第3話


目にも色鮮やかな野菜と鳥手羽の梅煮、白菜と豆腐のかきたま汁、きゅうりの梅和え。 近所のスーパーの惣菜コーナーから買ってきたらしいきのこの炊き込みご飯がレンジで加熱され、美味しそうな湯気を立ち昇らせている。 更に、折角買ってきたんだから全部消費しろ、と言わんばかりにテーブルの中央には梅干しが山盛りだった。 シーンと静まり返ったダイニングルームで、奇妙な三人組は互いに恐ろしく居心地の悪い顔で黙々と箸を進めている。 この部屋にやってきて青木麗が発した言葉はただ二言。 最初に真澄を見た時の台詞と、続いて「台所貸して」の一言だけだった。 マヤはといえば、泣くのを堪えるのに必死なのだろう、自分の爪先以外何も見えないと言った風情で小さくなっている。 何が起こってこうなったのか、問わずとも明らかだった。 笑い出したいような、深々と溜息をつきたいような思いをぐっと堪えて、冷淡すぎない程度に気をつけながら、いつも通りに真澄は振る舞った。 キッチンで、麗が怒りのオーラと共にガシガシと手早く夕食の支度をする音を耳にしながら、二人はテーブル越しに向かい合って座る。 「……風邪は?」 テーブルの一点を飽きることなく見つめていたマヤが、僅かに視線を上げて呟いた。 「回復済み」 「――ごめんなさい」 「何で謝る?」 「……やっぱり、来なければよかったんです。  どうせ何もできないし――でも、気になったから、つい」 「いや、ありがとう」 ありがとう、の瞬間、ぽかんとしたようにマヤは顔を上げた。 絶対に怒り心頭に違いない、と思って目も合わせられなかった人が、 目の前でやや困ったような、それでも穏やかな微笑を浮かべているのはさも意外だ、とばかりに。 「――麗、怒ってます」 「そりゃそうだろうな」 「スーパーで偶然会って。リンゴとおろし金持ってたからなんで、って言われて」 「おろし金?なんで」 「風邪の時はすりリンゴじゃないんですか?」 何を当たり前の事を、と首を傾げるその顔に向かって、存分に馬鹿笑いを吹きかけてやりたいところだったが、 壁一枚向こうには一触即発の保護者代理がいるかと思うと無暗な事は出来ない。 込み上げてくるものを抑える為に、とりあえず煙草に火を点けてみる。 「……風邪なのに煙草吸うんですか」 「治ったから平気」 「肺が真っ黒になりますよ――もう真っ黒だと思うけど」 「そうかもな。開いてみてみるか?」 「気持ち悪い。私まで真っ黒になるから煙近づけないで下さいよ」 ようやくいつものテンポになってきた――と真澄の頬が緩みかけた時、台所からマヤを呼ぶ鋭い声が聞こえた。 流石は青木麗、マヤの保護者代わりを自負するだけの事はあり、ものの20分足らずでテーブルの上には上記の献立が並べられた次第である。 「……」 「……ごちそうさん、マヤ、早く食べて。すぐ帰るからね」 「――時間があるなら、少し……」 「忙しいんです、あたしもこの後バイトだし、マヤも二日連続無断外泊とか有り得ないんで」 ぱしん、と言い放つと、麗は空になった自分の食器をさっさと重ねて再び台所へ消えた。 「……殴られるかもな」 その姿が消えた瞬間、真澄はボソリと呟く。 その様子がいつもの彼らしくもないのは明らかなので、状況が状況にも関わらず、マヤはふと笑みを浮かべた。 やや顔を傾け、小声で囁く。 「それで済んだらいいですけど。前の麗の彼氏は足の小指の骨折っちゃいました。  アパートの窓から植木鉢落とされて」 「凄いな。何したんだ」 「他の女の人と日帰り旅行に行っちゃったとかで」 「それは男運が悪い。安心しろ、俺は一応ちびちゃん以外他の女にはほぼ興味がない――というか、持てなくなった」 「モテなくなった?」 「はいはい――早く食べろよ、また怒られるぞ」 山積みの梅干しは流石に遠慮して、同じく空になった皿を重ねて真澄は台所へと回る。 背中から殺気を醸し出しつつ、麗は無言でシンク周りの片付けを進めていた。 「美味かった、ありがとう。そのまま置いてくれたらいい」 「アンタに1ミリたりとも借しは作りたくないんで。  皿、さっさとそこ置いて。マヤの荷物あるんなら持ってくから出しといて」 「青木君、俺は――」 ゴン、と鈍い音に、壁の向こうのマヤはぎょっと肩を竦めた。 慌ててご飯茶碗に残った炊き込みご飯をかきこみつつ、そっと耳をそばだてる。 ボソボソと低い声と、棘含みのドスの効いた声が聞こえてくるが、詳しい会話は聞き取れない。 親友の猛烈な怒りの意味も、未だ釈然としないが真澄の自分に対する想いの種類も、 また自分の真澄に対する理解不能の感情も―― わかりすぎる程わかっているだけに、何もできない幼い自分が歯がゆくて仕方がない。 だけど――二人を前にして一体自分如きが何を言えるというのだろう? 芝居の役を掴もうと足掻く時程に、自分自身の心に深く問いかけた事があっただろうか? 全ての役は自分という人間の断片から生まれた分身みたいなものの筈なのに、 肝心の「自分」が一番何を求めているのかがわからない。 わからなくて、混乱したら――ほら、こうやって、泣くことしかできない。 みっともない。 バカみたいだ。 つう、っと飽きることなく頬を伝ってゆく涙をシャツの袖で拭って、はあ、っと溜息をつく。 ふと、テーブルからリビングへ一直線に続く先、壁一面の大きな窓に視線を遣る。 