全1話


これは花粉症ではない。断じてない。
ちょっとタチの悪い鼻炎、若しくは軽い風邪。

ボンヤリとした頭の中でブツブツ呟きながら、マヤはだだっ広い廊下を足早に歩いていた。
通いなれたスタジオのはずなのに、未だに自分の向かっている方向が正しいのか不安な気持ちと、一晩の間に捲り過ぎてボロボロになった台本を抱えながら。


「……ぐっしょん、へっくしょん!!」


――あああ、もう、最悪。
何度目かの溜息と涙を零しながら、ズルルッ、と鼻を啜り上げる。
今朝からどうも鼻がムズムズするな、と思ったら、学校を出た辺りからくしゃみが止まらなくなった。
手持ちのポケットティッシュはあっという間になくなってしまって、ハンカチが一枚だけ。
それも汚い話だけど鼻水でグシャグシャになってしまってもうどうしようもない。


(どうしよう――水城さんに怒られる……)


いや、水城がどうこうというよりも問題は撮影だ。
大河ドラマと並行して撮影中の映画は来年夏に公開予定の冒険映画で。
舞台は熱帯のジャングル、主人公は活発な少女という設定なのに、風邪でグズグズの赤い鼻のままでスクリーンのど真ん中に映るわけにはいかない。


(もう――何でこんな時に!ちゃんとあったかくして寝たのに!誰から伝染ったんだろ?)


風邪にしたってマズイのだけれど。
それでも花粉症ならずっと症状が続いてしまうのだろうし、それは何としても御免被る。
ぶる、っと寒気が来たような気がして肩を竦める。
二月――誕生日が過ぎて二日後の月曜日、まだまだ冬と然程変わらない季節。

制服のブレザーの下から紺色のニットを着込んでこそいるが、慌てすぎて教室にコートを忘れた事にタクシーに乗ってようやく気付いた――が、取りに戻る時間はなかった。
女子高生の意地を見せ、膝上のプリーツスカートの下は生足にハイソックスだけ。
立っているだけでゾクゾクと足元から鳥肌が這い上がってくるので、
少しでも早く目的地に着こうと急ぐあまり、最早早歩きというより小走りで進んでいた。

さあ、この角を曲がりさえすればあのスタジオの扉に辿り付く――その前に、隣の控室で存分にティッシュペーパーで鼻をかまないと――
っと、勢いよく身体を垂直に移動させた、その時だった。


「……きゃあっ!?」


角の先にはまた壁――ならぬ、人の脚、それもやけに長いヤツが待ち構えていて、だがその一瞬でそれが人の脚だとマヤに認識できたわけではない。
思いっきりぶつかった瞬間、ふわ、っと支えられるように両肩を掴まれた。
お蔭で何とかひっくり返りそうになるのを堪え――たものの、くしゃみまでは堪えられなかった。


「ご、――っくしゅん、ごめんなさい!!……っしゅん、へっくしゅ、っしょいっ!!」


泣いているのか謝っているのか訳がわからない、と自分でも思うが、致し方ない。
落ちないようにと咄嗟に台本を腋の下に抱え直すと、濡れたハンカチで鼻を抑えながら立て続けに何度かくしゃみを――し、
ようやく顔を上げた視界の先に飛び込んできた光景に、思わず硬直する。


「……体調管理くらいしっかりしたらどうですか、北島マヤさん」


ひっくり返って笑い出す寸前、なのが手に取る様にわかる、速水真澄が慇懃無礼にこちらを見下ろしていた。
今時、というかこの際白のダブルスーツを滑稽にならずに着こなせるのは漫画の登場人物か長瀬智也くらいなんじゃないか、といった具合で、
相変わらずの微笑を甘いマスクに貼りつけたまま。


「――うっわ、最悪」


「お互い様だろ。鼻水つけたな、人のスーツに」


「ふーんだ、もっとつけてあげましょうか!……ってか邪魔なんですけど。
 無駄にでかいんだからそんなとこに出没しないでください。
 それに何そのスーツ。白い巨塔ですか。」


