第5話


あまり馴染みのない街並み。 馴染んではいけない、と心のどこかで自分に言い聞かせていた部分もあったと思う。 昼と夜でまるで違う顔をする閑静な高級住宅街、曲がりくねった坂道をマヤはとぼとぼと歩いている。 細いアスファルトの脇は彼女の背丈よりもずっと高い塀が延々と続いていて、 鬱蒼と生い茂る木々の影に埋もれるように、所々に白い明かりが灯っていた。 麗と途中まで戻るときには止んでいたはずの雨が、初めは霧のように、だが確実に水滴となって彼女に借りたコートに黒い染みを広げてゆく。 ――ブレザーを忘れたんで、取りにきたんです。 って言って、それからどうしようか。 自分の両肩を抱くようにして、足早に歩きながらマヤは思い起こす。 つい数十分前、閉じた扉の上に重なりながら見上げた、あの瞳の色を。 十分にオトナで、何でもお見通しな筈のあの男の心が。 あの瞬間、全ての膜が引き剥がされて、無防備で不安げな素顔が露わになった。 何も言えないのは彼もそうなんだ、と直感でわかってしまった。 だから――そんなコト、今まで一度だってした事はないのに。 まるで当たり前みたいに、ずっと前から覚えていた様に何の躊躇いもなく、両手が動いた。 「わっ」 ――トン、と反射的に受け止められたけど、それでも結構な勢いがあったから。 ぶつけた先はどうやら彼の肘の先だったらしく、当たってしまった眉間を抑えながら顔を上げた。 「何でいつも足元ばっかり見て歩くんだ、君は」 「そ、そんな壁ギリギリに歩いてくる速水さんが悪いんですっ  ただでさえ歩く壁みたいなんだから、もうちょっと周りのこと見て下さいよ!」 「それは失礼。だが君だって足元の蟻を避けて歩く程注意深くはないだろう。  夜道を壁ギリギリで歩いていたくらいで文句言われる筋合いはないね」 じわ、っと涙が浮かびそうになるのを慌てて引込める。 見上げた顔はその上の街灯の光を背負ってあまり表情は読めない。 だけど――口先程には、そっと眉間に触れてくる右手の指先は厳しくなかったし、 ほんの僅か躊躇いながらも、背中に回った左手はふわりと限りなく優しかった。 ぞく、っと背筋が震えたのは、寒さのせいなのか、胸の底からみるみる溢れてくる衝動のせいなのかはわからないけれど。 「――青木君は優しいな」 すう、っと吸い込む空気の中に、風呂上りの甘い薫りが立ち込める。 部屋着の上に何も羽織ったりせずに、そんな彼の姿などあの閉じた部屋の中以外でお目にかかった事なんて当然ないから、 自然とマヤの唇には何とも言えない微笑が浮かんでしまう。 「当然でしょ。速水さんとは全然違うの。 麗が男の子だったら、あたし絶対好きになってる」 「それは困る。ただでさえ彼女には――」 それ以上は……流石に、もう言えない。 最後にもう一度、ぐえ、とマヤが妙な声を立てるまできつく抱き締めた後。 ようやく腕の力を緩めながら、真澄はゆっくりと胸の辺りに落ち着いた少女の顔を見つめた。 雨が段々と勢いを増し始め、彼女が借りてきたコートの肩辺りもじわじわと黒く濡れてゆくのがわかる。 右手に下げた袋の中の忘れ物を届けたら―― 明日に回せば絶対に後に引くから、何としても追い付いて渡すべきだと思っていたそれを渡したら、 そのまま戻るはずだったのだ、あの既に存在意義を無くしたような、素っ気ない部屋に。 「……速水さん、風邪ひいてたんですよね」 「あ?ああ」 口を開きかけたら、マヤの方からぎょっとしたように叫び始めた。 身を引き剥がすようにして見上げてくる。 しっとり濡れ始めた黒髪、へばりついた前髪のその下から。 