第6話




本作品には以下の傾向を含みます。

暴力/流血/マス×マヤ以外のCP

病院から急ぎ帰宅した真澄を出迎えた朝倉は、マヤの捜索に然程の進展も見られない事を真澄の口から聞かされると、彼には珍しく落胆の表情を浮かべた。 普段取り乱すという事のない彼の今朝の慌てぶりを見た時、それ以上に動揺していたはずの自分がようやく我を取り戻したのを思い返し、真澄は苦笑しながら続けた。 「まだ一日だ、進展も何も情報が少なすぎる。  案外平気な顔でひょっこり戻ってくるかもしれんぞ。  忘れたのか?あの娘はいつかこの屋敷から小猿みたいに逃走した事だってあっただろ」 自分自身へ言い聞かせるような言葉だが、病院で喜代子から聞かされた内容―― そして逃げた家政婦の事を考えるだけでも、事がそう軽くない事は明らかである。 が、焦燥感を表情に表すことだけはしたくなかった。 特に、あの男の前――義父の前では。 「只今戻りました」 応接間の扉を開けると、窓に向かって何事か考え込んでいる様子の英介の背中が見えた。 真澄が室内に入り、扉を閉めても振り返るでもなく、車椅子の肘かけにもたれたまま視線は目の前の鈍色に枯れた庭園を眺めている。 この頃の彼はかつての近寄り難い威圧感がやや薄れ、ともすると気配を感じ取れない程静かに佇んでいる事が多い。 マヤの、傍からみれば無謀とも思える程の無邪気な語りかけを鬱陶しそうにあしらいながら、それでもそれを嫌がっているわけではない事は家人の誰しもが理解していた。 だからといって完全に隠居した老人然とした穏やかさを湛えているのかといえば、そうでもない。 静かな中にも何を考えているのかわからない、得体の知れない雰囲気は相変わらずだ、と真澄は心持ち笑みを浮かべながら胸元から取り出した煙草に火を点けた。 やはり、この人はこうでなければならない――と。 「招待とは、何ですか?」 「そこにある、見てみるがいい」 部屋の中央に設えられたマガホニーのテーブルの上に、一通の封筒が置かれている。 封の開かれたそれを手に取り中身を抜き出すと、上質な紙の手触りと共に一枚のカードが出てきた。 中には流麗な中国語で以下のような文面が記されていた。 突然のお手紙失礼致します。 かねてより噂に伝え聞いていた『紅天女』に一目逢いたいとの思いを募らせておりましたが、この度ようやく来日の機を得ることが出来ました。 つきましては是非とも舞台を降りた阿古夜と、現存する一真にお目にかかりたく、ご無礼を承知でこのようなお手紙を差し上げます事をお許し下さい。 明日19時より、別紙にて示しました会場にてごく内輪だけのパーティーを開催致します。 是非奥様をお連れの上、おいで下さい。                     紫桂桃有限公司 董事 李照青 紫桂桃有限公司、という名には勿論覚えがあった。 北京に本社を置く大手不動産開発業者であり、中国本土で富裕層向け集合住宅やホテル、病院、テーマパークを始め大型公共施設も開発する東アジア屈指の複合企業だ。 大都ともビジネス上の関係は深い――が、その董事、つまり代表取締役が日本の一芸能人、それも『紅天女』の北島マヤのファンである、というのは意外な事だった。 「李照青――そういう名前でしたか?確かあそこの会長は……」 「李照洪、彼の祖父だ。紫桂桃の母体が台湾マフィアの青道幇にある事はお前も知っての通りだが――  その孫に幇主の座を譲った、という話は儂も聞いていない……それどころか」 「ああ……思い出しました。三年前でしたか、彼の叔父が次期幇主の最有力候補にのし上がりましたね――祖父の寵愛を一身に受けていた孫を差し置いて。  詳しい事情は知りませんが、孫の方が祖父の激怒を招いたとか――」 瞬く間に真澄の脳裏には様々な情報の断片が集まってきたが、どうしてもその手紙の送り主である李照青の顔は浮かんでこなかった。 英介が車椅子を反転させる音を耳にし、手紙から視線を上げる。 