第2話




足元が若干揺れているような気がするのは……酔いのせいだけではないのだろう、船上なのだから。
集中しなければ先に進んでいるのかどうかもわからない位にゆっくりと、だが確実に前へと――波をかきわけて進んでいる。
だが今の俺と彼女は――今にももつれそうな足取りで、誰が見ても怪しい位に焦りながら探している、誰にも見つからない場所を、ただ二人とその他を分かつ壁を求めて。

ようやく辿りついたその扉の前で、一度深く深呼吸する。
この部屋に――あの女性が用意したこの部屋に、二度と入るつもりなどなかったのだが。
鍵を差し込むその瞬間、ふと肘のすぐ後ろにある彼女の頭に視線を落とした。
丁度俺を見上げる角度で視線がぶつかり、その瞬間――
奇妙な事に、二人して何故だか笑い出したい気分になってきた。
そのまま、二人同時に吹き出した。

「な、何笑ってるんですか」

「いや――君の方こそ、何が可笑しい?」

「だって……何でこんなに急いでるのかなって、誰も追っかけてきたりしないのに」

それはそう――七年もの間、行きつ戻りつしてきたのだから。
前に進んでいるのかどうかもわからないまま、遥か彼方の灯台の光目指してただ闇雲に。
そう、だから――走りたくもなるだろ?
本当に君がついてきてくれているのか、何度も何度も確かめながら、共に過ごすこのひと時が夢ではないのだと言い聞かせながら、その手を掴んで走ってしまうのは仕方ないだろ、マヤ?

足を踏み入れた瞬間、自動的についた照明の彩度を落としている間に、マヤは物珍しそうに豪奢な室内を見渡している様子だった。
入ってすぐ目の前、船室にしては広めにとられた窓には薄いカーテンがかかっている。
それを広げて夜の海でも眺めながら何か会話でもすべきなのだろうが、そんな気長な時間を過ごす気はない。
確信を得ずにはいられない気分になった俺は、単刀直入に切り出した。

「マヤ、忘れていたが――君に渡したいものが」

「えっ?」

「忘れ物。君が待ち伏せてた夜に大都芸能の俺の部屋に落ちていた」

「うわ……っと、何だかもう血なんだか泥なんだかわかんないですねコレ」

「洗って返すべきなんだろうが、俺も清掃員から渡されたのは今朝だった。
 折角のハンカチを俺の血で汚して悪かったな」

「いえ――」

と、手を差しのばしかけた指先でパッとハンカチを上にかざす。
一瞬呆気にとられて俺を見つめた彼女は――次の瞬間、ただでさえ赤かった顔をこれ以上ない位に真っ赤に火照らせた。

「……と、いう事は。いたんだな、あの時?」

「あ――まあ、ええ、ちょこっと――警備員さんが速水さんを運びこむ所、までは」

「――本当に?」

「……本当にって?」

問いただせば答えてくれるのだろうか。

あの夜本当に俺を看ていたのは誰なのか、俺が夢の中で聞いた告白は誰のものだったのか。

俺は手を伸ばし、握りしめた掌の中からバッグと共にハンカチを引き抜き、床に落とした。
先程までの軽い口調が、笑顔が、嘘の様に硬く緊張しきったマヤは。
僅かに震えながら、それでも指を広げて成すがままになった。
視線のすぐ先にはこれ見よがしに広々とした天蓋付のダブルベッドがあったが、その思惑染みた光景は俺の中でややトラウマになりかけているらしく――
彼女をそこに横たえてみたい、という気にはどうしてもなれなかったのだ。
なので――そのまま、視線を俺と自分の爪先の間の絨毯の上に落したまま、身動き一つしない彼女の頬に手を伸ばし、引き上げた。

「……緊張してるのか?」

「そ、そりゃあ――」

「そんな顔されたらこっちまで緊張する。
 さっきみたいに笑えよ――案外笑える状況かもしれないぞ、コレは」

「笑えって言われたって……うっ、わ!きゃあっ――な、何す」

「強硬手段」

普段の俺らしくもないといえば限りなく俺らしくない行動なのだが。
あまりに緊張で固まった彼女の顔を見ているうちに、ふとこの張りつめた空気をぶち壊してしまいたくなり、立ち竦んだままの彼女の脇腹を思いっきりくすぐってみたのだ。
案の定、驚いて飛びのいた次の瞬間、マヤは大口開けて笑い始めた。

