第5話



僅かに開いた車窓から吹き込む風があまりにも心地よくて。
思い切って全開にしていいか運転席に座る人に尋ねると、軽い微笑みと共に窓が勝手に動いた。
思ったとおり、窓から窓へと吹き抜けてゆく冷たい風が車内のやや気まずい空気を一気に掻き回し、窓の外へと運び去ってゆく。

まだまだ遠いと思っていた秋も、夕暮れ時には少しだけ顔をのぞかせてくれるらしい。
マヤは滑るように流れてゆく窓の外の景色に目を細めた。
ああ、あの薄い雲がたなびく黄金色の空の眩しさときたら。
きらきらと光を乱反射する水面の輝きと、どちらがより綺麗かなんて選べない程完璧な対比。
永遠に有り続ける絵画のように美しいのに、一刻ごとに表情を変えてやがて闇に消えてゆくのだ。
訪れる夜に胸を踊らせながら――僅かに怯えながら――待ち望む、この時間。

「さすがに北陸の海、というわけにはいかないし。三浦海岸で我慢してくれ」

真澄がようやく口を開いた。
慌てて視線を向けて、マヤは目を見開く。
吹き込む風で自分の長い髪は既にばさばさになってしまい、ひっきりなしに耳にかけてようやく前が見えるといった具合だったけれど、それは真澄も同じだった。
柔らかそうな色素の薄い髪が強い風によって巻き上がり、見事まなでに整った額から鼻筋にかけての部分が露出している。
逆光で淡く輝くそのラインのあまりの美しさ。
常は絶対に見ることのできないその光景に、マヤは返事をするのも忘れて見とれてしまった。

「――何だ」

「い、いえ――何か、違う人みたいに見えたので」

何のことだ、と目で尋ね、それからちらりとバックミラーに視線をやってああ、と理解する。

「ちょっとだけ、若く見えますよ。そうやってると」

「君の方は遊んでた毛玉が巻きついてとれなくなった子猫みたいだぞ」

「ええ!?」

軽くからかったつもりが倍に返されてしまい、真っ赤になったマヤは慌てて乱れた髪の毛を撫で付け、落ち着かせようとする。――が、絶え間なく吹き込んでくる風に毛先は翻弄されるばかりで、ちっともいうことをきいてくれない。
その様子を目の端で眺めながら、堪えきれなくなった真澄は遂に身体を揺すって笑い始めた。
低く漏れるその声にきゅんと胸を軋ませながら、ようやく緩くなった雰囲気にマヤはホッと安心する。あの昼間のカフェを出てからここまで、互いの心の奥底を推し量るような会話しか交わすことができずにいたのだから。

「惜しいな――あと30分早ければ入れたのに」

ややくたびれた外観の、それでも規模はそこそこといった水族館の前で一旦停車し、既に閉館していることを確認する。
辺りの店舗も店じまいの様相を見せ始めており、道路を覆い尽くすがごとく鬱蒼と茂った街路樹が徐々にやってくる暗闇の存在を仄めかす。
車はそこから少し進んだところで脇道に反れて止まった。
助手席側に回ってきた真澄がドアを開き、マヤはゆっくりと外に降り立つ。
瞬間、風と共に僅かな潮の香りを感じて、自然と口元が綻んだ。

やや斜面になった海岸へと続く道を、ただ黙って二人で歩く。
ゴツゴツとした岩に足をとられてバランスを崩したマヤを、すかさず真澄の大きな腕が支えた。
そしてそのまま、その手はマヤの手を離れない。
何か言おうとしたが、黙ってその暖かさに委ねることにした。
こうしてこの人と手を繋いだことは初めてではない――今は遠くなってしまったあの時の記憶を思い出しながら、記憶の中より圧倒的な存在感でそこにある骨ばった指先の、少し乾いた肌の、これまた見事に整った爪の形をしっかりと身体に刻み込むために、全神経を手のひらに集中させながら歩く。

「うわあ……」

目の前に広がる海の光景に思わず歓声を上げた。
少しの間に夕暮れは素早く雰囲気を変えていて、薄紫色と橙色のグラデーションが水平線に向かうにつれて闇色に溶け込もうとしていた。
波は穏やかで、まだ満潮を迎えてはいない様子だ。
岩の黒々とした縁に白い飛沫を立てながら、寄せては返す定期的なリズム。
マヤは粒の荒い砂浜を一気に駆け下りた。
繋いでいた真澄の手が離れてしまったことに少しだけ胸が痛んだが、背後に確かな視線を感じている。
履いていたサンダルを脱ぎ捨て、波打ち際を歩き始めた。
こうして裸足で自然の感触を味わうのは、もしかしたら『紅天女』の稽古以来かもしれない。
ざくざくとした礫の刺激が、柔らかな足の裏に心地良い。

