第6話


水滴が入って、瞼を擦りかけた細い手首を真澄はそっと捕まえる。 そのまま返した掌で握りしめると、マヤも緩やかに握り返してきた。 「うちにはちゃんと帰す――でないと足の小指じゃ済まないのは確実だから。  だけどその前に、この酷い状態はどうにかしたい、と思わないか?君も」 「どうにかって?」 「――そういう所が時々イラッとするよ、本当に」 しかめっ面を作って見せながら、それでも浮かんでしまうにやけた笑いを打ち消せない。 そしてそれはマヤも同じだった。 坂道はあともう少しで終わる。 後はもう、駆け出したい想いを堪えながら、再び意味を持ち始めたあの空間へと戻るだけ。 びしゃびしゃと水を弾きながら、二つの足音が夜をかき分けてゆく。 立ち止まるのも惜しかったので、真澄は時折引きずるようにしてマヤの顎を持ち上げ、唇を重ねた。 マヤは僅かに戸惑いながらも、強く拒むことはない。 マンションの少し前から、エントランスを抜けていつもの階に到着するまでの記憶が途切れがちなのは別に風邪のせいでも何でもないのだろう。 バタン、と馴染んだあの重々しい音。 かしゃん、と降りたロックの音と共に、どちらからともなく濡れた身体を交差させる。 「さっきみたいに――して」 冷たい唇で耳元に囁かれて、マヤはゾクリと首を横に振った。 真澄の髪の毛から垂れた滴がコートの首元からシャツの中に滑り落ちてくる。 ドアと彼の身体に挟まれたまま、真っ直ぐに見つめられている。 いつもなら挑発的ともいえる上から目線の微笑みが、今宵に限っては――ない。 まるで懇願するような。 先程の「告白」をマヤから絞り出させた時と同じ、 どうしても欲しいものが欲しくて、精一杯媚びる子供みたいな眼。 (――やっぱり、狡い、よ) きゅ、っと軋んだ心臓、その音にめげないように、マヤはもう一度息を吸い込む。 完全に二人だけの空間に囲われた今、急に身体が緊張を思い出し始めた様だった。 冷たい指先を何とか広げて、ぐしょぐしょのローファーの爪先を伸ばして。 きっと冷たい――と思いながら触れた頬が思いのほか熱いのがわかって、 それがぶり返してしまった風邪のせいなのか、それとも……と、甘い期待に胸がまた軋む。 たった一言、形にしただけなのに。 その一言が二人に及ぼした影響は、まさに劇的だった。 「……さっき、みたいに?」 「そう」 濡れて緩やかに縮れた、柔らかな真澄の髪の中に五指を突っ込む。 髪の冷たさとは裏腹に、地肌はゾッとする程温かい。 そのまま引き寄せて顔を傾けた。 出てゆく寸前、何故あんな事がいきなり出来てしまったのかマヤにはわからない。 だけど今、全く同じように、でもさっきより遥かに「上手に」出来てしまう理由ならわかる。 「ん……」 ひたり、と温かな肉が重なって。 一瞬おいて、ふんわりと名残惜しそうに離れてゆく。 伏せた瞼を恐る恐る開けてみると、相手の目の中に映る自分が互いに全く同じ貌をしている事に気づく。 互いに髪の中に指を突っ込み、掻き回しながら唇の角度を変えていった。 いつものマヤなら初めは本当に嫌々ながら、 突き返す両手の勢いを封じ込めながら、何とかこなしてゆくはずのその行為。 それが――ごく自然に、なんの躊躇いもない。 ゆるゆると出し入れする、中はほんとうに、うっとりする程あたたかくて。 ぶつかったり離れたりする鼻先の冷たさとか、 水気を含んだ相手の服の違和感だとかが、二人をキスの陶酔の底へ底へと沈めてゆく。 「ぁ……すき」 何度目かの唇の交差の後に、吐息のようにマヤの唇から漏れてしまう。 途端に、かちん、と二人の動きが立ち止まる。 「……好き?」 「――え。う、うん」 そのままじっと真面目に見つめられて、ほんの数分マヤの意識から離れていた緊張が再び蘇る。 もう、なんでこういう時に―― ようやく、あたしがあたしの殻を破れそうになった時に。 