「ふっ――あはは、もう!速水さん、ちょっと……なんかちょっと、変ですよ今夜!」

肘を摺り寄せて避けようとするのを、無理に腕を引き上げて尚もくすぐる。
体格差があるだけに俺の攻撃は簡単にマヤに届いてしまうのだ。

「君があまりにもあっさり変わるから――本当にチビちゃんなのかな、と」

「やーめーてくださ……ああもう!何かちょっとイラっとしてきた!」

今宵初めて俺の目の前に立ち現れた「大人の彼女」と、その中に垣間見える「素顔の彼女」と――どちらがいい、という訳ではないが、やはりマヤはそうやって無邪気に笑っているのが一番彼女らしい、と思うのは俺の勝手な押し付けなのかもしれない。
もしかしたら今この瞬間には必要のない行為。
大人の扱いを望んでいるらしい彼女には不本意かもしれない行為――だけど。

……と、ぱしん、と俺の腕を払った拍子に彼女の足元が揺らぎ、後ろ向きに倒れかけたのを腕を伸ばして支える――もう、此処までだ、余裕をもって遊べるのは。

「あ……」

音もなく。
彼女を床に降ろす。
後でまとめた黒髪がふわりと広がる。
ワインレッドに包まれた、真っ白で柔らかな、愛しいもの。
潤んだ瞳で、息を潜めている。

「本当に――いいのか?」

彼女の腰の脇に膝を折り、覗き込んで聞いた。

「……は、い」

「――変わってるな……本当に」

何が、と言いかけた唇の端に、そっとキスを落とす。
薄いドレス越しにも、その瞬間ぱっと全身が粟立ったのがわかった。
床の上に無造作に横たわる左腕の、手首から肩までを一気に擦り上げる。
追いかけてきた掌を握りしめて、耳の横に持ち上げる。

「マヤ――今夜いろいろと驚かせてくれたお返しに、俺からも一つ」

「……?」

「俺も――君が好きだ」

「え」

ああ、これはちょっと――愉快、かもしれない。
たっぷり3秒、ぽかんと見上げているその瞼の上に、もう一つキスを落とした。
微笑ながら。
後はもう――止められなかった。
目尻に、鼻の頭に、桃色に染まった両の頬に。
次々と戯れのような軽いキスを落としながら――左手で乱暴に彼女の髪を掻き回す。
握りしめた小さな掌の力がますます強くなる。
それを上回る力で握りしめる。
キスが止まらない。
遂に――薄く開いた、唇の上に……そっと、重ねるはずだったそれは。
思いの外深くなり、自分でも呆れるくらい実直に、子供じみた欲望のままに、吸い付き、吸い上げ、甘噛みしながら引っ張り上げた。息をするのも面倒な程、ただ覆い尽くしてしまいたくて――我侭に、執拗に。

「――っ、は……」

僅かに離れた瞬間、マヤは呼気を求めて悶える様に大きく胸を膨らませた。
その身体を引き起こし、床の上に座り込んだまま腕の中に引き寄せる。
そのまま喉元を辿り、肩の付け根や鎖骨の窪みに舌を這わせてゆく。
ふと気が付くと、成すがままだったはずの彼女の両腕が俺の頭を抱きかかえるような形で、指は髪を掬い上げるようにして絡みついていた。

何か話しかけようかと思ったけれど、碌な言葉が浮かばない。
その代わりに、横膝になった太腿の上からやや強めに擦り上げた。
当然、ドレスの襞が捲れあがって素肌――を覆い隠す、薄いレースの模様が顕になってゆく。マヤは一瞬身じろぎし、俺の頭の後ろから手を引き抜こうとした――が、結局そのまま動かなかった。
その首元に埋めていた顔を上げて表情を覗き込もうとしたが、恥かしそうに小首を傾げて直視を避けようとしている。
全身が興奮と緊張で慄き、じっとりと汗をかきはじめているのがわかった――
多分、俺も同じように……反応しているのだと思う。

「……あ……わ、あっ、あの、速水さん――」

するすると指が這い上がり、腰の辺りに届いたとき、遂に慌てた様な小声で囁いた。

「何――怖くなった?」

「や――っていうか、その……で、電気、消しませんか?」

「……嫌だ」

「嫌って――だって、それに、ゆ、床の上って、その」

緩やかに纏わりつく彼女の腕の中で、俺は駄々っ子のごとく振る舞った。
再び彼女を床の上に抑え込み、片脚を絡める。

「君が望むなら別にいいが――何となく、あのベッドは使いたくない。
 それに今夜は月もない様だし、こんな時に君の顔が見えないのは困る」

「だって――い、いいけど、いいんだけど!でも、恥かしい、です……」

「……お互い様だろ」

そっと額にキスしながら抱きしめる。
震えているのは彼女だけではなく、勿論、俺の心臓も。
掌も汗ばんで、呼吸が浅い。
こうしてみればすぐにわかる事――好きなのは俺一人、君一人な訳じゃない。

