第8話

 


時間の感覚がどろどろに溶けてゆく――

今何時だろう、と、時計を覗き込むことも忘れて。

……ふと、頬に刺す温かさに気づき、マヤは目を覚ます。
夢も見ていなかったのに、いつの間にか朝になってしまったらしい。
着た覚えのないパジャマをつけているところを見ると、真澄が着せてくれたに違いない。
その彼は既に隣から消えている。
布団の中を探ってみたが、自分ひとりの温もり以外見つからない、寂しい空間。
ぼんやりと身体を起こす―――途端に、普段意識しないはずのあちらこちらが軋む。
稽古で鍛えたこの身体、ちょっとやそっとでくたびれたりはしないはずだが、昨夜の真澄はちょっと……やりすぎだった、と思う。最後はどちらかというと苛めに近いような――と、思い出しただけで猛烈に恥ずかしくなり。

「うあ……あああ、もう、イヤ……ッ!」

誰にともなく呟きながら、布団の上にぽすん、と頭を埋めたその時。
耳慣れない言語が寝室の向こうのドアから飛び込んできた。
――かと思ったら、そのドアが突然開いて

「Bonjour!mademoiselle!! Tu as bien dormi ?」
「は……え、うわっ!?」

自分と真澄以外の人間がこの部屋にいること自体が初めてだったので。
マヤは頓狂な声を出して飛び上がり、その人物の後ろから響く耳慣れた笑い声にようやく我に返った。
途端に、パシャッ、といきなりフラッシュの光を浴びる。

「全く、感心なくらいいつも通りの北島マヤだな」

ゲラゲラと馬鹿笑いをやめない真澄を唖然として見上げ、それからその隣でニコニコ笑っている金髪の大柄な男性を見やる。
その顔には見覚えがあった。
かつて梅の谷で何度か会ったし、試演の時も本公演の時にも出会った――
そう、今は亜弓の夫でもあるフランス人カメラマンのピーター・ハミル氏だ。

「ええーっ!!も、もう来たんですか!?」
「ついさっきな。挨拶ぐらいしなさい」
「え、ええっと、ぼ、ボンジュール!?」

それくらいしかフランス語なんてわからない。
が、ハミルの茶目っ気たっぷりな笑顔と温かく求められた握手に応えると、不思議と警戒心は解けていった。
よく見ると真澄自身、ルームウェアを着てはいるが髪の毛はあちこち飛び跳ねているし、おそらくハミルがやって来た時には彼も寝ていたに違いない。
マヤにはさっぱり理解できない会話を幾つか交わした後、二人がこちらを向いた。

「――自分の事は空気のように扱ってくれ、だそうだ。
 話しかけてもいいが、あまり気にせず、いつも通りの君と俺でいろとさ。
 緊張しても“演技”しても構わないらしいが、どうする」
「演技なんて……できるわけないですよ。勝手に緊張してます」
「じゃあ、そういう事で」

ハミルは流石にプロで、空気になる、と言った瞬間から本当にそうなった。
確かに観られている、撮られているのは感じられるのだが、その影のような立ち居振る舞いはとても控え目で、うっかりすると存在を忘れてしまいそうになる程なのだ。

いつも通りと言われても……とリビングに移動してみると、真澄が朝食の支度を始めていた。
慌てて手伝おうとしたら、「今日に限って慣れない真似はやめなさい」とそっけなく追い返される。
仕方ないのでソファの周囲をうろうろしている様を、ハミルはパチパチ撮影している様子だ……こんな、演技もしていない、寝起きの役立たずの女優なんか撮った所で何になるんだろう――と、他人事のように首を傾げた。
本当にすることがないので、ソファの上で落ち着かなげに膝を抱えて座り込む。
裸足の指先が少し冷たい。
窓の外は今日も見事な秋晴れだったが、昨日よりも温度が下がっていることは間違いないようだった。
と、ふとソファの前のローテーブルの上に置かれた数冊の冊子が目に入った。
その表紙を見て、思わず声を上げてしまう。

「速水さん、これって」
「ああ?あー、それだよ、新しい芝居の台本。
 それは『ヘンリー6世』だ、君がマーガレット役とはね。
 あとは自分で確認してくれ、どれもなかなか面白い脚本だと思うぞ」

カウンター越しに顔を出しながら声をかけてみると、既にマヤが表紙を捲りだしている姿が目に入った。
――しまった、朝食後にすべきだったか、と真澄が一瞬眉をしかめたのをハミルは見逃さず、すかさずシャッターを押されてしまう。
真っ白なページの最初に記された、配役の羅列。
三部構成の、複雑で壮大な史劇のシナリオに顔を突っ込むようにして、マヤは没頭する。
芝居の事となると恐ろしいまでの集中力と記憶力を発揮するらしい自分の妙な特技については、いろんな人に感心されたり呆れられたりする。普段はてんで不器用で物覚えの悪い自分なのに、我ながら妙な才能だ。
そのせいで人に迷惑をかけたり、自分に災難が降りかかったりするのも稀ではない――以前、電柱に思いっきり衝突して唇を切った時には、真澄に本気で怒られた。
二度と街中で本を持ち歩くな、読み歩くな、ときつく厳命されて以来そういった事故は減ったが、部屋の中でも一度その状況に陥ってしまうと、そこから抜け出すのは至難の業だ。

