第1話


――スッ、と目を覚ました。 何の夢も見ることなく、まるでたった今生まれたばかりみたいにして。 昨夜の記憶はどこにも残っていない、今この瞬間だけは。 緩やかに絡みつく熱からそっと身を引き剥がして、物音ひとつたてないように慎重に服を拾い集める。 ベッドの下で丸く転がっていた小さな下着を広げて、恐る恐る片脚を突っ込む。 反対に、目の前の椅子の背の上には、皺のつかないように丁寧にかけれた制服のスカート。 右手で取って、静かにベッドの縁にお尻を移動させる。 キシ、っと微かに軋むスプリングにひやっと首を竦めるけれど、振り返る勇気なんてない。 スカートのホックを留めると、屈み込んでブラを拾い上げる。 カーテンの隙間から漏れる朝日で確認しなくたって、どうみても先程のショーツとお揃いの、 自分にしてはちょっとばかり大人っぽいような気もする、凝ったレースの下着。しかも下ろし立て。 (――あんな一瞬で脱いじゃうなら、別に……) と思った所で、慌てて首を振る。 冗談じゃない。 これは――別に、あいつに気に入ってもらおうだとかじゃなくて、単に前に上下バラバラの柄の綿素材の下着を馬鹿にされたから、せめて笑われない程度のものをと思って買っただけで。とはいえ今の自分が買うにしてはお高いことに変わりはなくて、つける前は相当ドギマギしてた――なんて事はもう記憶の中から消し去ってしまいたいくらいなんだから。 ベッドサイドの時計を見れば6時過ぎを指していた。 普段ならとっくに背後のムカつく奴が起きて活動している時間だけれど、珍しい事もあるものだ。 これ幸い――今のうち、早く出てゆくに限ると急いで肩紐を引っ掻け、背中でホックを留めようとした、その時。 「いたっ――や、嘘!?」 ちく、と首の後ろの皮膚に刺す様な感覚がして、仕方なく振り返って自分の背中を確認する。 慌てて作業したお蔭で、ホックに長い髪の毛が絡み付き、後ろから引っ張るような状態になっていた。 一旦ホックを外して髪を引き抜こうとするも、後ろをあまり見たくないがあまり、不器用な癖に前向きのままで四苦八苦してしまう。 結果として、髪の毛は外れるどころかますます絡まってしまう有様だった。 肩甲骨の下で、最早自分のどの指がどう動いているのかわからないような状態に陥ったところで、 「も〜う……っ、うわ!!」 「動くな、下手糞」 これは明らかに別の指、とわかる――長い指先が、邪魔、といわんばかりにマヤの指を払う。 いつから様子を伺っていたのか、真澄が背後から両腕を伸ばしてそこに触れてきたのだ。 「え、いいです、自分でやるから」 「できない癖に騒がしい――ほら、どうぞ」 問題はあっという間に解決したらしく、ぱさりと首筋を掻き分けて髪の毛の束が寄せられたかと思うと、ついでにきゅ、っとホックの留まる感覚もした。 「あ――あ、りがとう」 ぎこちなく、仕方なく、振り返る。 どうせまた、馬鹿にしたような眼で見上げているに違いない――と思いながら、その人を。 だが意外な事に、そのまま――裸のままの半身をベッドの上に投げ出したまま、真澄はじっと目を瞑っていた。 「……速水さん?」 「――何」 「何って、起きなくていいんですか?  いつもだったらこの時間、とっくに着替えてるのに」 「あと30分経ったら――もう一度起こして。  起きなかったら、もう今日は駄目」 「ヤですよ、あたしだってもう出ないと」 「君は7時に出ても早すぎるくらいだろ。  何なら迎えの車を呼ぶから、あともう少し……」 高飛車な事はいつも通りなのだが、どこか気の抜けた様なその声にマヤは首を傾げる。 喋っている途中で眠ってしまうなど、普段のこの男からは想像もつかない事だけど。 そういえば――昨夜の様子も、ほんの少しおかしかったような…… いつもならもうちょっと、しつこいくらいに自分で「遊ぶ」のに、あっという間に―― (うわ――あああ、あ〜もう、思い出しちゃった……最低) かああ、っと熱くなってきた頬をぴしゃ、っと叩いて、ぎゅっと膝の上のシャツを握りしめる。 そのシャツに慌てて袖を通しながら―― ああ、そういえばさっきの指先も、目覚めた瞬間のびっくりするような熱も……もしかして? ――と、ボタンを下から半分まで留めたところで、マヤは静かに手を差し延ばした。 この様子では、本当に起きないかもしれない。その理由はきっと…… (わ――やっぱり、すごい熱……) 柔らかな前髪を掻き分け、触れてみた額は驚く程熱かった。 昨夜からなんだか受け答えもいつも以上に意味不明だったのはこのせいだったのか。 