全1話


数日前からやけにいい匂いがするな、とは思っていた。 だけどその原因が、まさか花にあったなんて。 それも――人の口から飛び出す花にあったなんて、一体誰が予想できただろうか。 (あ――ダリア) 久々に見た、オレンジ色の鮮やかさにマヤは思わず目を丸くする。 吐いたのは、現在寝食を共にする家族にして友人の青木麗。 丁度、バイト先で知り合ったとかいう男友達(やはり劇団関係者)の話で盛り上がっていた、その人の名前を呼んだ瞬間、唇からポロリと落ちてきた。 「ん――どした、マヤ?」 「え?ううん、何でも。珍しいなあって思って――」 「何が」 「麗、その人の事好きなんだね?」 「は――はああ!?何、いきなり!!」 大袈裟に驚いて見せたけど、残念ながら自分と同じく普段の生活でお芝居をする事に関してはからっきし苦手な麗は、顔中真っ赤にさせて口ごもった。 「いいなあ、真っ直ぐで情熱的。麗らしいね。うまくいくといいな」 「ちょっと、何勝手に――え、なんでわかった?  アンタ鈍感だから絶対わかんないと思ったのに」 「へへ。秘密」 くすっと肩を竦めながら、二人の間のちゃぶ台の上に落ちたままの華麗な花びらを見つめる。 どうやら、自分だけにしか見えない、幻の花。 吐いた人の心の色を映す、魔法の花。 昨日、初めてそれを見た時は何かのマジックか悪戯かと思って声をかけたくらいなのだ。 だが、「また何天然発言してんの、この子」という冷たい眼で返されては何も言えなかった。 顔見知りのADが吐き出したそれは、花というよりも草の芽に近いような薄黄色の植物。 だが、紛れもなく草花ではあった。 「マヤちゃん、お疲れ様」 と彼女が声をかけた瞬間、顔のど真ん中に吹きかかってきたから。 だからあわてて拾い上げさえしたのだが―― 「花?何が?」 きょとんと首を傾げるその顔に嘘はなかったし、自分の掌の上でくったりと花咲く草木の生々しさにも嘘はなかった。 しかし、それが見えるのはどうやら自分だけ、らしいのだ。 それからは立て続けに――というか、一歩街に踏み出せばもう、花の洪水だった。 いや、正確には花とは呼べない様な歪なものまで、人は何気ない顔でその口から吐き出している様だった。 「いらっしゃいませ」 「うわー!ありがとう!!」 「ちょっと、遅いし!」 「この度は誠に申し訳なく――いえ、とんでもない」 「あ〜〜ウゼぇ〜〜」 「でね、そこの店長がまた凄いイケ面で」 「手相の勉強してるんですけど〜」 「おかあさーーーん、どこぉおおお?」 「Rパーセックにある星の実視等級をm、見かけの明るさをlm、10パーセックに持ってきたときの絶対等級をM、明るさをLMとするとlm/LM=2.512(M-m)。  明るさは距離の二乗に逆比例するからlm =K/r2 LM=K/102 となり、これを代入、整理して2.512(M-m)=102/r2となり、更に変形して(M-m)=5(1-log r)  …意味不明!!」 「ごめん、待った?」 「いいお天気になりましたねぇ」 「好き、もうホント大好きなの、嘘じゃないってば!!」 「何このダサい服。クライアントを溝に捨てたいの?」 「ロブスターとかもうマジ勘弁……だってあれよく見たら昆虫と変わらないじゃない」 ……いや実に、言葉の数だけ心があり、花があるのだと。 昨日の昼から今日までのまる一日、これ程痛感した事はない。 勿論、全てが麗の吐いたダリアのように華麗で美しい花であるわけでもない。 ひと目で「〜だ!」と名前まで当てられるような花を吐く人は極めて珍しいといえる。 その大抵が小さい名もなき草花であり、恋愛感情のようにわかり易い色から暗く沈んだ絶望の色まで、 実に多種多様な花、もしくは枯れた木っ端を人々は口から吐き出していた。 