唐突にこの人は「元に」戻っちゃうの? と、真っ赤に染まった頬を膨らませた様子からその心を間違いなく読み取ったのか。 彼女の方こそ「元に」戻っては困る、とばかりに真澄はマヤの頭を素早く引き寄せ、 その小さな額に軽く口付けた。 「……今日は朝からずっと夢を見てるみたいだ」 「夢、ですか」 「じゃないと信じていいんだろ?」 「……」 「俺も君が好きだ。けど、君には絶対嫌われてると思ってた。  青木君にバレたのはいいタイミングかもしれない、と思った」 「タイミング」 「そう。君とこの距離で話したり――」 ふ、と淡い笑みが浮かぶ。 やっぱり、こんなこの人の笑顔は見たことがない、とマヤは思う。 「こんな風にするのは、もう最後だと」 「あ……」 黙っていれば綺麗だ、とこっそり思っていたその唇が、 いとも容易く自分の瞼の上に、頬に、下唇の上に降りてくる。 いつも強引で我侭なだけだと思っていた骨ばった指先が、 壊れ物か幼子でも抱くみたいにして、慎重に髪や肩の先を弄ぶ。 湿って重い――スカートの上を抑えるようにして降りてゆく掌が、 今にも笑い出しそうな膝の上をやんわりと包み込んで、 ほんのりと窪んだ骨の周りをさらさらと撫でられたけで…… 痺れるように甘い痛みが身体の隅々まで、ぴりぴりと走り抜けてゆく。 (ダメ――あ、もう……) マヤはもたれかかっていたドアの表面にぐっと指先を立てて、何とか息を堪えようとした。 ――が、次の瞬間、またしても。 「――あと、これは絶対に無傷で返さないとまずい」 ぐ、っと肩に圧し掛かっていた重みが解放されて、一瞬膝がかくん、となる。 真澄はその身体からぐっしょりと重くなったミリタリーコートを引き剥がし、 「とりあえず、上がって。それも乾かすから」 「え?」 「制服。君まで風邪引くぞ」 マヤが絶句するその前に、既に自分の濡れたスウェットを脱ぎ始めている。 バスルームへと続く廊下を歩きながら、あっという間に広い背中が露わになり――そのままドアを開けて右手に消えた。 ……いや、すぐにそこから顔を出してきた。 「何してる?泊まっていく気か?それこそ青木君が――」 「泊まりませんってば!」 ぎゅ、と下唇を噛みながら、思い切ってローファーの踵に指を突っ込んだ。 これから何が起こり得るか、なんて、はっきり考えたくはないけどもうとっくに知っている。 見ないようにしてきた想いを形にした途端、わかってしまったのだ。 重たい紺色の襞を跨いで頭を上げると、ごく自然に受け取られた。 きちんと皺が寄らないように丁寧にハンガーに掛けると、麗のコートの隣にぶら下げる。 真澄はふと視線を落とし、昨夜は禄に見えてもいなかったものに面白そうな笑みを浮かべる。 開きかけのシャツの隙間から覗いた細やかな谷間の下に、 今朝方彼女が髪の毛を絡めて悪戦苦闘していたものが鮮やかな真紅を覗かせていた。 「らしくないな、それ」 「やっぱり似合いませんか?」 「いや――昨日はそれどころじゃなかったから。見せてみろ」 「ヤです。……何か、今の言い方やらしいし」 マヤはシャツの襟元を引き寄せながら、何となく後ずさる。 上半身は既に裸の真澄は素知らぬ顔で、 「じゃあ見ない」 「う――もう、何でそう。やっぱり速水さんなんか……」 きらい、と軽く言いかけた口元を、大きな掌で勢いよく塞がれる。 見てる暇なんかやっぱりないから、さっさと脱いでくれ――と。 薄い耳朶の中に囁き込んだ時には、既にシャツごと肩紐を引き落とされていた。 web拍手 by FC2

雨のせいか、まったりぬるぬるえろすになりそうな予感。
おまけに珍しく?マヤに比べ速水氏の心情描写が甘くなってきました。なんでだろ!(汗
last updated/11/04/26

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