『夏日』



今年の夏は暑い、と毎年のように口にするけれど。
それでも今年は本当に異常なんだと思う。
残暑厳しい──なんて常套句も、もう3週間も猛暑日が続いているとなると全く意味がない。
気象庁かどこかが宣言していないだけで、とっくに日本全国亜熱帯気候になってるんじゃないかと。

私はイライラと額を滑り落ちる汗を拭った。
久しぶりの休みなのに、どうしてこの狂ったように暑い中、一人で公園のど真ん中にいなきゃいけないってわけ。
冷たい飲み物を買ってすぐに戻ってくるはずのあの男は、どこに行ったんだか、もう15分近くも戻ってこない。
いい加減、別れの言葉を投げつけてやる時期なのかもしれない。
結婚適齢期って奴の後半に差し掛かろうってのに、さっぱり進展の兆しのない関係なんだし。
業界最大手の会社で、それなりの仕事を任されて、充実して過ごしてる。
これが最後のチャンスだってみんな言うけれど、だからってこのままズルズル付き合うのがプラスになるとは到底思えない。

「ああ、もういい。知るか、あんな奴」

悪態をついて、私はベンチから立ち上がった。
日傘をさしたまま座っていたにも関わらず、バランスをとるために置いた手のひらの下は火傷しそうな程に熱い。
顔を上げてみると、日曜の昼前だというのに、ビルの狭間にぽっかり空いた都会のオアシスたるこの公園にはほとんど人の気配がなかった。
それはそうだろう、ここまで暑くては誰だって冷房の効いた部屋の中で過ごしたいに決まっている。
燃えるような緑の芝生から立ち昇る熱気まで見えてきそうで、眩暈がした。
帰ろう──でもこのままじゃ癪だし、そういえばここから会社は近いのだ。
休日出勤して、涼んで帰ってやる。
最低の日曜日、万歳だわ。

・・・・・・と、公園の出入り口近くまで歩きかけた私の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
初めは、ちょっと不思議な光景でもあったのだ。
暑さと苛立ちをふと忘れてしまうような、目を引く姿。
だけど、2・3歩近づいてその人物が何者であるかを悟った時、私は文字通り呆気にとられてその場に立ち竦んでしまった。

出入り口の横には、大きな樫の木の木陰があって、その下にも幾つかベンチが並んでいた。
その一番奥のベンチに、長身の男が横になっている。
収まりきらない足を軽く組んで、何か読み物を胸の上に置いたまま、目を瞑っている。
その恐ろしい程整った顔に見覚えがないはずがなかった。
一瞬わからなかったのは、そんなところにそうやっているような人ではない、という思い込みと、普段のその人らしからぬ服装のせいだ。

「は・・・・・・速水社長?」

私の頓狂な声に、その人は僅かに眉を歪めて瞼を開いた。
まずい、どうやら熟睡していたらしい。
長い睫毛が瞬き、そのまま視線だけがこちらに向く。
そう、それは紛れもなく、今私が向かおうとしていた会社の上司、それもトップ中のトップ。
代表取締役の速水真澄その人だったのだ。
──が、たぶん、今道行く人にそう説明したところで誰も信じなかったろうと思う。
普段の彼はいかにも高級そうなスーツで完全武装した上、誰も寄せ付けない威厳と冷徹さを身に纏って傲岸に振る舞っている。
が、今の彼はというと。
白いシャツに麻素材のゆったりとしたチノパンを履いて、暑いのだろう、踝まで裾をまくっていた。その足元は裸足に、サンダル。
もの凄くラフな恰好だが、何せ新入社員の誰もが初めてその人を見た時は会社所属の俳優だかモデルだかと間違えるという曰く付きの人なのだ。
元がいいと、どんな恰好をしていても様になるというわけで。
真昼の公園で寝転がってる青年、にしか過ぎないはずの光景はまるで映画かCMの一幕のような有様で私の目に飛び込んできたというわけだ。

「──君は?」

覚醒した直後の油断しきった顔が少し引き締まり、いつもの社長の顔を取り戻しつつ、その人は呟いた。が、まだ眠いのだろう、ぼんやりとした表情に、ああ、この人も人間なんだな──と変なところで納得してしまう。それくらい、普段の社長は隙がなく、迂闊に近寄れないオーラを放っているのだ。

「秘書課の斎藤です。一応、入社四年目ですが」

「ああ・・・・・・斎藤君か。すまない、いつもと違うから」

確かに、いつもの制服とは違う、それなりにデート服かもしれないけれど。
でも、いつもと全然違うのはそっちの方だろうに。
思わず笑いがこみ上げてくるのを堪えて、私は抑えられない好奇心のままに尋ねた。