しかし、当の自分の発する言葉からは一枚の花弁すら見受けられない。 今日、久々に舞い込んだ仕事というわけで気合いを入れて挑んできたラジオドラマの収録。 そこで新たな役の仮面を被ったマヤだったが、その役どころは「幼い頃の淡い恋頃を忘れられぬまま成長したSMクラブで働く女王様」というやや曲がった設定であった。 自分なりに精いっぱい演ったつもりだったが、果たしてその心になりきれていたのかどうか。 一体自分の口からどんな花が飛び出していたのだろうかと、想像しては首を捻っている次第だった。 「……って、ちょっと聞いてる、マヤ?」 「え、あ、ごめん!」 「もう――いいよ、上の空なヤツにはこれ以上の情報公開はやめとく。  てかもうそろそろ出なきゃいけない時間なんじゃないか?」 「どこに?」 はぁ、と全身脱力させた麗の口からはアザミの花でも飛び出してきそうな感じだった。 「あんたねぇ…『ふたりの王女』ん時に速水さんに世話んなったから御礼に行くとか何とか言ってなかったかい?私の聞き間違い?」 「あー、あああ、そうそう、そうでした。  うーん、でも改めて考えたらあの冷血漢にそこまでしてやる必要もないかなぁなんて……」 「マヤ。この際だからはっきり言っておくけどね。  あんたのその速水さんへの態度、ちょっと考え直した方がいいかもよ?」 突然真顔で言われて、面食らったままその顔を見つめ返す。 「どうゆう事?」 「あんたがあの人の事スキになれないのは知ってるし、それだけの事をやってきた酷いヤツだとは思うけどね。  けど彼は紛れもなく業界の有力者だし、何だかんだであんたの立場が優位になるように動いてくれてる。  勿論思惑はあると思うよ。だけど今の所表立ってあんたに敵対してるわけじゃないのは確かだ。ウチらの劇団だって実の所かなり世話んなってるしね。  だからってんじゃないけど、あんたももう子供じゃないんだし、どんなにイヤでも表面上は取り繕って笑えるくらいの大人にならないと、あの人には太刀打ちできないよ?」 「……麗がそんな事言うって、何か――意外」 「気ぃ悪くしたかい?でもホントの事だと思う。 『ふたりの王女』の稽古絡みで北白川さんとあんたの間を取り持ってくれたのは速水さんなんだろ?セッティングしたのは紫の薔薇の人、かもしれないけどさ。  そしてあんたはあの面会をきっかけにアルディスを掴んでいった。  結果として世話になったのは変わらないよ。  和解しろとまでは言わないけど、礼を言うくらいは当然だと思うし、何もしないのはむしろ非常識」 「うん――わかってるよ。でもほら、アイツ相手だとどうしても――ね。  でもそうだね、水城さんにももう連絡しちゃったし……ちょっと行って来る」 ……きっと、今の自分の口からは枯れた蔦の葉くらいしか零れていないんだろうな、と。 内心溜息をつきながら、マヤは擦りきれた畳の上から腰を上げたのだった。

――巧言令色、鮮なし仁、まさに今のお前のその顔だ。 取引先の社長に満面の笑みを返して頭を上げたその瞬間、唐突に脳裏にそんな台詞が過ぎった。 「……どうされました?」 ではまた是非、と快活に笑いながらその社長が扉の向こうに姿を消した途端、怖ろしく勘の鋭い秘書が素早く囁きかけてくる。 「――バレてはまずい真実の突っ込みが入った」 「は?」 「いや――何でも。この後は……三沿銀行の岸頭取と面会か」 ふう、と緊張に強張った肩首を回しながら呟く。 息をするように吐き出せる美辞麗句もお決まりの台詞も、こうも立て続けでは流石に疲れるというものだ。 「そちらはキャンセルになりましたと先程お伝えしましたけど――  もっと重大な面会が待ち構えてますわ」 「――マヤか。