪魔に誘惑されているような錯覚を引き起こしそうになる程に。
彼は一体、自分のその魅力をわかっていて有効に活用しているのか、息をするように自然に振る舞っているのか……

「そんな風に、試すような言い方はしないで」

マヤはゆるゆると頭を振って、真澄の唇を指でなぞる。
誘惑を甘く受け入れて艶めく唇は、瞬く間に彼を虜にする。

「速水さんみたいにはできない、かもしれないけど。
 あたしだって、速水さんが――欲しくて、どうしようもない時だって」

最後は消え入りそうな声で、でも必死の想いを込めてマヤは伝える。
仕掛けたのは真澄の方だが、彼女の真摯な想いの前に不意打ちされるのはいつだって彼の方なのだ。
敗北の証に瞼を閉じ、マヤの両手を引き寄せて自分の胸に押し付ける。
一つずつ、マヤの身体に刻み込むように流れてゆく真澄の心臓の鼓動――
耳の奥で、自分の血がそのリズムに合わせて突き動かされるのを感じ、マヤは満足の微笑みを浮かべる。
真澄はマヤの嫋やかな曲線を愛していたが、マヤも真澄の削りこまれたような鋭い稜線を愛している。
自分のものと似て否なるその造形の、重さや厚みを確かめるようにしてマヤは撫でる。
筋肉の筋がどこから膨らみ出すのか、固い骨がどこで凹みを作り、影を作り出すのか、目を瞑っていても遠く離れていてもすぐ思い出せるように、マヤは執拗に真澄の半身に触れ続けた。

「マヤ――俺は、欲しい時は我慢しない。だから君も……」

「うん――しない。できないよ……速水さん」

web拍手 by FC2

last updated/10/11/03

inserted by FC2 system