第2話




「まだ早い、か……確かにそう、かも」

パラパラとページを捲る手を止め、溜め息をつく。
確かに、今まで演じてきた役とは全然違う、と思う。
時代は戦前、北陸の旧家。
主人公の「アヤ」は、産まれ落ちたその日からその家の座敷牢の中だけで生きることを余儀なくされた。
理由は、彼女の出生に絡む秘密。
アヤは長男の嫁とその家の舅との間に産まれた不義の子だったのだ。
やがてアヤに関わる人々、特に男たちは例外なくアヤの不思議な魅力に取り憑かれ、狂ったようにアヤを求めていく。それによってもたらされる二重三重の悲劇――
重苦しい旧習と情念に満ちた性愛がテーマの芝居だった。
そんな訳で、当然劇中には生々しい濡れ場が幾つもある。
しかも演出家は長年アングラ劇の座長として活動し、エロスを題材にした舞台演出には定評のある山川純。○活ロマンポルノをパロディ化した前作は、公然猥褻スレスレだと物議を醸した程センセーショナルだった。

『紅天女』の本公演が大盛況のうちに終わった頃、マヤの周囲の環境は激変していた。
かつて大河ドラマに出演していた頃とは比にならない、数多のドラマ、舞台、CM等の出演依頼。
”『紅天女』の北島マヤ”の今後の方向性、また新作舞台について世間が大きく注目しているのは確かなことで、それは如何に芝居以外の世辞に疎いマヤにも理解できた。
確かに、真澄の言ったことは正しいと思う。
『紅天女』の阿古夜が織りなす純粋な恋物語に夢中になったファンが、その直後にこの芝居を受け入れられるかどうか……正直、マヤにもわからない。
二週間前、台本を持ってマヤの前に現れた山川監督の台詞が脳裏を過る。

――多分、君の会社も君自身も、この芝居は君のイメージに合わないと断るだろう。
  だが僕は君の阿古夜を観た。観たからこそわかるんだ。
  『天女』を演じた君なら、『妖婦』だって演じることができる。
  そしてその中に純潔を見出すことだって、君ならできるはずなんだよ。

妖婦の中に純潔を見出す。
その言葉が妙に心に引っかかる。
『紅天女』とはまた違う愛の形を、この役で捉えることができるかもしれない。
未だ経験のない、経験してみたいなどとは到底思えない、性愛というものさえ。
芝居を通して理解できてしまうのかも――しれない。
……それにしても。

――俺は嫌なんだよ。

真澄の口から発せられた、あの台詞。
あの時は感情が高ぶっていたこともあり、よく理解できなかったが、あれはどういう意味だろう。
大切にしている『紅天女』のイメージを壊されたくない、という想いからなのは間違いないと思う。
ああ、だけど。
抑えようとしても抑えられない、甘い疑惑がふつふつと沸き起こる。
あの言葉の奥には確かに、真澄個人の妄執の断片が見えたような気がするのだ。
単なるファン以上の、そう、あれはもしかして……いや、そんなバカなことあるわけない。
あるわけないと打ち消す側から期待してしまう、これが恋する女の愚かしさだろうか。

とはいえ、もしこの芝居に強行出演したとしたら、真澄の激怒を招くことだけは確かだろう。
何しろ、自分とあの人との繋がりは『紅天女』、ただ一つなのだから。
その『紅天女』を汚したとなれば、いかに上演権を持つ自分といえども容赦しないだろう、彼ならば。

「はあああ……」

何度目かの、長く深い溜め息をついたその時。
遠くに放り投げてあったバックの中から、小さな振動が聞こえた。
その存在をつい忘れてしまう、最近持ったばかりの携帯電話だ。
慌てて液晶画面を覗き込むと、見知らぬ番号が点滅している。
この番号を知るのはほんの一部の友人ばかりのはずだが、こんな時間に一体誰だろう。

「も、もしもし」

「……」

暫しの沈黙。
どこか屋外なのだろう、遠くで車が風を切るような音がする。

「もしもし?」

間違い電話ですか、と聞き返そうとしたその時。

「俺だ」

「……速水さん!?」

「さっきの件だが。決意は固いのか?」

「え?」

「どうしてもあの芝居に出たいか、と聞いているんだ」

「……はい。すごく、バカなことかもしれないって、思います。
 正直、自分でも不安なんです。でも、演りたい、今演らなきゃいけないって、そんな気がして……」

受話器の向こうで、浅い溜め息が聞こえた。
自分の耳元で囁かれているようで、マヤは思わずゾクリと肩を竦める。

「やめろと言ったところで、どうせ君ならやるんだろうな」

「……すみません。でも私、きっと速水さんに恥ずかしくない演技、してみせますから」

「待て。俺はまだ許可はしてない」

「……」

「――条件がある」

「条件」

「そう。君が絶対に飲めない条件だ。
 それをもって俺は君を止めるつもりだ」

「何ですか、言ってください」

――またしても、沈黙。
さっきからおかしな具合に鼓動している心臓が、より心拍数を上げてゆくのを感じる。
条件、何の条件だろう。自分が絶対飲めない条件……

「――俺に抱かれること」

「は……?」

「どうしてもあの芝居に出たければ、俺と寝ろといってるんだよ、北島君」

心臓の鼓動が一瞬止まり、頭の中が真っ白になるのをマヤは感じた。


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last updated/10/11/11

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