意識のどこかでは――いつしか香しい紅茶やこんがりと焼けたパンの匂いが漂ってきて、無理やり口に突っ込まれたプチトマトの感触なんかもわかっているのだ――が、五感の全てが曖昧で、ただ文字を追う傍から見知らぬ世界が頭の中に彩を添えて広がってゆく。
劇中に吹き荒れる嵐や、飛び散る血の色まではっきりと見える程に、鮮やかに。
ぼんやり耳に入った「マーガレット役」という言葉に促され、徐々に彼女に同化していってしまう自分を感じながら、夢中になって虹の世界を追い求めて――ふっと、真っ白な裏表紙に出くわして、ようやく我に返った。

「……あ、れ?」

思わず、ぽかんと顔を上げる。
窓の外はだいぶ前とさほど変わらないように見える、晴れ渡った空。
だけど時計は既に10時を過ぎようという所だ。
リビングに入ってきた時は6時半だったから……ぎょっとして周囲を見渡す。
ローテーブルの上には半分食べかけの朝食の跡。

……誰が食べたのだろう、あたし?

折り曲げた膝が痛い。
背中を伸ばすと、ぽきぽきと骨が鳴った。
ハミルの気配などとっくに消え去っており、よく見ると皿の横に何やら横文字のメモが残されていた――が、勿論マヤには読めない。

「は、速水さん?」

小さく呼びながら立ち上がって、ふと視線を落とすと、いた。
すぐそこに顔があった。
ソファの右端、フローリングの床の上に並べた幾つかのクッション。
その上に右肘を折り曲げるようにして頭を乗せ、真澄は眠っていた。
肌寒いのか、少し肩を竦めるようにして背を丸めている――よく日焼けした肌にその姿は少し不思議な光景に見えた。
骨ばった指先と脚の間には、開きっぱなしの本が1冊。
今自分が読み終えた、三部構成の脚本の第一部。
恐らく、マヤがあまりにも無反応なので、諦めて自分も読んでいるうちに眠ってしまったのだろう。
そういえば起きてきた時、真澄は朝食の支度をしていたんだった。
何度も名前を呼ばれたし、一口くらい食べろ、と口に何か突っ込まれたような気もする――が、ほとんど何も覚えていないことに冷や汗をかいた。

……ああ、写真の撮影もあったのに。

きっとハミルさん、呆れて帰っちゃったんだろうな……

亜弓にあれだけ頼まれ、勿体ぶって引き受けたような“仕事”を、きっと自分は台無しにしてしまったのだ。
いくら女優の何気ない朝の光景を撮る、といっても、魅力的な笑顔も浮かべなければ様になるようなポーズもとらず、ただ丸くなってブツブツ呟いているだけの女なんて、しょうもないにも程がある。
大体、女優とはいえ素顔の自分は全く美人でもなければ見栄えもしないのだから。
改めて、自分の馬鹿さ加減に溜息をついたら、そっと掠れたような声が聞こえた。

「……ようやく、気付いたな」
「速水さん……」

じわっと、涙が出そうになった。
情けなくて、申し訳なくて。

「ごめんなさい……あたし、折角のお仕事を……」
「……寒い。こっちにおいで」

真澄が腕を伸ばした。
長い髪が垂れ下がって、表情がよく見えない。
ソファから滑り降りて傍ににじり寄ってみると、両腕で静かに引き寄せられた。
そのまま、横抱きに真澄の胸の中に落ちてゆく。
まるで抱き枕のように抱きかかえられて、その温もりと穏やかさに、きっと不機嫌に違いないと不安に怯えていた心が緩んでいく。

「……怒ってないの?」
「何を」
「だって、ハミルさんは……」
「帰ったのか、彼は」
「多分。机の上にメモがあった」
「撮影は10時までの約束だったしな」

髪の毛の中に顎を埋められる。
背中がさらに丸くなり、長い脚が腰の上に無造作に乗る。
冷えた手先を首筋に擦り付けられたので、きゅっと首を竦めた。

「何で怒ってると思うんだ?」
「撮影……あたし、台本に夢中になって、何もしてなかったし」

くすっと、髪の中で笑い声が聞こえた。

「何を今更。いつもの事だろうが」
「うん……そうなんだけど。
 ああ、亜弓さんにあんな大見得きっちゃったのに。どうしよう」
「まあ……いいんじゃないか。いつも通りなのは確かなんだし」

さらさらと、髪を撫でられる。
背中も撫でられて、その心地良さについ微睡が落ちてくる。

「速水さん……」
「……ん」
「キスしていいですか」

そっと顎を上げてみると、半分伏せられた瞼の下から、穏やかな視線に胸を貫かれた。
きゅん、と痛む胸の震えを抑えながら、マヤはその形のいい薄い唇に自分の唇を重ねる。
ちゅ、っと可愛い音がするようなそのキスの瞬間、二人とも思わず口元が綻んでしまった。
昨夜のような、底無しの快楽の渦に引き裂かれるのも勿論嫌いじゃない。
だけど――こうしてお互い恥ずかしげもなく幸せな笑顔を曝け出して、くっつき合うだけの時間だって大好きだ……

頭を真澄の胸に擦り付けるようにして、マヤは小さく丸くなった。
温かで、幸せすぎて、溶けてしまいそうな程贅沢な休暇を、隅々まで味わう為に。

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last updated/10/11/06

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