「連中の勢力図は一夜のうちに覆るからな――公に知らされていないだけで、案外、再び孫が次期幇主の座を仕留めたのかもしれん。  となれば、こちらの裏社会も穏やかではいられまい……何か騒動が起こりそうだな」 「マフィア間の騒動には興味がありませんが、マヤが巻き込まれる事だけは阻止しなければ――明日といわず、今すぐ手を打ちましょう」 「それは勿論だ――が、この誘いには乗るべきだと思うが」 「そうでしょうね……」 もしこの李照青が黒幕ならば、マヤを伴って来い、といいながら誘拐するその意図は何なのだろうか。 何ヶ月も前から邸内に部下を配しておく準備の良さといい、手際のよい誘拐劇といい、偶然や気紛れの類とも思えない。 マヤが『紅天女』を継承してから三年が経つ。 年々その観客動員数は膨れ上がり、社会現象を巻き起こす程のブームになっていた。 とはいえ、流石に海外での知名度が絶大という訳ではまだない。 マヤのキャリアも『紅天女』と共にまだまだこれから、成長過程にあるのだ。 昨年行われた全国主要都市公演でようやくドキュメンタリー番組こそ公開されたが、日本国内の舞台を観ない限り、ここまで阿古夜に心酔する人物、それも外国人がいるとも考えにくい。 何らかの手段で李は『紅天女』を観た、そしてその美しさと神秘性に魅せられ、現実と幻の境界を見極めることが出来ずに―― マヤを誘拐した、と考えるのが最も妥当な気がする。 「やはりあの芝居には――人を狂わせる何かがあるのかもしれないな」 心の内を呟かれた様な気がして、真澄ははっと顔を上げた。 英介は無表情のまま、再び窓の外に顔を傾けている。 英介も、そして真澄自身も、『紅天女』により人生を変えられたといって過言ではない。 それが不幸であったのか幸福であったのか―― 美しい梅の木の精霊を得る為だけに全てを捧げ、果てはその愛する精霊自身を枯らし尽くしてしまった男に問う事はできなかった。 奇跡的にマヤと結ばれる事の出来た自分ではあるが―― 彼女を完全に得た、などと未だ思えぬばかりか、こうして見失ってばかりいる。 演じれば演じる程に、『紅天女』は人を引き寄せ、惹きつけ、時に狂わせる。 月影はその運命に立ち向かい強く生き抜いたが、決して幸福とは言い難い人生だった。 そしてマヤは―― 「義父さん、マヤは……妊娠しています」 「……」 手紙を封に戻しながら、真澄は静かに呟いた。 「あなたや僕、そしてマヤも。 『紅天女』の軛から解き放たれるべきでしょうね――新しい命の誕生と共に。  それを守る為なら何だってできますよ」 応接間を出て間を置かず、聖から連絡が入った。 逃げた家政婦を東京郊外で捉えたが、容易に口を割らないらしい。 仮に何か聞き出せたところで末端の駒にすぎないのは明白だが、やらないよりはマシだ。 が、それよりも李照青の日本での足取りを調査するのが先であろう、とその指示を出した。 手紙に記されていたパーティー会場は六本木の高級クラブ・ムーン・ライト。 世界的にも名の通ったセレブリティや表に名は出ないものの財界・政界、そして裏社会で高名な人物たちが集う場としてその筋で知らぬ者はいない。 そしてそのクラブの影のオーナーこそが、青道幇の幇主、通称「白狼」。 その姿を直に見たことがある者はごく限られているが、その数少ない人物の一人が英介だった。 戦中、南方の戦線にて英介と同じ部隊に所属していたのが、当時日本の植民統治下にあった台湾から召集されていた李照洪―― 戦後、英介が裸一貫から大都を興したのと同じように、李も台北と歌舞伎町を股にかけて一大マフィア組織を創り上げたのである。 「表のオーナーは青道幇のせいぜい幹部程度にしか顔が通っていないだろう、会うだけ無駄だ。それよりもこの男を訪ねてみろ」 そういって英介が示した人物の名は郭成貴。 例のクラブのオーナー代理として日本で長く生活する男だという。 資料に写った粒子の荒い写真に写っているのは、骨の太い、目つきの鋭い四〇代前半とみられる男だった。 