前髪をかきわけ、小さな額を剥き出しにする。
薄い眉の下で細かく震える睫の先を指でなぞりながら、囁きかける。

「当たり前だが――君を抱くのは初めてだから。
 だから、いろいろ間違うかもしれない……極力気をつけるようにするけど。
 もし何かイヤだったりしたら、我慢しないで言ってくれ」

「……なん――で」

「え?」

「なんで、そんな……や、っ――優しいんですか、速水さん?
 なんか――今夜の速水さんは……う、うそみたいで、ごめんなさい――
 す、すっごく変なコト言ってるって、わかってるんですけど……」

ボロボロと泣きじゃくる、その顔を堪らない想いで見つめる。
まあ――動揺するのも無理はない……
あまりにも長い間本心を抑え込みすぎた、俺の素の感情に触れてしまったのだから――
こうして戸惑いつつも受け止めてもらっている事自体が奇跡みたいなものなのだから。

「ごめんな、マヤ――全部俺が悪い」

「ちがっ……え、あっ」

横たわる背中と床の間に手を差しこみ、薄い布地の間に走る細い列を辿る。
ほんの些細なファスナーの金具を摘まみ上げると、一気に引き降ろした。
どこかで引っかけたかもしれないが、気にしている余裕はない。
そのまま割れた隙間から手を差しこみ、下着の締め付けを緩める。
反射的に摺り寄せられる膝を膝で割り、覆いかぶさる俺の胸を突き上げるような形で中途半端に固まった両腕の手首を掴んで頭の上まで引き上げた。

「それに――そんなに、優しくもできない、気がしてきた」

「んっ――や……っあ、」

首回りのレースごと、緩んだ下着を引き下げる。
見た目以上に豊かな曲線が弾けるその光景に一瞬息を飲み、それから深く溜息をつく。
予想以上に――あまりにも、美しすぎると、素直にそう思ってしまった。
その感情のまま、口に含む。
びくん、と半身を反らせ、マヤは必死で唇を噛みしめているようだった。
舌の上に乗せた途端、それは見る間に硬く勃起してゆき、転がしたり軽く歯を立てたりしているうちにマヤの身体全体の様子が激変してくる。
自分の身体半分で抑え込んだその下で、恐らく生まれて初めての感覚に怯えながらも、確実に反応する彼女の姿を見るのは――絡みついているのは、例えようもない恍惚感だった。

左手は彼女の腕を拘束したままなので、右掌で再び足を撫で擦る。
小刻みに動く足先から窮屈なヒールを脱ぎ去り、指の間を軽く揉みながら駆け上ってゆく。
何度もとなく刷り上げながら、徐々に核心へと。
その間に反対側の胸を弄び、時折耳元や首筋にキスとも噛み付きともつかない愛撫を繰り返しているうちに――噛みしめた唇が緩み出し、やがて耐え切れない嗚咽となって零れ出た。

「っ、う、……はあっ、っ、速水――さん、お願い、手、のけて?」

言われるがまま、指の力を緩める。
再び押し退けが始まるのかと思いきや、高く掲げられていた腕が素早く俺の首の後ろに回った。

「マヤ――?」

「すき――大好きです、本当に……だいすき」

ぎゅうっと抱きしめられる。
誇張なく、俺は息が詰まりそうになる。
その心地良い苦しさに身を委ねながら、深く抱き返す。
ぴったりと重なった身体と身体、なんの不調も違和感もない。
こんなにも心地良い身体と隔てられて――今までの俺は、彼女は、どれ程孤独だったのかと、痛い程思い知らされる。うっかりすると、泣き出してしまいそうな程の切なさで。

「ああ、好きだ――俺も、馬鹿みたいに、君が」

指が震える。
もどかしい、二人を隔てるもの全てを一瞬で引き裂いてしまいたいのに。
するりと首元から腕が離れ、俺が上からボタンを外してゆくのを下から彼女の指が追いかける。そうやってようやくシャツを脱ぎ捨て、ついでに腰の周りで花びらのように纏わりつく彼女のドレスも引き剥がした。

その瞬間、確かに自分たちを乗せたこの船は先に進んでいる――という唐突な感覚がした。
柔らかな絨毯の下、何層もの床と金属のずっとずっと下には、それより遥かに深い漆黒の海が広がっていて――俺たちはその上を自由に泳ぐこともできるし、果てしない底まで沈み込むことだってできるのだ――息を継交わし合いながら。
その一瞬の妄想に、俺の内部のあらゆる箍が外れ、同時にあらゆる方向へと領域が広がってゆくのを感じた。

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last updated/10/12/31

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