last updated/10/11/15
海岸で、いつ果てるともなくキスを続けた。 流石に疲れて溜息を漏らした時。 互いにこのまま動きたくないと強く願ったけれど、僅かに残った理性が明日の現実を警鐘し続けるので、渋々ながらそれに従うことにした。 どうやってその海岸を離れ、車を走らせたのか。 二人共あまりよく覚えていなかったが、横浜港近くにある大都所有のマンションの地下駐車場に辿り着いた頃には既に時計の針は深夜近くを指そうとしていた。 普段は撮影に使われたり、所属タレントの仮住まい等に利用されている五階建てのマンションで、現在はどの部屋も空いている。此処に来ると予め予定していたわけではなかったが、キーを用意していたあたり確かにその思惑はあったのだ、と、真澄は自嘲的な笑みを浮かべる。 部屋に上がるなり、掴んだままのマヤの手首を引きずってベッドルームへ直行する。 そのまま二人倒れ伏し、大きく息を吐き出す。 柔らかく押し返すスプリングの軋みがやけにリアルだ。 シーツからはクリーニング仕立て上げの清潔な匂いがした。 ビジネスホテル然とした、時の止まったかのごとく殺風景な密室が、突然侵入してきた二人の熱に掻き回されて生々しい時を刻み始める。 息苦しいネクタイを引き抜いて、乱雑に床の上に落とす。 はっと息をひそめたマヤに顔を向けてみると、シーツと枕の間に半分顔を埋もれさせながらそれでもじっとこちらを見つめている。 指で前髪を掻き分け、汗ばんだ額に手のひらをあててみる。 きらきらと輝く瞳の中に、自分の熱を帯びた顔が映りこんでいるのがよく見えた。 「もっとこっちに来れば」 「――でも、あたし今、すごく汗臭い気が……」 「別に気にならない」 「シャ、シャワー、とか、お借りしても」 「あとで」 問答無用で腰に腕を回され、引き寄せられる。 移動する僅かな時間でさえ、離れているのは苦痛だった。 初めてのキスの瞬間からわかってしまった事。 これほど身体の大きさも、質感も、何もかも違っているのに。 抱き合うとこれ以上ない程完璧な安心感に包まれる。 ぎこちなさや無理はどこにもない。 最初から、こうする為だけにあるような気さえする、この身体。 ”抱く”とか”寝る”って行為を、どうとらえているのか―― 昼間、真澄に問われた台詞がマヤの頭の中をリフレインする。 経験は勿論ない。 ないなりに、想像した。 自分の想いを、ありったけを、総て捧げる代わりに。 弱さも情けなさも、醜いところも全部曝け出さなければいけないんだろうと。 阿古夜はそうした想像力から生まれた。 舞台のクライマックス、一真の斧に打たれるマヤの演技を指して、ある評論家は「まるで初夜のその時、官能の悦びに身を震わせるような儚さ」と表現した。 経験がないのにそう捉えてもらえるということは、役者としてはある程度自信を持ってもいいのかもしれない。 でも、観客がどう受け取ろうとも、実際の自分はそんな悦びなど知らない。 そうなってもいいと、全てを捧げ傷ついても構わないと想う人は、決して結ばれることなどあり得ない人だったから。 だから、知らなくても全然平気だった。 舞台の上で、阿古夜として感じるだけでよかった。 ――でも、現実の北島マヤの心はどんどん疲弊していったのだ。 阿古夜を演じれば演じる程に。 その魅力が深みを増し、観客の陶酔の渦が大きくなればなるごとに。 心の半分は固く凍ってひび割れていった。 そうでもしなければ、真澄に向かってあてもなく奔流する想いを封印することはできなかった。 だけど半身を求めて痛い程脈打つ、もう半分の心は。 その彼がひとつ、奇跡のキスを落としただけで力を増し、鮮やかに蘇る。 直感は間違ってなかった、生きるも死ぬも、あたしの心は速水さん次第だった。 抱きしめていただけの腕が、ゆっくりと動き始める。 ブラウスの裾からおずおずと差し込まれた指の温度に、マヤの身体は僅かに強張った。 ――大丈夫。 そう、声に出したわけではない。 が、確かにそう言った真澄の心を感じて、マヤは頷くように自分の額をその胸に押し付けた。 「煙草――ちょっとは控えた方がいいんじゃないですか」 「何だ、健康でも気遣ってくれてるのか」 「そうですよ」 長い指が背中をすっと撫ぜてゆく。 背骨の列を数えるようにして、首筋まで辿り着くと再びゆっくりと腰まで降りてゆく。 