しかし連絡があったのは昨日の晩だろう?  気紛れなあの子の事だ、自分で言った事さえ忘れてるんじゃないか……」 それが気になって上の空だったくせに、よくもまあおとぼけです事―― とは口が裂けても言うまい、と思いつつ、水城は素知らぬ顔でスケジュール帳を捲る。 「私に寄越した連絡ですもの、そう簡単にドタキャンされては困りますわ。  今時携帯を持っていないようなので確認は取れてませんけど、今日のお昼過ぎには大都に来る予定です。  社長のスケジュールも2時間程度ですが、捻出しておきましたから」 「それはいつもながらのご配慮痛み入る。  ついでに食事の場所も確保しておいてもらえると――」 「ご心配なく。カジュアル過ぎず堅すぎない、中途半端に子供過ぎず、さりとて大人未満のあの子とあなたにごく違和感のない程度のお店は予約済みです」 「……どうも」 時々、無性に、この有能な女性秘書の黒髪を頭上高く引っ張って無理矢理セーラームーン型に縛り上げてみたい衝動に駆られるのは何故だろう、とふと真澄は考えた。   「が――しかし、あの子の方から俺に礼がしたい、などとはな。  近々嵐でもやってくるんじゃないか」 大都へと移動する車中で書類を捲りつつ、何気なさそうに呟いてみる。 その記憶にはまだ、あの『ふたりの王女』で見た心優しく美しいアルディスの面影が鮮明だった。 「春の女神を演じてあの子も少しは思う所があったのかもしれませんね」 「どういう意味だ」 「冬はいつまでも続かない、とだけいつぞやのように申し上げておきますわ。  でも真澄様、お願いですから今日くらい、その態度はやめてあげて下さいね」 「俺はいつでもこの態度のつもりだが、今日に限ってどんな化けの皮を被れと」 「ごく素直に、率直に、あの子とお話なさいと申し上げているだけですわ。  先程の面会のような、この会話のような取り繕いは無用――でないと折角やって来たかもしれない春も瞬く間に雪の下に潜り込んでしまいますわよ」 返す言葉もなく、ただ無言でやり過ごす―― 春が来た所で、自分とマヤとの関係に特に進展らしい進展が望めようはずもない。 実際、淡い何かを期待している訳ではもうないのだから。 だがほんの僅かとはいえ、確かに以前よりは彼女との間の空気も緩やかになりつつある、とは感じているところだった。 笑顔で「ありがとう」だとか、ましてや「好きです」などという言葉が欲しい訳ではない。 彼女が怒りと憎しみの眼差しでこちらを見据える――あの視線に出くわすことさえないのであれば、どんな言葉であろうとも心からの微笑でもって受け入れられる自信があった。 長い間決して認めたくはなかった単純な事実だが―― 要するに、あの子の事を愛しているのだろう、この、速水真澄が。 「……驚いた、もう来ていたのか」 それは本心からの驚きだったので、取り繕う必要などまるでなかった。 大都芸能社ビルエントランスを潜り抜けた瞬間、受付の目の前に佇む小さな背中を認めて思わず息が止まりそうになったのは紛れもない事実だ。 「あ……ご、ごめんなさい。早く、着き過ぎちゃいましたか?  お仕事忙しいんだったらここで待ってても――  あ、ってかそんな大した事じゃ、あ、いえそういうつもりじゃないんですけども、何ていうかその……」 振り返って真澄と水城の姿を捉えた瞬間、しどろもどろの口からは自分でも理解不能の言葉が飛び出すのにはマヤは内心閉口してしまう。 だが、何よりも驚いたのは―― 「――剛毅木訥、仁に近し、まさに君の為にあるような言葉だな。  大した事なくて俺を呼び出せるのが君の凄い所だよ、丁度腹が減ってるからちょっと付き合ってもらおうか」 相変わらず、小馬鹿にしたような、人を煙に巻く言葉でからかう癖に…… なんで、どうして―― 「……嘘でしょ――よりによって……なんで、あなたが、薔薇!?」 