幸い、その時間のこの場にしては人通りがなかったからよかったようなものの。
もしその場に関係者の一人や二人いたならば、短い間に取り交わされたこの会話に絶句白目、
かつ「見なかった事」にして通り過ぎたであろう事は間違いない。


「前も見ないで勝手に突っ込んできた癖に何様だ鼻垂れ娘――花粉症か?」


「もう――!この季節にくしゃみしてる人が皆花粉症だと思ったら大間違いですっ」


「何怒ってるんだ――ああ、自分だけは違うって思い込みたいクチか。
 僭越ながらご忠告差し上げるが、今年の花粉は例年の数倍だとか。
 すぐに病院に行って検査してもらうといい――というか、行かなかったのか?先月健康診断だっただろ」


一撃でマヤの数倍の攻撃力を持つ速水真澄の言葉にすぐ対応するのはなかなか難しい。
まして今のこの状態では。
いつもなら「うるさいっ!このイヤミ虫!!」とか何とか叫んで立ち去るはずなのだが、
今日は言葉が浮かぶ前に鼻水とくしゃみの勢いに負けてしまう。
顔を真っ赤にして上半身を揺する、その姿にさしもの真澄も同情したのか一瞬口をつぐんだかと思うと。
無言でその真っ白なスーツの胸元から何か取り出し、マヤの鼻先に突き出した。


「……?」


「もう使い物にならないだろ、そのハンカチは。
 そんな安っぽい生地で鼻の粘膜を傷つけるな。
 さんざ言ってきたつもりだが敢えてまた言う。
 君の身体は君だけのものじゃないってことをプロなら覚えておけ」


「……大都の商品だって?」


「その通り」


思わず何か言い返そうとしたが、その言葉に込められた気配に皮肉以外の響きがある事にも、心のどこかで気付いているのだ。


「社長命令だ、さっさと借りろ」


いらない、と開きかけた口元――だけでなく、目の前が一瞬覆われる。
途端に、何故か心臓がきゅん、と飛び跳ねる音を聞いたような気がした。
先程抱きとめられた時にも感じた――すぐに打ち消した、痒い様な、あの変な感覚。
不思議な甘い薫りは、当然のようにその薄い布にも纏わりついてマヤを包み込む。


「うっ――や、何!」


あっという間に鼻を摘ままれる。
誰かさんとちがってちんまりとしたそこを、長い指先が捻り上げると――


「へっくしょん!!――も、いら――っくっしょん!」


何でこんなヤツに鼻をかまれなきゃいけないの――コドモじゃあるまいし、と。
心が抗議の声を上げるものの、再びくしゃみの発作に襲われてしまうとそれどころではない。
暫くの間頭の中を真っ白にしたまま――
真澄の匂いに包まれ、もしや顔半分に溜まってるんじゃないかと疑いたくなる程の体液を絞り出すマヤであった。





「……熱、あるんじゃないか?」


「なら風邪です――花粉症じゃないですね」


「何威張ってるんだ……撮影は何時からだ?」



ようやく、顔を上げてみると。
驚いた事に、あの速水真澄が「心配」の二文字がピッタリ、といった具合で覗き込んでいる――僅かに膝を折りさえして――のに気づき、
違う意味で赤くなりそうな頬に思わず手をやる。



「……えっと、七時半からって聞いてますけど。
 でもメイクとかあるから、もう楽屋に行かないと」


「今でちょうど六時か――ああ、君。北島だが、最悪いつまでに楽屋入りしたらいい?」


つい先程、二人の背後のドアが開き、目の前の光景に絶句したままのメイク担当者に真澄が呼びかける。


「えっ、あ、そ、そうですね――三〇分前なら何とかなると思いますけど……
 今日のシーンは制服なんで、マヤちゃんの衣装はそのまんまの予定なんです。
 上だけ替えてもらいますけど、それ冬服なんで」