屋敷を出て再び大都に戻り、二,三の用事と手配を済ませた後。 聖を除く数名の“裏方”を招集して準備を整えると、真澄は郭の元へと向かった。 急にも関わらず、郭へのアポイントは案外簡単に取り付けることができた。 マヤの誘拐に一味で関わっているなら、こちらの意図は当然知っての上だろうが。 場所は明日に指定されたクラブではなく、中央テレビ本社。 城崎成貴、という日本名で彼はその幹部を務めている。 勿論、真澄とも何度か面識のある人物だった―― 何せ彼は鷹宮の一族、紫織の従弟と婚姻関係にあるのだ。 紫織との婚約時代、仕事絡みの親族会議でも何度か顔を合わせ、軽い会話を交わした事もある。 その人物が裏社会と繋がりがあったとは、さしもの真澄も今の今まで全く知ることがなかった―― 引退を表明したとはいえ、英介の情報網と影響力は未だ絶大なのだと、こういう時こそ思い知らされる。

中央テレビには仕事上、何度となく訪れている真澄であった。 その日の夕方も、水城の運転する車から降り立つ彼の長身を見て、彼を知る誰もが“仕事”の上での訪問である事を疑わなかったし、数か月前の所属女優との結婚の話題は未だに尾を引いていたからそれなりの注目も集めた位だ。 が、その訪問の意図が当の本人の妻の誘拐にある――という事等、勿論誰も知る由もない。 既に受付に待ち構えていた女性秘書に直接案内されながら、最上階の応接室へと向かう。 不審がり、絶対についてゆくと言って譲らなかった水城に渋々状況を説明し、万が一の為に車内で待機しているように――と言い含めての事だった。 危ない橋を渡るのは何も初めてな訳でもないし、それなりに修羅場を潜ってここまで生き延びてきている。 が、これ程緊張する訪問もなかっただろう――と、高速で登り詰めてゆくエレベーターの中でふと考えていた。 気づけば、僅かに掌に汗までかいている。 自分一人での事なら何だって平気で、むしろ何とも思わなかったのに。 こうしてマヤの安否を窺いながら行動する事の、何と心もとない事か。 自分以上にかけがえのない存在を手にした時、人は恐ろしく弱くなるのかもしれない。 何かを得れば、必ず何かを失うのだ――その中央でバランスを取るのは非常に難しい。 だが――やらねばならない、たとえ手持ちのカードが如何に脆弱であったとしても。 脆弱であることを見抜かれぬよう、時にはハッタリも必要だ。 ようやく辿りついたその扉は、まるで黒い要塞のようだった。 中にいるのは「白狼」ではなく、その代理人に過ぎないというのに。 ここからマヤに繋がる何かを得ることができるか否かは―― 全て自分の舌先三寸と勘、そして紛れもなく運により左右されるはずだ。 「久しぶりだな、真澄君。ああ――もう従妹との婚約は解消、どころか別の方と結婚したのだから……  名前で馴れ馴れしく呼ぶのも失礼というものだったな」 成貴は背の高い男で、真澄と並んでも然程目線を変えることなく握手する事が出来る男だった。 口当たりは柔らかく物腰もキビキビと小気味よいが、時折り垣間見せる目つきの異様な鋭さが以前から気になってはいた。 骨太でどこもかしこもゴツゴツと剛直そうなのに、触れた掌だけ妙に柔らかいのがやや薄気味悪いといえば悪い。 「とんでもありません。僕の方こそ、その節は鷹宮の皆さんに多大なご迷惑をおかけしましたから――  全て水に流して欲しいなどとは言いませんが、そう呼んで頂けるのは光栄ですよ」 「はは……従妹との事はまあ、正直いって残念としか言いようがなかった訳だが――  これでも君という男の価値は十分わかっているつもりだ。  水に流す訳にはいかないが、存分に利用させてもらおうという心積もりはあるよ。  兎も角、この度は結婚おめでとう」 皮肉とも本音とも取れない冗談で頬を綻ばせる、その眼は全く笑っていない。 とはいえ真澄の方もそれは似たり寄ったりだったから―― 二人とも、間に流れる妙な緊張感に気づいていないはずがなかった。 