呆気にとられた顔でぶつぶつと何事か呟くマヤを見下ろしながら、 その口から今しもまたピンクの薔薇が咲き乱れているなどとは露程も知らず、真澄は続けた。 「あれ?食べ物絡みで食いついてこないとはどうした、ちびちゃん、体調でも悪いのか?  ならば仕方ない、何もない社長室でよければ存分に君の“礼”とやらを聞いてやっても――」 隣の水城がやれやれ、と溜息を零している事くらいとっくにわかっている。 このどうしようもない悪癖が一朝一夕で改善されるというならそれこそ怪しい魔法の力にでも縋りたいところだが。 ところで――マヤは、一体何処を見ているんだ? ふと、見下ろしたマヤの視線が自分と彼女との足元の床にある事に気づき、自然真澄の視線もそちらに集まる。 だが、何の変哲もない床を穴が開くほど見つめているマヤの心情はちょっと測り兼ねた。 全く、相変わらずわけのわからない子だ……と軽く溜息を零した瞬間、突然その顔がパッとこちらを振り仰いだかと思うと瞬時に赤く染まった。 あまりに唐突なその反応に、思わず真澄の素の本音が零れ出る。 「マヤ――本当に、どこか具合でも悪いのか?大丈夫か?」 小さな蕾の状態で、薄い唇の端から覗きかけていたその薔薇が―― 真紅の薔薇が、見事に開花したかと思うとたちまち二人の間に落ちてゆく様を、マヤは瞬きひとつせず、ゆっくりと見守った。

どんな言葉にも気持ちがあって、色があり、花が咲く。 この1日の間に知った、マヤの新しい”知識“だった。 花の種類は多様で、どの花がどれより美しくて素晴らしい、とランク分けするわけではないけれども、 だが確かに薔薇の花を吐き出すような人間にはそれまで一人たりとも出会わなかった。 そう、この目の前の男――速水真澄を除いては、ただの一人も。 劇団つきかげを潰した張本人といってもいい男。 母を軟禁し、死に追いやったも同然の憎い男――冷血漢で、嫌味ったらしくて、意地悪で。 会えばいつでも憎まれ口しか叩かないようなこの男が…… (あ……また。薔薇――今度は薄ピンク……可愛い) 思わず、ふ、と口元が緩んでしまう。 二人は今、水城によりセッティングされた都内のレストランの個室にて差し向かいで座っている。 既に昼食のメニューは出し尽くされ、最後のデザートに取り掛かかろうという所だったが、その間主に喋っているのは真澄の方だった。 マヤはといえば、いつもの突っかかるような口調もなく不気味な程に静かで、肝心の“礼”を口にするのも忘れてしまったかの様である。 途中、ふと彼女はこの面会を憂鬱に感じているのではないかと危惧する真澄であったが、じっと自分の話す口元を見つめているその眼はいかにも真剣で―― 退屈している、という訳でもなさそうなので、その巧みな会話術を駆使して一時間近く、喋りに喋り倒したのだが――最早限界だった。 「――ちょっと、チビちゃん、いい加減にしてくれ」 「え?」 「大体、君は何か俺に言う事があって来たんじゃないのか?  それが気を遣いまくっているのは圧倒的に俺の方だし、君ときたらただ黙ってニコニコ座ってるだけじゃないか――  別に構わんが、少しは社交辞令ってやつを体得してくれ。  俺だけなら兎も角、普通こんな振る舞いをされた大人は腹が立つと思うぞ」 「あっ……ご、御免なさい」 呑気にアイスクリームのスプーンを口に運びかけていた手を宙で止めると、マヤは慌てて肩を竦め、心底申し訳なさそうに真澄の顔を覗き込んだ。 もう、間違いない――と思う。 この人は、口ではいかにも皮肉っぽい口調で振る舞っていても、吐き出す薔薇の色といい形といい、それは決して自分の事を悪く思ってからの言葉ではないのだ。 