――ふと、背後を振り返ると、真澄の姿が見えなかった。
慌てて視線を動かすと――いた。
いつのまにか、自分のいる所よりも少し斜めの方向に連なった岩の上を器用に歩いている。
スーツの上着と革靴が浜辺に脱ぎ捨てられているのが目に入った。

「転ぶなよ」

近づいてきたマヤにちらりと目をやって、真澄は言った。
シャツとズボンの端が折り曲げられ、これまた普段は絶対にお目にかかることのできない部分が露出しているのが、マヤの心臓にはすこぶる悪い。

「何してるんですか?」

真澄は長い脚を折り曲げ、岩陰に手を突っ込んで何やら探している様子だった。
手首のあたりまで海水に浸しながら、やがて見つけたそれをマヤの目の前に掌を広げて見せる。
岩に張り付いた、一見するとややグロテスクな、黄色い貝のような生物。

「何ですか、それ」

「カメノテ。亀の手みたいな形だろ?食べてみろ」

「ええ、食べられるんですか、それ」

「まあ見た目はアレだが、エビか何かだと思えば案外普通だ」

綺麗な爪がプチン、とその殻を割り、マヤの唇の先に無造作に差し出される。
思わず開いてしまった唇に、真澄の指がするりと入り込んだ。
生温かい感触と共に、しょっぱいものがつるんと喉の奥に消える。

「どうだ」

「うーん……普通。海の味、って感じです」

真澄は声を立てずに笑った。
そうしている間にも辺りはどんどん暗くなってくる。
眩しすぎて見えなかったその顔が今ならちゃんと見つめられそう、とマヤは思った。
暫く波と戯れた後、二人は岩の上に腰を下ろして水平線に向かい顎を上げた。
昨日までとはまるで違う時間の流れを強く意識する。
隣に居る人のふとした仕草や些細な言葉、眼の奥に秘められた思惑の意味。
そうしたものが自分の心をざわめかせるということに、久しぶりに気づいたような時間。
この心地良さを、若しくは不安を感じずに、今まで一体どうやって生きてきたというのか――と、そんなことを二人して考えている。

ザザザザザ……
波と風の音が混じり合う音が身体の中にまで響いてくる。
じっとしていると、音と共に「北島マヤ」の境界が曖昧になってゆき、やがて遠い世界の別人格がゆっくりと降りてくるのをマヤは感じる。

ああ――やっぱり、演りたい。

アヤになりたいんだ、あたしは――


「『海――これが、海。すごいわ、お父ちゃん。絵本や写真でみるのとは全然違うんやね。』」

ふいに、アヤの台詞が唇から零れる。
マヤは立ち上がり、真澄と同じ視線の先、水平線の彼方に眼を細めた。

「『あの向こうに、アメリカとか支那があるんやってねえ。
 全然知らん人たちが、全然違う生活をしとるんや。
 あたしが暗い座敷の中で虫みたいに息をしとった時にも、
 この海はずうっとあって、違う世界に続いとったんや……』」

涙がつうっと、一筋、また一筋。
勝手に頬を流れてゆくのを止めることができない。
長い間幽閉されていた地下からやっとの思いで抜け出してきたアヤが、生まれて初めて海を見た時に呟く台詞だった。
父と呼ぶのは、死んだ跡取りに代わって実母の夫となった、その家の末弟。
座敷牢の中からアヤに誘惑され、一族を裏切って外の世界へ彼女を運ぶことになる男である。
アヤは振り返り、呆然と自分を見つめる「父」に微笑む。
今までの誘惑の微笑みとは違う、心からの感謝と、少女らしい希望に溢れた微笑みを。

「『ありがとう、お父ちゃん。あたしを海へ連れてきてくれてありがとう。
 あたしの人生はここから始まるんや。
 篠田アヤは今、ここで生まれかわったんやって、覚えといて』」

じっと真澄を見つめながら唱えられる台詞。
真澄はまるで自分がアヤの「父」であるような錯覚を覚え、鳥肌を立てる。
年の離れた姪として、父の血を分け合う兄妹として、そして今は義理の娘として。
だが紛れもない自分の娘に誘惑され、邪な欲望のままに彼女を連れ去り、何もかも捨ててここまでやってきたというのに。
遂に彼女を手に入れようとするその時になって、そんなにも無邪気に微笑むのか――「娘」として。
残酷な――なんて残酷な、少女。

