第2話


――また、目を覚ます。 何度となく見続けた夢の中にはいつもあの子がいる。 昨夜捩じり上げた顎の白さ、見据える視線の熱、朝日に輪郭だけ浮かび上がる薄い背中。 今何時だろう――と、これもまた何度同じように思った事だろう。 ぼんやりと額に手を当てたまま、最初に目覚めた時と変わらない様にベッドの上に差し込む、カーテンの隙間からの光の筋を眺める。 そんなはずはない。 あれはきっと夕方の陽の光。 あの子は来るだろうか……? 来ないかもしれないし、来るかもしれない――どちらの可能性も大いにある。 互いに確かな約束など何も出来ないところが、自分とあの少女との不安定な絆を象徴している。 ほんの一夜の、気紛れみたいな繋がりだけを持ちたがる男なんて、 例えほとんど身寄りのない少女であろうとも――いや、だからこそ、全く信用ならないに決まっているのだから。 ルルルルr…… 耳元でまた携帯が鳴っている。 如何に水城が有能な秘書で、上司の突然の病欠をこれ以上ない程に上手くサポートしてくれるにせよ、物には限界というものがある。 無視を決め込むのはもう3度目だ、これ以上の勝手は無理だろう。 溜息を堪えながらぱちん、と開いてみると、案の定水城だった。 「申し訳ありません、本当に。これで最後ですので」 「いや、こちらこそすまない」 水城は明日のスケジュールに関して幾つか確認した後、一瞬の間を置いて、 「お風邪の具合は如何ですか?声の調子ですと朝よりは大分回復されたような気もしますけど」 「お蔭様で。薬を飲んで寝てたら熱は下がった。  多少だるいが、まあ久々に眠り倒したからな――身体が驚いてるのかも」 「今日無理してご出社されなくてよかったかもしれませんね。  皆何事かと驚いてましたけど――病欠なんて、社長代理以来初めてなんじゃございません?」 「そうだったかな」 「ええ。まあ、多少は人間らしくなったという事で勘弁してあげますけど」 「何か言いたそうだな」 「別に。でも――そうですね、最近ちょっと大胆すぎるかもしれません、とだけ」 「……マヤとの事が?」 「傍から見ただけではわかりませんけど。  でもそちらのマンションに呼びつけたりするのはもうお止めになった方が宜しいかと思いますわ。  どれだけ有能な運転手を付けているか知りませんけれど、鵜の目鷹の目で貴方の隙を狙っている輩には事欠きませんもの。十分ご存知だと思いますけど」 彼女にしか成し得ない、節制の効いた皮肉と心配の台詞を前にすると、真澄はいつも苦笑するしかない。 「義父辺りが一番危ないな」 「笑い事じゃないですわ――本当に、それが一番あの子にとっては……  この話はもうやめましょう、兎に角以上です。では、お大事に」 ああ、ありがとう、という言葉のきっかり2秒後にこちらから通話を切る。 ぱたん、とシーツの上に疲れた腕を投げ出して、ふう、っと浅く息を吐いた。 水城がわざわざああしてプライベートにまで口を出してくる、というのは思ったよりも自分の認識が甘い、という事を示しているに違いない。 確かに、因縁だらけの所属女優、それも未成年の少女に手を出した―― なんて事が外部に漏れでもしたら一大事は免れないだろう。 だが――最悪、そうした事態になったとしても、だ。 多分、自分自身は然程のダメージも受けずこれまで通りやっていける自信がある、と真澄は思う。 というか、世の中なんて大体そんな風に不公平に出来ているものだ。 だが、あの子は違う。 この手で慈しみ、彼女自身の力で這い上がって築き上げた全てのキャリアを、一瞬で失った後のあの子の姿が嫌に容易に想像できてしまう。 自分自身にすら理解し得ない感情に翻弄されて、前にも後ろにも進めないでいるのを強引に引きずっているのは他ならぬ俺だというのに。 ……本当に可愛そうな子だ、と思う。 だけど―― 次、いつ触れられるかなんてわからないから、その感覚を覚えていたくて。 あの身体を形作る全てのラインを刻み込むように触れていても、離れてしまえば夢よりも覚束ない、影のような断片しかこの手には残らない。 両手を広げて腹の上に置いてみる。 大体、このくらいの感覚であの細い腰がある――凹んだ腹はまだどこか子供じみた感じで、太腿なんて特に―― 16歳なら法的にはギリギリ、結婚さえ可能な年齢の筈なのに、 今時の子にしてはあまりにも幼いその感触は、抑え込んだ罪悪感をチクチクと容赦なく突き刺してくる。 だがそんな幼さに、成熟しきった大人の男である筈の自分が情欲を覚えてしまうのは事実であり…… ほら、触れて毛羽立ったあの瑞々しい肌の弾力を、むずかるように首を振るあの仕草を思い起こしただけで、ぞわぞわと再び熱に冒されそうなこの危うい感覚。 ぱん、と開いた掌を打ち鳴らして妄想を蹴散らす。 あの子は来ないかもしれない、いや、きっと来ない――それに賭けてみる。 夜なんてあっという間、そして明日も瞬く間にやって来てくる。 繰り返される日常の歯車にいつも通りぴたりと収まればいいのだ。 隙間に潜り込むあの子の影は――今は、置いておく、それがいい。 思い切ってベッドから半身を起こすと、ずっと横になったままだったのでふらりと眩暈がした。 そもそも、猛烈に腹が空いている事にようやく気が付く。 シャワーを浴びて人心地着いたら、何か食料を調達しに外に出よう。 外食するよりは何か作っていた方が気が紛れる―― そんな風に考えて、真澄は寝室を抜け出すとシャワールームへと移動した。 玄関のオートロックが静かに開いたのは、その15分後だった。 カタン、と確かに電子ロックの外れる音を聞いた。 まさか――と思う傍から、ほらね、とほくそ笑む自分もいる。 真澄は濡れた髪を掻き回していたバスタオルを首にかけたまま、身動きひとつせず様子を伺った。 足音はないが、確かにドアの向こう、リビングの辺りに人の気配を感じる。 (――来た、か。偉いぞちびちゃん。) 先程までの悶々を勝手に棚上げする自分に噴き出しそうになりながら、手早く着替えを済ませる。 どうせ腹を空かせて膨れっ面に違いないのだから――そんなあの子を連れて外に買い物に出るのも面白そうだ。 近場のデパ地下辺りなら、食いしん坊なあの子の事、試食に歩き回っている内に不機嫌も直るだろう。 では何を作るとするか――あの子に聞いてもせいぜい「カレー」としか言わなさそうだが、 ならばカレーとして具材は何にするかだ……などと勝手な段取りを済ませつつ、リビングへと繋がるドアを勢いよく開けた。 「あ……」 「――おかえり」 「……」 「おかえり、ってどういう意味でしょうか、速水社長」 「失礼――いらっしゃいませ、北島君……に、青木君」 白く青ざめた頬に涙の筋を貼りつかせて突っ立っているのは、朝と同じ制服姿のマヤ。 その隣には、相変わらず一見すると非の打ちどころのない美形の青年、にしか見えない彼女の親友にして同居人、青木麗が憮然として佇んでいた。 棚上げにした問題というやつは、ある日突然何の前触れもなく頭の上に転がり落ちてくるものだと、抜け目のない真澄にしては本当に久々に、身をもって思い知った瞬間だった。 web拍手 by FC2

ぷぷ。そうそう上手くいくと思ったら大間違いですよ、社長〜(*´∀`*)
last updated/11/04/20

inserted by FC2 system