そうでなければこんなにも美しい――薔薇の花に埋もれている人間を憎む理由なんて…… 惹かれてしまう理由こそあっても、憎めるはずなんてないではないか。 「そうですね、あたし……今まで速水さんに酷い事ばかり言ってきたから。  だから今更何ていったらいいかわからなくて、それで戸惑ってるんです。  でもそれじゃ駄目なんですよね――」 思いもよらず柔らかな口調で語り出したマヤを、真澄は訝しげに見守る。 そんな風に話しかけられたのは勿論、初めての事であった。 一体、どうした風の吹き回しだろうか――と思いつつも、僅かに胸は高鳴ってしまう。 カタン、とスプーンを皿の上に置くと。 マヤは思い切って真正面から真澄を見据えた。 相変わらず研ぎ澄まされたように端正な顔のその下には、色とりどりの薔薇の花びらが隙間なく敷き詰められ、肘先まで埋もれている―― 勿論、本人はまるでそんな事に気づいてはいないのだが。 まるでちょっと昔の少女漫画の一コマみたいだ、と思っただけでまた噴き出しそうになるのを必死にこらえて、大きく深呼吸する。 「あの時――紫の薔薇の人には会えなかったけど、でも速水さんのお蔭で北白川さんとお話することが出来て、あたし本当によかったって思ってます。  感覚の再現……自分の本当の感情を素直に出せれば説得力が生まれるって、あの時教えてもらわなかったらきっとアルディスを演じることはできなかった――」 すっと目を閉じる。 するとより一層、むせ返る程の薔薇の薫りが鼻孔いっぱいに立ち込めてくる。 胸いっぱいの気持ちを、ただ素直に吐き出せばいい。 目を開いたそこに、薔薇の花が既に消えて見えなくたって、きっと。 「ありがとうございます、速水さん。  あなたのお蔭で、アルディスを演じることができて――あたし、とても幸せでした」 その瞬間―― 確かに、辺り一面が満開の薔薇が咲き乱れた、とマヤは思った。 それも、どれもこれも鮮やかな紫の薔薇―― 口といわず身体中のあらゆる箇所から、瞬く間に蕾から開花して咲き誇り、テーブルの上から溢れて零れんばかりの紫の洪水に、二人は溺れた。

「とんでもないお宝映像があるんだが、見たいか?」 「え?」 あの日の会食から丁度7年後の某日。 珍しく早めに帰宅した真澄が意味深な笑みを浮かべて何やら手にかざしているのを認め、何となくイヤな予感はしていたのだ。 「何ですか、お宝映像って」 これまた珍しく人並みの時間帯に帰宅したマヤは、内心真澄が困惑した事に夕食の準備に悪戦苦闘の最中だった。 結婚までの仮住まいであるマンションの台所は既に戦場のような有様である。 溜息をぐっと堪え、帰宅するまでこのネタでどうからかってやろうかとそれだけを考えてきた真澄は気を取り直しながら、 「某国民的人気女優の知られざる一面が収められた映像だ。  何でもフリーランスで活動していた頃に出演したラジオドラマの収録テープとのことだが、スポンサーの不都合で放映されずにお蔵入り。  その後も所属事務所との契約上の問題で日の目を見る事なくスタジオの倉庫に眠っている所を偶然発掘され、回り回って俺の手元に届いた次第だが――見てみるか?」 「もう……何なんですか、その超遠まわしな嫌味は!  ええ、そんなお仕事あったっけ……?」 「忘れているなら丁度いい。ついでにもうその種はまともな肉玉にはならないから諦めろ。手を洗っておいで」 また馬鹿にする――と頬を膨らませかけたマヤだったが、確かにハンバーグのタネにしてはえらくパサパサと締りがない…… 無理矢理火を通せば何とかなるかと思ったが、多分ボールの中の残骸は彼にお任せした方がより経済的に生まれ変わる事ができるだろう、と素直に諦める事にする。 