しどろもどろになりながら、まだ若いその女性メイク担当者は答えた。
“あの”速水真澄に直にお目にかかったのは初めての事で肝を冷やしたのもあるし、
更に一緒にいるのがその彼と犬猿の仲で名高い北島マヤ、とくれば思わず声がひっくり返りそうになるのも仕方はない。


「成程。ではあと三〇分、そこを借りても構わないか?」


「ど、どうぞ――」


「ちょっと――何勝手に……」


ぐす、っと文句を言おうとした途端に腕を掴まれ、スタスタと引っ張られる。
掴まれたそこは確かに痛いし、まだ頭は朦朧とするし、心臓だって――そう、何故だか落ち着かない。非常に。
熱っぽいのは――風邪のせいだけでは、どうもないような気がする。



「そこで横になってろ」


「でも……」


「三〇分でその顔を元に戻せ。協力してやるから」


「はぁ?」


とん、と肩をつかれて、ドサリとソファの上に沈み込む。
段々首の後ろが熱くなってきた事に気が付いた――間違いなく、風邪なんだろう。
熱っぽく潤んだ視界の中で、白い巨塔がテキパキと動いているのをぼんやりと眺める。
悔しくなる程整ったその横顔は、正直いって今度の映画に関係するどんな俳優よりも、
いや、当の女優ですら太刀打ちできないんじゃないか、ってくらいに、キレイだな、なんて。
口が裂けても言うつもりはないけれど。


(ホントに――訳わかんないよ、この人……)


冷たくて、計算高くて、何を考えているかさっぱりわからない――はずなのに。
ああして支えてくれたり、意地悪い口調で気遣ったり。


(気遣い――商品管理には細心の注意を払うって――?)


そんな風に思い込もうとする傍から、自分でもわけのわからない感情がちょこちょこと口を挟むのだ。


それにしたって、これって一応“親切”なんじゃないの?


……と。

何かを企んでいるにしたって、次の瞬間にはきっと利用されるんだってわかっていたって。

親切にされて、無理矢理イヤな気持ちになるなんて心情には流石になれないマヤだった。

スーツの下には、これまた着る人を激しく選り好みしそうな薄桃色のカッターシャツをびしりと着こなしている。
その切れそうな程ピンと張りつめた袖口を捲り上げ、楽屋の隅の手洗い場で先程マヤの鼻先に突っ込んだ自分のハンカチを丁寧に洗っている。
やがてその手元から白い湯気が立ち上ったのを見て、どうやらお湯で流しているらしい事がわかった。
ぎゅうう、っと大きな手が絞り上げる手つきには一瞬の無駄もなく、流れるように美しくさえあり――その、手が、磨き抜かれた靴の爪先が、
じっとその夢のような光景を見つめるマヤの目の前で立ち止まる。



(あ……)



だめだ――これ、すごく……



すごく、きもちいい。



折り畳まれた、熱いハンカチが両方の瞼の上にそっと覆い被せられる。
そのまますうう、っと眠りの縁に沈み込みそうなのを必死で堪える――けど、太刀打ちできない。
この男を目の前にする時はいつもそう。
キライなのに、大っキライな奴で間違いない筈なのに。




「あと二五分――起こしてやるから、そのまま眠れ、チビちゃん」




低く穏やかな、魔法でもかけられたんじゃないかと思うくらいに耳に心地いい声。
熱いハンカチで瞼を抑えられたまま、そっと首の後ろに反対側の掌が差し込まれる感覚。
まるで宙にふわふわと浮いているような、夢のような心地良さはそのままに――すとん、と勝手に身体が落ちてゆく。


柔らかいような、それでいてしっかりと支えられているようなこの感覚は何だろう。


再び、あの仄かな苦味の混じったような薫りに包まれながら。


深く、短い、泥の様な眠りの底に――長い指先は、ゆっくりとマヤを横たえた。



END.



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お察しの通り、本日風邪をひきました。ええ、勿論花粉症ではないですよっ(汁)

last updated/11/03/16

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