第1話




「で……今夜はどうするつもりだ?」

「どうするって?」

至近距離でよくよく見ると、濃く塗ったマスカラに僅かに紫色のラメが混じっている事に気が付いた。
普段化粧っ気のないその子がそんな風にしているのは、舞台メイク以外で初めてかもしれない。俺は妙な鼓動を打つ心臓に慎重さを厳命した――間違っても、感情の侭に行動しない事――言葉、仕草、表情、いつも以上にいつも通り、な俺でいる事――を。

「だから。搭乗券もないのに乗り込んでしまったんだろ?
今夜はどこで寝るつもりだと聞いているんだ」

「ええ、ケチですね速水さん。そっちのお部屋に泊めてくれないんですか?」

何の問題もなく言い放つ少女は――いや、もう二十歳を超えた事だし、本人の主張する通り今夜の彼女は普段以上に大人びて――要するに魅力的、なのは認めよう。
だが、だからといってまんまとその無邪気に乗っかる訳にはいかない。

「……そのつもりだったが、面と向かって言われると腹立つな。
どこまで図々しいんだ君は」

「普段イジワルな事ばっかり言うからお返しです。
ありがとう、じゃあ泊めてくれるんですね?」

にっと悪戯っぽくわらった顔から一瞬艶っぽさが消えて、いつもの幼くて愛らしい彼女の素顔が垣間見えた――が、次の瞬間、たちまち表情を変える。
伏せた睫がキラキラと揺れ、慣れない酒に染めた頬に寄せられた指先が戯れるように動く。オレンジ色のルージュに濡れた唇が、言葉にならない言葉を紡ぐ。


――で、この後どうするの?長い夜、無駄に引き伸ばして他愛無い会話を交わしてきたけれど、ようやく切り出したその台詞――その後、あなたはあたしをどうしてくれるの――?


「……その代わり、俺は追い出される訳だけど」

「え――何で?」

ぽかん、とした顔で見つめられる。
薄暗いバーの照明の下でも、その目がかなり酔っているのはわかる。
多分、珍しい事に俺も。
だからこんな台詞も割合簡単に言える。

「いくら君と俺の仲とはいえ、君もいい歳した女だろ。自分でずっと主張してるように、二十歳も越えた事だし、酒も飲めれば結婚もできる、と――そんな君が、男と一緒の部屋で寝る訳にはいかないだろ……一般常識的には、多分」

「それって――つまり、あたしの事、ちょっとくらいはそういう……その、オンナとして見てくれてるというか、扱ってくれてるって――事、ですか?」

カウンターに肘をついていた腕を降ろし、マヤは真っ直ぐに俺を見据えた。
すらりと伸びた二の腕の細さが、数センチの間をわけてそこにある。
ほんの僅か、指を伸ばせば届く距離――だけど、永遠に届かないはずのその距離に。

「……女として、扱って欲しい訳?」

「――うん」

……うん、って。
何でそんなに簡単に頷くんだ、君は。
冗談ですよ、何エロオヤジ臭いこと言ってるんですか、って笑い飛ばす所だろ、そこは。

「ダメ、ですかね……やっぱり、あたしなんかじゃ――そ、その気にとか、なれない?」

マヤはカッと頬を赤らめると、唐突に目の前の空いたグラスに手を延ばした。
溶けかけの氷をストローでかき混ぜながら、小さな声で、でも確実に呟く。

「今夜……すっごい偶然だけど、ここで速水さんに会うことができて――
 あたし、かなり浮かれた――って、わかりますよね? 本当は紫織さんとデートだったんだってわかってるんだけど……それでも嬉しかったんです、こうやって大人っぽく仕立ててもらって――一緒にダンスを踊って、お酒まで飲んで……こういう会話までしてるって、いまだにちょっと信じられないっていうか――でも、嬉しいんです。……好き、だから」

「……」

「好きなんです、速水さんの事」

「ちょっと――待て。何、何だって?」

「いや、だから好きなんですよ、速水さんが」

「……初耳だ。君は俺の事が大嫌いなんじゃなかったのか」

「そりゃ昔は嫌いでしたよ!顔を合わせればイヤミな事しか言わないし、強引だし、何だかんだと邪魔ばっかりするし、――でも、何でか知らないけど、いつの間にか気になっちゃって、スキになっちゃったんですよ!」

一気にまくしたてる彼女の横顔を唖然として見つめながら、俺は内心頭を抱えていた。
――妙にニヤけた笑みを浮かべながら。

「わからん――」

「なっ、何がですかっ」

真っ赤な頬のまま、目を吊りあげる彼女の表情。
まるでいつもと変わらないやりとり、俺と彼女の十八番。

「そんな複雑な乙女心を解しろといわれても俺には無理だ。
 お蔭でうっかり婚約したじゃないか――どうしてくれる」

「う、うっかりって――何ですかソレ」

「それよりもっと厄介な事がある――忘れているようだが俺は君より11も年上だし、これまでいろいろとゴタゴタもあった、それに何といっても『紅天女』だ。試演を前に俺と君にそうした関係があった――と外部に知られたら……既に今夜の事は気付かれている様子だし、まあ世間体的にはかなりまずいだろうな」

「……世間体、気にしますか、やっぱり」

「――君が気にしない、というなら別だが」

「気にしません」

「言ったな――後で後悔するなよ?」

「しません」

「酔いが覚めた途端、最低だのあれは夢でした忘れて下さいだの文句垂れるなよ?」

「言いません!もう、しつこいなあ」

「じゃあ、来い」

酔いの勢いだろうが、気紛れだろうが、もうどうでもいい。
俺は目の前の細い腕を掴んで引き上げると、そのまま引っ張るようにして彼女を外へと連れ出した。

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last updated/10/12/30

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