大急ぎで手を洗い、いそいそとリビングに移動してみると、真澄は既にスーツのネクタイを解きつつDVDレコーダーの操作を終えている所だった。 フローリングの上に胡坐をかいて座る大きな体の横にちょこんと腰を降ろし、果たして何が出てくるのかと徐々に青白くなってゆく液晶画面を見つめる。 と、画面が切り替わってスタジオのような場所で耳にヘッドフォンをしたマヤの姿が一面に映って停止した。 「……わ!わわ!!うっわ、これすごい昔のだ!」 「ちなみに追加情報なしで俺は当てたが、いつ頃の君かわかるか」 「そんなオタク情報知りませ〜ん。  うーん、髪がまだここまででしょ、この服かあ……  いつだろう、あ、高校の時かな?あ、でもこれってラジオスタジオ?そんな仕事した覚えないなぁ……  あ、待って、思い出した――そうそう!『ふたりの王女』の後に……」 「俺の忠告を聞く前に1本、勝手にオファーを受けただろ。  見ろ、怪しい仕事なだけに案の定日の目を見る事もなかった――  まあ軽い仕事だったからよかったものの、何ヶ月も拘束される芝居だったらその後の君はどうなっていた事か」 ふん、と鼻で嗤う隣の男に思いっきり眉をしかめて見せる。 「勝手もなにも、まだあの時は大都に所属してないんですから速水さんにどうこう言われる筋合いはないんです!  ええっと、思い出した、コメディタッチのラブロマンス、なんですよ、15分くらいの……で、あたしの役ってのがまた――え」 途中でふと口をつぐんだ途端、マヤの顔は一瞬で真っ赤になった―― かと思うと、リモコンの停止ボタンに手を伸ばす、が、全ての動きは一瞬真澄の方が早かった。 「だ、駄目――!!」 っと再生機本体に腕を伸ばした所を羽交い絞めされ、身動きが取れなくなる。 「まだ見てないんだ、コレが。噂によると、幼馴染に淡い恋心を抱いたまま成長した、SMクラブの女王様、なんだろ?  アルディスを演じた直後の君がどんな女王様を演じているのか、 ファンならずとも非常に気になるところではある」 爆笑一歩手前なのを何とか堪えつつ、暴れるマヤを抑え込んだまま、真澄はその長い脚の機能を存分に発揮し、足の指先で再生ボタンを押す、という小技をやってのけた。 途端に、停止していた7年前のマヤが動き出す。 「じゃあシーン2の1、いきます。マヤちゃん宜しくお願いしまーす」 「はい!」 「3・2・1……キュー」 暫しの静寂。 目を瞑り、ふと顎を上げる。 その眼は――勿論、アルディスのような春の女神の気品に溢れた笑顔でもなければ、初々しい少女の微笑でもなく…… 『だから、その情けないお尻を見せてご覧なさい、って言ってるの!  うっわ、最悪――だけどまあ、花瓶くらいにはなるかな?  丁度ほら、薔薇の花もあるし、差してあげるわね――』 「うーーーーわーーーーーー!!!!!お願いします、何でもします!! やーーーーめーーーてーーーー!!!!!」 「ぶははっははははははははは!!!!!!な、な、何だって!?  まて――聞き取れなかった、もう一度リプレイ……」 「速水さん!!!お願いだから、もう怒るとかじゃなくてあたし死んじゃう!!  馬鹿だったんです、自分でも何言ってるか全然わかんなかった癖にそれっぽく言ってるだけで……いやぁぁあああ!!」 あまりの恥辱に顔中真っ赤にし、涙を流しながら必死でテレビ画面に両腕を差し伸べるマヤ。 真澄は最早笑うどころの状態ではなく、涙を流しながら胃痙攣でも起こしたかのように震えている有様である。 『はぁ……全然キレイじゃない。薔薇が可哀相――こんなのの何が愉しいのかしら、この人も。 ああ、駄目駄目、これも世の為人の為の立派なお仕事かもしれないし。 