これは……マズい、と内心真澄は慌て始める。 この状態では、この薄着の侭では彼女に筒抜けに違いないのだ―― 躊躇いがちに押し当てられた両手の先、ほんの僅かな布地を挟んで伝わる、 馬鹿馬鹿しい程の自分の心臓の鼓動が。 ただ抱きしめているだけで勝手に上昇してゆく、自分の体温の変化まで、確実にバレる。 「ああ、じゃないでしょ!うわ、こんなに濡れてる――  もう戻って下さい、またぶり返しちゃう」 「当然戻るつもりだが、君はそもそも何で戻って来たんだ?」 「え……あ、あっ、それ――です、ごめんなさい。ブレザー、忘れちゃいました。  持ってきてくれてあり――」 ばっ、と奪い取ろうとするのをするりと右腕を上げてかわす。 マヤは一瞬きょとんとして、それから困惑のままにもう一度腕を伸ばした。 真澄は珍しく含み笑いを浮かべることなく、そのまま左手に袋を移して尚もマヤの指先を避ける。 雨足はそろそろ無視できない強さになってきた―― 彼の髪を濡らした滴が一滴、鼻先から薄い上唇の上に落ちるのをマヤは見つめた。 「一人で戻ってきたのに意味はあるんだろ?  そうでなきゃ青木君が君を離す訳がない」 「そ、そうですけど――でも……あ、だからその……」 「早くしてくれ。君も寒そうだが俺はもっとヤバい。  このまま君がいつもの如く『大っ嫌い』だの何だの喚き出したらもう収集がつかん」 先程抱きしめた時とは逆に。 口調は軽々としていながら、マヤを見降ろす真澄の瞳の色は切実そのものだった。 そんな振る舞いこそがいつもの取り繕った自分の特徴の一つだとわかっていながら、 それでもそんな風にしかできない自分はとんでもなく不器用な子供だ、とわかっている。 結局のところ、この目の前の、濡れた制服を身に纏った少女の力に。 迸る生命力の塊みたいなこの子に、その瞳に、 真っ直ぐ突き刺される事でしか真実をこじ開ける事が出来ないのだ。 「……狡い。あたし――あたしは、もうさっきので精一杯。  速水さん、大人の癖に狡い。なんで、あたしにばっかり――」 ――そうじゃない、狡いのはあたし。 子供だから、何もわかりたくないからと心の目を閉ざし続けてきたのは誰? ドクドクと高鳴る心臓とは裏腹に、手先から足の指先まで、 感覚が遠くなる程冷たく固くなっているのに、頭の芯だけが焼けるように熱い。 喉の奥がくっついて、呼吸だけがやっとなのを飲みこんで。 はあ、っと大きく息を吸い上げながら、マヤは全身から絞り出すようにその言葉を吐き出した。 途端に、緊張した身体からどっと力が抜けてゆくのを実感した。 自信がなかった、本当にそれでいいのか。 間違っているかもしれない――そもそも、何もかもが間違いなのかもしれない。 今だって夢か何かじゃないだろうか、という思いはどこかに引っかかっているのだ。 「――ああ、俺も。俺もだよ、マヤ」 まるで溜息みたいにそう呟いたら、唇からぱたぱたと雨粒が零れてマヤの瞼に落ちた。 ほとんど瞬きせずに見上げていたので、うち一滴がもろに目の中に入ってしまう。 最早完全に、二人とも全身隙間なく濡れ鼠の様相だ。 考えてみれば、二人きりの時にはいつも大袈裟なくらいに雨が降る。 そうでもなければ素直になれないんだろう、と空に見透かされているみたいに。 web拍手 by FC2

寸止めじゃないよ〜長い長い前戯なんだよ〜っと言い訳じみてみる。
散々悩んで買ったコーヒーが豆だった。ミル持ってないのに。超切ない。
last updated/11/04/25

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