半分までブラインドの降りた窓の向こうに、混じりっけなしのスミレ色の空が広がっている。 夕陽は消えてしまっても、その名残で世界はあんなにも美しく見えるのに。 昨日まで、いや、つい一時間前まで自分が見ていた光景、考えていた事が驚くほど曖昧な事にマヤは驚いてしまう。 一瞬一瞬を、あたしはきちんと受け止めて生きてきただろうか。 昨夜の嵐のような数時間――真澄との時間も、彼の想いも、今朝感じた体温も。 久しぶりの学校で友達と交わした会話、憂鬱な筈なのにどこか浮き立つようなあの帰り道、もう二度とやってこないかもしれないかけがえのない瞬間を、 あたしは真剣に自分の中に落とし込んできただろうか……? 全ての経験に意味がある、といつかどこかで月影先生に言われた事がある。 その言葉の本当の意味が、ほんの少しだけわかるような気がする。 気がする、だけで本当はわかっていないのだろうけど。 もし一つ一つの経験をもっと大事にできていたら、親友の悲しみにも、あの訳のわからない、でも――寂しげなあの人の気持ちにも、 もっと正面からぶつかっていけたかもしれない、とマヤは思う。 幼いから仕方ない、で済む歳ではない筈なんだ、いくら何でも。 ようやく空になった皿を前に、マヤは唇を噛む。 心に必死に問いかけても言葉にならないのは、きっと全ての問題の根底にある、 あの男の気持ちに自分がきちんと応えていない事に問題がある、と必死で考えた。 だったら――今更だけれど、話し合うべきじゃないだろうか。 でも何を――? さっきみたいに向かい合って、軽口を叩き合って……一体何を? 「マヤ」 ふいに呼びかけられて、ビクリと顔を上げる。 厳しい表情を崩さないまま、麗が来た時よりも薄くなったマイバッグを肩に下げて腕を組んでいる。 その後ろから出てきた真澄の表情は、淡々といつもと変わらないように見える。 その全体から醸し出される空気が、大都芸能や撮影場で時折見かける時のあの冷徹なものとは全く異なる――のが、 麗という第三者を挟んでよりはっきり見えるようで、そんな些細な変化にさえ、改めて驚いてしまう。 いつもこの人と二人きりで対峙する時にはわからない変化。 彼は大人で私は子ども。 彼のは気紛れで私のも気紛れ。 行為に意味はなくて、だから何も考える必要なんてない。 そんな風に受け流してきた時とはまるで違う人間みたいに見えてしまう、彼も、麗も、あたしも。 「帰るよ」 「……帰る?」 「あんたらはちょっと――やり方を間違えてる、と思う。  今の状態でこの訳のわからない関係、あたしは認められない。  だから連れて帰る――って、納得したよね、速水さん、アンタも」 マヤが見上げた真澄の視線からは――何も伝わらない。 が、軽く頷くと、そのままシャワールームへと姿を消し、すぐに現れた。 右手の指先に昨日の今頃の時間、マヤが死ぬほど迷った挙句にコンビニで買ったばかりの、ピンクの歯ブラシが見える。それを麗に手渡しながら、 「ちびちゃんの荷物、はこれだけ。  何の言い訳にもならないが、この部屋に彼女が来たのは昨夜が最初で最後だ。他には何もない筈だな、マヤ」 「ほんとに何の言い訳にもなんねーよ。マジで腹立つ。  暫くそのスカした顔は見たくないね――誰が何と言おうと、この子が泣こうが喚こうが、だ。行くよ、マヤ」 「麗――」 「いい加減にしな!はっきり言って、アンタの言い分も聞くつもりはないから。 今はあたしの言う事に従ってもらう、それができないなら姉貴分とかもういいから」 「麗、そんなの……そんな言い方しないで!」 「マヤ、泣くのはもうストップ。彼女の言い分が正しい。  話は後でちゃんとする――今日はとりあえず帰りなさい」 ぴしりと言い放った真澄の表情は、先程向かい合っていた時のような、どこか寂しげな穏やかさは影をひそめ、いつもの「あの」速水真澄そのもののように思われた。 一瞬、苛立ちと共に怒りのような熱い塊がマヤの胸にこみ上げる。 誰に対する何の怒りなのか――恐らく、自分自身に対するものが一番大きいはずの感情。 大股で玄関口へと向かう麗の背中と、何も言わない真澄の顔を交互に見遣りながら、 必死で涙を堪えて――麗の後を追う。 ――お願い、そのままそこにいて。その姿が見えないまま、そしたら何もかも忘れて帰るから。 フローリングの上を滑りながら、そんな風に祈りながら、マヤは進んだ。 麗が乱暴にスニーカーを履き、重い扉を開けて先に出てゆく。 その一瞬後に、ローファーの爪先を床に叩きつけながら、 閉まりかけの隙間を潜り抜けようとした――時、ものすごい力で左腕を引っ張り上げられた。 バタン、と扉が閉まる。 自動的にロックの降りる静かな、確実な音。 向こう側でどれだけ喚こうが叩こうが、ほとんど振動さえ感じられない。 その扉に背中を押し付けられたまま、マヤは見据える。 先程まで凪いでいた感情が激変した、と明らかにわかる、その人を。 この瞬間を――今度こそ、全身全霊で受け止めようと、震える心に誓いながら。 web拍手 by FC2

理解不能キャラの筆頭、北島マヤ。なかなか憑依できません…単純にして難しいコです><;
last updated/11/04/21

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