この、頭の中まで機械で出来ているような男でも、風邪なんてひくんだ。 鬼のなんとか……という言葉がすぐに出なくて暫く固まった後、あれ、じゃあこんな風に肩出して寝てたらまずいんじゃ?と思い至り、 一瞬迷った後、肘の辺りでくしゃくしゃになっているシーツを引き上げてやった。 すると、もぞもぞと首を竦めながら背中を丸めたのが布団の起伏でわかった。 布団の縁からほんのちょっとだけ飛び出した淡い色合いの髪の狭間から、いつもならもっと冷徹に見えるはずの顔の目から上だけがのぞいている。 (何か――変なの……けど、ちょっとだけ――) かわいい、かも。 ――今度は、赤くなって頬を叩くこともなく、素直にそう思った。 そうしたら、自然と微笑みまで浮かんでいる自分に少しばかり驚いてしまう。 ゆっくりとボタンを襟元まで留めてゆく。 そのままこの部屋を出てしまっても、多分、この人は気にしない。 次に出会った時も同じように、いつもの軽口を叩いて、嫌味というには苦すぎる一言、二言を心臓に突き刺して、 それから何食わぬ顔で――好きな様に振り回すだけ、思うが儘に。 それにいちいち反抗してはみせるけど、拒めない矛盾は自分が一番よく知っている。 だから今だって―― すぐに出てゆけばいいのに、言われるがまま30分という時間を見守っている。 このひと時だけは、穏やかに見つめられる、なんて。 昨夜は勿論のこと、いつも視線を合わせるだけで全身が痛い程緊張して、 ちょっと触られるだけでもうドキドキと妙な鼓動が止まらなくて、落ち着かないったらないんだから。 だけど―― 今なら、見つめてもいいかもしれない。 何故この人の隣で――大都芸能の速水真澄、自分の宿敵にして最も忌み嫌っている筈の男の部屋で、そのベッドの上で、制服を着たままその人の額に手をやっているのか、あまり深く考えずに――ただ撫でているだけのこの時間に無心に浸っていいのかもしれない。 だからずっと、そうして眺めていた。 30分後に思い切って揺り起こしてみたけれど、やはり起きる気配はないようだった。 サイドボードの上に置かれた携帯電話が何度か震えていると、それを小声で囁いてみても何の反応もない。 40分が経って、流石に諦めた。 「速水さん、ホントに、もう行きます。  風邪ならちゃんと病院行ってくださいね」 やや大きな声をかけると、それまで身動きひとつしなかった塊が少しだけ動いた。 「携帯……」 熱っぽくくぐもった、弱弱しい声と共に布団の下から右手が突き出される。 慌てて、さっきから振動と静寂を繰り返す金属の塊を手渡してやる。 ――と、今にも潰れそうな気怠い声はどこにいったのか、と呆れるくらいいつも通りのあの声で、 突然だが一日病欠で休む事、最低限の仕事の手配とついでにマンションに一台迎えの車を寄越すように――という手配をものの数分で済ませてしまったのには唖然とする他なかった。 「マヤ」 「は、はい」 「夕方までに何とか回復させるから、帰りも此処においで。  明日まで何の撮影もない筈だろう?」 「え、いや、そうですけど。か、看病とかさせるつもりですか?誰があなたなんかの――」 「人の話をちゃんと聞け。自分の下着もまともにつけられない人間に病人介護なんかできる訳ないだろ。  回復してるから、さっさと来い、以上。行ってらっしゃい」 矢継ぎ早にグサリと堪える台詞を投げかけられて、何と返答したものか口を開けるしかない。 と――布団の隙間から、熱っぽくはあるけれど、いつものあの馬鹿にしたような含み笑いの視線で見つめられているのに気がついて、 マヤは勢いよくベッドの上から立ち上がった。 「絶〜対来ません、じゃあ!」 「聖が下で待ってるぞ、軽い朝飯も用意しているはずだから車の中でどうぞ」 「――どうも、お世話様!!」 素早く鞄を拾い上げ、足早に玄関先まで。 艶やかに磨き抜かれた大きな靴の隣に、自分の小さなローファーが並んでいるのを見て、何だか溜息が出てしまった。 やっぱり、この部屋にこうしている事なんて――おかしいに決まってる。 『二度とくるものか。』 何度その台詞を心の中で呟いてこの扉を開いたことだろう。 それなのに――数時間後にはきっと、ドギマギしながらノブに手をかけているに違いないのだ。 web拍手 by FC2

性懲りもなくまた高校生モノ。スキなんです、ええ。昨夜夢に出てきたシチュエーションをつらつら書いてみました。
last updated/11/04/19

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