「こんなところで何なさってるんですか、社長。せっかくのお休みですのに」

「休日出勤だ。面倒になって放り出してきたが。
 君は?水城君にでも呼び出されたか?」

「いいえ、これから私も社に向かおうかとは思っていましたが。
 水城さんもいらしてたんですか?」

「俺が出るまではな。昼前には帰ると言っていたが」

速水社長はゆっくりと身体を起こすと、まだぼんやりとした顔で額の髪を掻き上げた。
元々緩やかな茶色の髪が、寝ていたせいであちこち跳ねている様はなんだか少年のようで。
無防備な姿も相まって、普段よりぐっと年若く見える。
それが、つい私の口を滑らせたんだろう。

「それって、地毛ですか?」

「え?」

「あの、髪の毛。前から気になってたんです、染めてるのか、地毛なのか」

「ああ。色素が薄いだけだ。学生の頃はさんざん疑われたが」

「時々そういう子いましたよね。
 でも、染めるのは駄目で地毛なら黒でも茶色でもいいって理屈、私納得いかなかったんです」

「まあ、確かにな」

あの速水社長相手に、何だってこんなくだらないことを話しているのか。
ふと焦り出した私をよそに、社長は得に迷惑そうな顔色も見せず、ポケットから煙草を取り出した。
火を点けて、ふっと紫煙を吐き出す、その一連の無駄のない仕草に私の目は釘付けになる。

「社長、唐突ですけど、質問してもいいですか」

「何だ?」

「人って、何で結婚するんでしょうかね。感情以外に、理由ってあると思いますか?」

煙草を咥えたまま、社長は目を瞬かせてこちらを見た。
あまりにも質問の意図とする相手が意味不明だ──にも関わらず、私は真剣そのものだった。
誰かに聞いて欲しくて、何か言ってほしかったのだ。
暑さで頭がやられたと、社長は思っているだろうか。
──が、一呼吸置いて、彼はゆったりと笑った。
いつも見るビジネスの匂いを纏った笑みではない、人間らしい柔らかなその微笑みに、思わず胸がきゅっと高鳴るのを感じる。

「婚約破棄した男に、すごい質問だな」

「あ・・・・・・も、申し訳ありません!!」

私はぎょっとして頭を下げた。
そうだ、なんて馬鹿なこと言ってしまったのか。
つい先月、社長は結婚直前まで進んでいたあの鷹宮グループの会長孫娘との婚約を解消したところだった。
原因や経過は様々に憶測されたけれど、最も有力だったのは、仕事のことしか頭にない冷酷な男に、深窓の令嬢の心が冷めてしまったのだろうという噂で。
何にせよ、その結果はプライベートの枠を越えて会社と会社の利害関係に及ぶものだったから、この1ヶ月、それなりに会社は大変だったのだ。
とはいえ、一個人の結婚が破棄されたところで提携中の全てのビジネスまで破談にするのは互いにあまりにリスクが大きいというわけで、当初予想されていたより最小限の損失で事は収まる気配を見せていた。
が、重大なビジネスに”失敗”した社長への風当たりも相当に強く、近々会長から何らかの処分が下されだろうとも噂されている。

「まあ、そうだな──感情以外にも、結婚する理由なんていくらでもあるさ。
 現に俺がいい見本だろう。どう考えてもビジネスの一環。だから壊れた」

「お言葉ですが──鷹宮紫織さんとおられる時の社長、そこまでビジネスライクな感じには見受けられませんでしたけど・・・・・・彼女の方は特に。というか、幸せそのものって感じに見えましたよ。私、実はちょっとだけ、憧れてたんです、お二人に」

「──そうか。」

社長は複雑な表情を浮かべると、ふっと二本目の煙草に火を点けた。
柔らかな風が、木陰をそっと駆け抜けてゆくのを感じる。
私は日傘を差したまま、ベンチに座る社長の二歩前に立ち尽くしている。
すぐ目の前には、目が眩みそうな程眩しい、緑と照り返しの太陽の光。
まるで白昼夢のような、この光景。

「確かに・・・・・・彼女のことを、嫌いなわけではなかった。
 結婚しても、それなりに幸せにはなれたのかもしれない。──けど、どうしてもそんな自分がイメージできなかった。感情なんて二の次だったはずが、結局は感情で判断した。そのせいで君たち社員にも随分と迷惑をかけてしまったな。・・・・・・すまない」

「そんな!普通、感情で決めるものなんですよ、結婚なんて!
 社長、別に間違ってないと思います。そうした方が利益になるとか、適齢期だからとか、人目を気にしたりとか──そういうくだらない判断材料で決めちゃうから、結局うまくいかないんですよ、多分!!」