そうやって飽きることなく繰り替えされる愛撫の狭間に、ブラウスのボタンが次々に弾かれてゆく。 マヤも強張った指を何とか動かしながら、真澄のシャツのボタンを外していった。 現れた互いの素肌の匂いに、艶めきに、一瞬息を呑む。 マヤはそのまま視線を上げることができない。 ふいに真澄の上半身が覆いかぶさってきたので、思わず目を閉じてしまった。 真澄は顔を傾け、マヤの胸の真ん中を舐めあげた。 仄かに潮の香り――と、汗の味がする。 軽く甘噛みしてみると果実のような抵抗とともに、そのまま引き千切ってしまいたくなるような衝動にかられた。 「緊張してるのか?」 「あ、当たり前じゃないですかっ……速水さんとは違うんです。 ――息が、止まりそうです、心臓が……バクバクして」 「そうか。気が合うな」 「え?」 「ほら」 大きく開かれたシャツの向こう側に全く眼をやれなかったマヤだったが、真澄に手を取られて思わず見つめてしまう。 均整のとれた骨格に、これまた見事に引き締まった筋肉の筋――全くこの男ときたら、どこまで完璧に出来上がっているのかと、女ながら妙に嫉妬してしまう程美しい――その肌の上に小さな自分の掌が重ねられる。 自分と同じように熱く、汗ばみ、そして跳ね上がりそうな程、ドクドクと脈打っているのがわかる。 「は、速水さんでも――ドキドキとか、するんですか」 「こんな時まで冷血扱いするな」 言葉だけは淡々としながら、でもその動きは常の余裕などまるでなく。 ブラウスは不器用に肩から引き剥がされ、上半身は下着だけの姿で真澄と密着する。 「そ、そうですね――ごめんなさい。 ……ちょっと、安心しました」 「抱くのも抱かれるのも命がけなんだぞ。 全部捧げる代わりに、情けないとこも醜いとこも曝け出さなきゃいけない―― その覚悟があるんだろうな、君は」 再び息が詰まりそうになる。 「あたしと、す、るだけで――そんな風に思ってくれるんですか? それともこういう事する時は――速水さん、誰にでもそんな風に優しいんですか?」 「――何を誤解してる」 真澄の腕がベッドの脇に伸び、部屋の電気が落とされた。 サイドテーブルから延びたオレンジ色の光が、闇の中に淡く二人の肌を浮かび上がらせる。 真澄は自分のシャツを脱ぎ捨て、真っ直ぐマヤと向き合った。 「俺は君とするから、こんなに緊張してる。 誰にでもって言うが、そんな女は存在しない。 死にかけてるのは俺も同じ。 君を抱かないと生きていけないのは一緒だよ、マヤ」 「……」 「別に信じなくていいけど」 「……しん、じられない」 「だから、いいって」 言葉が煩わしい。 信じられないなら、さっさと触れて理解すればいい。 ひくひくと動く柔らかな唇の中に、思いの丈を全て注ぎ込む。 それから、彼女の全てを貪るように吸い上げた。 両手で腰を包み込み、平らかな腹の上を滑って、白い胸を掬い上げる。 そのまま五指を食い込ませ、存分に感触を味わった。 華奢な骨格は少女の頃のままに、薄かった肉は円やかで滴るような湿り気を帯びている。 よく知っていたはずの小さいマヤが、生まれたての女のマヤとして初めて立ち現れる。 自分の身体をこんな風に取り扱う――包み込み、舐めて、噛んで、擦り上げ、撫で上げ、押し潰すように握りしめ、抱きしめる――真澄の身体に、マヤは陶酔する。 綺麗だと思う。 とても綺麗な身体。 確かに男性そのものの強靭さの中に、透き通るような繊細さが宿っている。 女としての本能的な怯えさえ、熱情の奥で不思議な色を映し出す水面の静けさを湛えたような真澄の身体を前にすると、みるみるかき消えてしまいそうになる。 そんな風に切なく眉を寄せたりしないで。 長い睫毛を伏せてあたしを見つめないで。 次々に飛び出す魔法のような言葉に、頭が、心が、ついていかない。 頭の悪いあたしの脳みそには、ろくな言葉がこれっぽっちも浮かばなくて。 この想いを表す言葉なんか全然なくて、代わりにあなたを抱こうとする身体さえ臆病で不器用で思うように動かないのに―― 頭の中に次々と浮かんでは消える、様々な想いの断片に漂いながら、マヤは泣く。 その涙の意味を理解したいのか、したくないのか。 僅かな戸惑いを抱えながら、真澄も陶酔の渦の中に巻き込まれてゆく。
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