でも彼が――あたしがここでこんな事してるって知ったら、どんな顔するかなあ』 ふう、と俄か女王様は宙を仰ぎ、浅い溜息を零す。 その口元から――ぽろ、っと零れ落ちた真っ白な塊に、激しい攻防を繰り広げる二人の視線が同時に注目した。 「――何だ、今の」 「え……薔薇、に見えましたけど、白い」 『軽蔑する?それともふうん、って言うだけかしら。  わたしには正直わかんないのよね、いい仕事、とダメな仕事、の違いとか。  馬鹿馬鹿しいとは思うけど、でもこのM男君が喜んでくれてるのは確かよね。  じゃあこの仕事にもきっと意味があるんだわ――でも、ホントの所、使命とかそういうのどうでもいいのよね、 ただ誰かに好きっていってもらえて、ぎゅってしてもらえたらそれだけ で幸せっていう……女王様だけど、心は乙女なんだから。  だからこうして彼の事を考えてしまう――ほらほら、片足上げてちゃんと歩いてよ――ああ、駄目だわ……もう、顔も思い出せなくなっちゃった――』 非常に悪趣味なエロティックコメディである事は確かなのだが。 だが、妙にリアリティのあるマヤの「女王様」は確かに可愛らしく、惹きつけるものがある。 しかしそれよりも何よりも二人を絶句させたのは―― 台詞と共に収録マイクを埋めてしまうかの勢いでその口から吐き出される色とりどりの花びらだった。 薔薇――白、赤、橙、ピンク色とりどりの――チューリップ、タンポポ、雛菊、アイリス、日日草、コスモス、蓮華、ポピー、女郎花、百合、鶏頭、パンジー…… 名前も知らぬ小さな草花から有名どころの派手な花まで、僅か15分の間にマヤの肘あたりまでずっしりと、うず高く降り積もり―― 「何、このお宝画像……何かのドッキリですか?」 「いや――知らん、そんな報告全然受けてないが……」 と、マヤがあ、とこれまたようやく思い出したように小さく声を上げた。 「何で忘れてたんだろう……あたしね、そういえば一次期、そう、丁度この頃。  人の口から言葉と一緒にお花が出てくるのが見えてたんですよ」 「……は?」 「一週間くらい続いたかなあ、自分の言葉は全然見えなかったのに、映像にするとこんな風に残ってたんですねえ」 天然女優が何やら無視できない怖い事を言い始めた、と、愛すべき妻ではあるもののやや不安を抱えつつ真澄は腕の中のマヤを見下ろした。 ようやくその手枷足枷を外すと、マヤはゆっくりと座り直し、真澄に向き直る。 7年前も今も、こうして自分の全てを見守り、皮肉の薄皮で包み込んだ、でも常に真心のみを伝えてくれる、その甘く震えるような声でもって。 「あの時は感謝の気持ちだけだったけど、今はもっと別の言葉も気持ち込めて言えるんですよ。聞いてくれますか?」 「ああ、勿論」 「あなたの事が、大好きよ――速水さん。世界中の誰よりも、ずっと」 ――一瞬の間の後。 ぱたり、と床の上に落ちた薔薇の花びらが気になるといえば気になったが、真澄も迷うことなく、ゆっくりと告げた。 「ありがとう。俺も君に負けず劣らず――君の事を愛してる。たぶん君よりも、ずっと」 二人の口から何色の薔薇が咲き零れたか―― などと説明するのも野暮ったい気がするので、今宵はこの辺で失礼させて頂こう。 END. web拍手 by FC2

『プラダを着た悪魔』のせいで連続更新一日空いちゃいましたね^^;
花瓶の元ネタは某若頭ならば瞬時にお察し頂けたかとw
ちなみに街頭会話のパーセク云々は高校時に挫折した地学における恒星間距離の求め方の公式ですー意味プ〜!!

    

last updated/11/03/20

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