私は思わず叫んでいた。
はっとした時には既に遅くて──ぽかんと私を見ていた社長は、次の瞬間、高らかに笑い出したのだ。
おかしくて堪らない、という風に全身を揺すって笑う彼の姿を、私は呆然と見下ろしていた。
信じられない──こんな風に、笑う人だったんだ、この人って。
それから、ちょっとまて、と記憶の底で何かが騒ぎ出す。
違う、この声を聞いたのは初めてじゃない。
ずっと前にも、同じようにびっくりしたことがあった気がする──あれは、いつだっけ。
そうだ、会社で、何度か聞いたことがある。
社長室の前で、扉の隙間から聞こえてきた笑い声──その前に中に飛び込んでいったのは、あれは確か──

ふと、社長の声が止まった。
その目線が私の肩を越えて遠くに飛ぶのにつられて、私もゆっくりと振り返る。
それから、あ、と声にならない声を上げた。
つい先程まで私が座っていたベンチの横に、小さな人影があった。
白い光に包まれて顔は見えなかったが、どうやら少女のような、細身の身体つきで。
その子は一人ではなく、隣に立つ男の話を懸命に聞いている様子で、男はといえば飲み物の缶を抱えたまま不器用に何かを説明しているようだった。

──バカじゃない、今頃。

と、声にしようとしたその時。
座っていた速水社長が、軽やかに呼びかけたのだ。

「マヤ──!」

低く、よく響くその声に。
二人がはっとこちらを振り返った。
そして──少女が大きく手を振る。
その背後で、明らかにホッとした顔をして笑う、間抜けなあの男。
彼が何事か話し掛けると、少女は驚いたようにこちらを見やり、それから手を叩いた。
慌てた拍子に、彼の手から缶が転げ落ちたのを拾い上げて、二人はこちらに小走りでやってくる。
彼の前にやってきた少女には、確かに見覚えがあった。
何せ、社長がその名を呼んだのだから、間違えようもない。
北島マヤ──大都芸能の秘書課としては、彼女を知らぬ者とてないのだ。

「遅い!」

私の心の声を代弁するかのように、速水社長が叫んだ。
北島マヤは困ったように両手の缶と、背後の彼──私の彼、そして私の顔を見て頭を下げる。

「ごめんなさい。でも、こちらの人が、彼女さんを探してるっていうから──一緒に探してたんです、でも、見つかってよかった」

そしてにっこりと微笑んだ。
生の彼女を見るのは大した回数じゃなくて、それも近くで見たことはなかったけれど。
もう二十歳を少し越えるくらいの年齢のはずだったが、少女といって全く遜色のない初々しさで、頬が真っ赤に染まっている。
この暑さの中人探しを手伝っていたのは確かな様子で、全身びっしょりと汗をかいて、少し息も上がっているようだった。

「孝之──」

「ごめん、自販機が思ったより遠くて。戻ってみたら、君の姿は見えないし。
 そしたら、この子が一緒に探してくれるっていうから」

「──と、通りすがりの人に彼女探させてんじゃないわよ!本当、最低」

「ごめん。で、ジュースだけじゃなくて渡すものもあって。
 そっちを取りにいったら余計遅くなってさ・・・・・・あ、あれ。どこだっけ」

いきなりポケットを探り出す孝之に、眩暈をおこしそうになった時。
いつの間にか社長の横にちょこんと腰を下ろした北島マヤが声を上げた。

「ズボンのポケット!さっき入れてましたよ!」

「ああ」

何、何の話だろう。
唖然とする私と、面白そうに状況を見守る社長の前で、孝之はズボンの尻ポケットから何かを取り出して、私の前に突き出した。
それは──ごくシンプルな、でも紛れもなく、結婚指輪だった。

「・・・・・・・」

絶句する私の脳内には、いろんな言葉と叫びが飛び交っていた。
なんでむき出しのリングなんだ、とか。
せめて箱にいれてくれ、とか。
ジュースと一緒に渡すつもりだったのかよ、とか。
というかなんで自分とこの社長と所属女優の目の前でプロポーズされてるんだろう、とか。
何と言葉にしたらいいのかわからず、ただ馬鹿みたいに口を開けている私に、速水社長は言った。

「感情のままに、受け取ったらどうだ?」

なんで、私の感情がわかるのよ、上司の癖に。
と、心の中でちょっぴり悪態をつきつつ、でも私はすっと左手を伸ばす。
リングがぴったりと収まるべきところに収まった瞬間、心の中がすうっと晴れてゆくのを、私は実感した。そうだ、ごちゃごちゃと理屈をつけて逃げていたのは私の方で、本当はずっとこうなることを望んでいたのだ。妙なプライドが邪魔をしていただけで。
私は孝之と結婚したかった──理由なんて、色々あっていいじゃない?少なくとも、彼はこうして間に合ったんだから。