「――で、ここでさよならって言って、アヤは父の元を走り去るんです」

ふっと、アヤの仮面が消えた。
マヤは少し頬を染めて、にっこりと小首を傾げている。
真澄は思わず零れた溜息を隠すことなく、首を振った。

「全く、君って子は……ゾッとしたよ」

「ええ、今のシーン、ゾッとするような所ですか?」

「アヤにその自覚がないのが怖い所だ。確かに君ははまり役かもしれんな」

真澄は立ち上がると、ぐっと背筋を伸ばすように腕を上げた。
既に日は暮れ落ち、自分とマヤ、岩と海岸線の境目が紫色に曖昧になりつつある。

その肌と溶け合ってしまいたい。

想いを抑えることもなく、思惑で息を繋ぐだけでなく、ただ重なってしまいたい、という欲望がわく。

「マヤ」

「はい」

「幾つになった」

「コドモにきくみたいな言い方ですね」

「……」

「23です……もう、酷いな。社長さんなら覚えといて下さいよ」

「23、か。立派な女だな」

「そりゃあもう。速水さんの頭の中くらいです、いつまでもちびっ子のマヤなのは」

口調だけはあくまでいつものフリを装って。
でも眼差しが、距離が、いつもの二人では絶対になくて。
長い指が、潮の香りのする黒髪をさらさらと撫でてゆく。
風に吹かれていつまでも踊り続ける毛先を、彼女の代わりにかきわけて、耳の上に優しくかけて。

「何を見てる」

「――夕日が落ちる瞬間」

真澄の肩越しの空を、マヤはこれ以上ないくらいの必死さで見つめる。
あの太陽が隠れた時、二人は今までの二人に別れを告げるのだ、と直感して。
そして黄金の焔が瞼の裏でゆらりと歪む。

「そんなに見つめられたら出来ない」

「何が」

「キスが」

綺麗な唇が、キス、と呟く。
甘い、というよりは、どこか投げ出したような荒々しさで呟かれたその言葉。
まるで細長いナイフで心臓を突かれたような、すうっと一筋の傷口。
そこから沁みじみと、痛くて痒いような感覚がマヤの胸を走り抜ける。
その痛みに慄いて、そっと瞼を閉じる。
言葉よりもずっと暖かい、優しい、本物のキスが降りてくる。
迷いも、恐れも、切なささえも溶かしてしまう、ただその存在だけが愛おしい。

――キスをする。

何度も、何度も。

今までしてこなかったのが嘘のように。

重ねるだけ。息を交換するだけ。

やがて湿り気が加わったら、離れ難くなる。
ひたり、と、僅かにくっついて、そっと離れてゆくふたひらの薄い肉。
だんだん強く押し当てられ、角度が変わり、優しさが消えて、性急さを増して。
ぶつかるように、何度も、何度も。
誰が最初に歯列を割ったの?
隙間から絡め出したのはどちらが先?
それを意識することも出来ないくらい、ただ互いのキスに溺れてゆく。

ずるっ、と。
貝が砂を吐くような水音を立てて。
その生々しさに少しだけ意識を取り戻して、でも後戻りは出来ようもない。

真澄はマヤの頭を抱えたまま、粒の粗い砂浜に膝を折る。
剥き出しのマヤの膝もくたりと崩れ、そのまま真澄に横抱きにされながらキスを受ける。
片方の頬にちくちくと湿った砂の感触がする。
その狭間に絡まった、自分の黒髪と真澄の柔らかな髪。
どこからどこまでが自分の舌で、肌で、息なのか、全くわからない。
赤、青、黄色、白、緑、紫――色に名前を付けることなど無駄なのについ数え上げてしまう万華鏡。
瞼の裏で無限の色と光が踊る、くるくると溶けて弾けながら渦となり、螺旋となって二人の意識を掻き混ぜてゆく。
その狭間に吐息がある、砂利の擦れ合う音がある、互いの名前を呼ぶ音がある――

……ちょっとだけ。
マヤは瞼の隙間から外の世界を覗いてみた。
夕日はすっかりどこかへ消えてしまっていた。
紫紺の闇の中で互いを個と理解する手段といえば、互いの唇を離す以外はないらしい。
だが、それを止めるのは相当の努力と理性が必要だった。
だからもういちど、瞼を閉じた。

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last updated/10/11/14

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