「ああ、よかった。本当にありがとう、ええっと、名前は──」

「北島です」

「北島さん、恩にきます。君が探そうって言ってくれなかったら諦めるとこだった」

「は、嘘でしょ!?」

「だって君待たされるの大っ嫌いだし、もう駄目かと思って」

「当たり前でしょ!どんだけ待ったと思ってんのよ!汗で化粧全部落ちたわよ!」

「北島さん──と、彼氏さんですか?そのジュース、お礼に差し上げますね」

「ちょ、ちょっと馬鹿!!社長、すみません、この人ほんっと能天気で勝手な事を──」

と、慌てて孝之の腕を引っ張った私の目に、今日何度目かの信じられない光景が飛び込んでくる。
速水社長は──北島マヤの手から受け取ったジュースのプルトップを開けながら、彼女の頬に軽くキスしていたのだ。

「有難う、遠慮なくいただくよ。よかったな、マヤ。汗びっしょりだぞ君」

「あ、あたしサイダーの方がいいな。コーヒーはちょっと」

「たまには俺がサイダーだ。あとで少しだけあげる」

「えええ」

本当に、何か変な夢でも見ているんだろうか。
あの社長が人目も構わず、これじゃどうみても付き合いたてのカップルじゃない──と、そこでようやく思い出したのだ。あの笑い声が聞こえてきた時──そこに、誰がいたのかを。
そしてようやく、何もかもが私の中でつながったのだった。

「え───っ!?」

叫ぶ私を尻目に、社長は何食わぬ顔で立ち上がった。
その大きな手は北島マヤの小さな手を軽く握り、並んで立つと一見大人と子供のようだ──けれども、北島マヤの表情を見る限り、それは紛れもなく、恋人同士の姿なのだ。

「斉藤くんと、ええっと、孝之君。こちらこそ、本当に有難う。
 結婚は感情以外にするもんじゃないと、つくづく勉強させてもらった」

ほら、マヤも頭を下げなさい、と促されて、二人は冗談なんだか真面目なんだか、深々と頭を下げた。
思わず私も頭を下げてしまう。
孝之だけが呑気にニコニコ笑っていた。

「式には是非呼んでくれ。休日出勤も当分禁止させてもらうぞ。では、よい休日を」

そう言って、常に見たことがないほど上機嫌の社長は北島マヤと共に真夏の公園から姿を消したのだった。

「──彼氏さん、えらい男前だったなあ」

「馬鹿──あれ、うちんとこの社長よ」

「えっ──嘘!若っ!!」

「そうなのよああ見えて泣く子も黙る鬼社長ってのが信じられ・・・・・・じゃなくて!
 あんたねえ、知らなかったとはいえプロポーズがうまくいったお礼が缶ジュースってことないでしょ!?」

「でも喜んでたでしょ。それにしても、北島さんってなんか聞いたことある名前なんだよね。
 顔もどっかで見たような──」

はああ。
今話題のお化け視聴率を叩き出してるドラマのヒロインが誰か、なんて、頭のネジが一本どころか何本か抜けてるこの人に言ってもわかんないんだろうなあ。
ため息をつきつつ、左手の違和感に気づき、つい口元が綻んでしまうのを抑えられない私がいる。
感情のままに──行動して、きっと社長は大成功だったのだ。
あんな風に笑う彼は、多分、北島マヤなしではあり得ないのだろうと。
大して彼のプライベートを知っている訳でもないのに、妙に私は納得している。
そういえば、婚約中の彼は。
確かに幸せそうなはずだったのに、以前にも増して仕事に打ち込む姿はちょっと異常だった。
婚約破棄してからは、ただでさえ多忙の上に超多忙が重なっても、どこか吹っ切れたように伸び伸びとしていたが──その理由がわかった今となっては、先程の「速水真澄らしからぬ」全てが、人間らしい彼そのものとしてより魅力的に輝き出してくる。

私もああして輝くことができるだろうか──この、マイペースで、人を待たせてばっかりの男の側で。
彼が手を差し伸べる。
先程と何も変わることのない夏の日差しに打たれながら、ほんの少しだけ変わった気持ちを抱いて。
私もそっと、手を差し伸べる。
社長と、彼女の指にもいつの日か約束のリングが輝くことを願いながら・・・・・・ 


END.

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文字通り『夏日』の週末に2時間ほどで書き上げた作品。
今年の夏は本当に・・・・・・ヤバかったですよね(溜息
第三者目線でマス&マヤを描いた素晴らしい作品に幾つか巡り合い、あ〜あんな風に書けたらな〜っと思いつつ挑んでみて玉砕してみたよの巻。
ラスト3行がいまいちパッとしないのですが、推敲すれども良くならないので、とりあえずそのまま載せておきます。続編にあたる作品が『散歩』となります。

last updated/10/10/11

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