互いに簡単な近況報告とビジネス上の会話を取り交わしている間に、成貴の秘書がコーヒーを淹れたトレーを捧げてやって来る。 静寂の中にコーヒーの薫りだけが漂う中、最初に切り出したのは成貴の方だった。 「で――本題に移ろうか。君が義父上の立場を継がれてまだたった一日だが――  何やら急ぎの用件でもできたかな、こうして直接私の元にやって来るとは」 「ええ。義父に代わり、青道幇の新しい幇主へのご挨拶をしなければ――と思いましてね。  若輩者故、直接お目通りは叶わないでしょうから、あなたを介してご紹介頂ければ、と思い立った訳です」 いきなり本題を突いてみた効果は絶大で、瞬時に成貴の顔色が別人のように変貌した。 「……何を言っているのかわからないな――青道幇だって?」 「郭さん、僕は義父から全て事情を窺っています。大都と青道幇の付き合いは戦中から遡ると……  義父にとって「白狼」は盟友なのだと常々聞かされていましたからね。  だがそんな義父にさえ新幇主に継承された事をお伝えされなかったとは――大変残念がっておりましたよ。  もう数年来無沙汰が続いていたとはいえ、彼も水臭くなったものだと。  義父も年をとりましたから、こうした事ですぐに気難しくなってしまって参りますね」 「……真澄君、どうも話が読めないのだが――  いや、白を切ろうというのではなくてね。  新幇主がどうこう、というのは英介氏の言葉かね?」 どう対応すべきか、と一瞬素早く配慮した結果、裏の顔を認めた上で話を進めてやろうと決意したらしい郭成貴は、先程再び垣間見せた鬼のような形相を瞬く間に柔和に変え、苦笑さえ浮かべてみせた。 「いいえ……私宛に直接、新幇主からのご連絡が――もしやお聞き及びではない?」 「――差支えなければ、その名を窺いたいところだね」 「おかしな話ですね。あなたは青道幇の、東京における白狼代理と称される方ではないですか? そのあなたが新幇主の名前を知らない、というのはどういう事でしょうね」 「ゴチャゴチャと人をおちょくるのもいい加減にしてもらいたい。  一芸能社社長の分際で私を謀にかけるつもりか?  言いたい事があるならさっさと吐くがいい」 唐突に口調を変えたと同時に、今までの紳士然としていた化けの皮が一気に剥がれ落ちる。 ここまで穏やかに微笑みながら顎の下で手を組んでいた成貴だったが、フッと目つきが変わり、声に脅しと凄みが加わった。 無骨な身体がまるで凶器のように身構えられ、研ぎ澄まされた牙が真澄に向けられたのが瞬時にわかる。 仮にも鷹宮の一族と婚姻関係を結んだ程なのだから、それなりの名士でなければその立場は務まらない訳で、今までの彼は見事にその仮面をかぶってきたのだとわかる様な変貌ぶりだった。 が――その威嚇する態度が逆に真澄を落ち着かせた。 それも計算の内、なのかもしれないが、こうして明らさまな暴力を匂わせるような輩に本当の意味で危険な人間はいない、と、経験上真澄は嫌と言う程知っている。 郭成貴は決して小物というわけではないが、こちらが威圧負けしなければ何らかの尻尾は掴めそうだと踏んだ。 そこでますます高飛車な態度に徹する事にする。 「謀とは何の事です?そちらに何か思惑でもおありですか?  私はただ新しい白狼に礼を尽くしたいと申し上げているだけですが。  あなたがご存知ない、というならご存知ないのでしょう――  致し方ありませんね、あちらからご連絡があったからにはいずれご挨拶差し上げる機会もあるでしょうから、その時にまた改めて」 わざとらしく足を組み替え、ゆったりと喋っている間に郭の顔色は面白いように変化した。 怒りに屈辱、疑い――そして最後に僅かな不安を浮かべた。 成程、青道幇の次期幇主をめぐる内部抗争は何も李照青の叔父の独り勝ち、という訳ではないようだ。 「お忙しい所、お時間を取らせまして申し訳ありませんでした。  いずれまたこの件とは別件でお会いする事になるでしょうが――」 と、腰を上げながらふと目線を上げた真澄の眼に入ったのは―― こちらを般若の形相で睨み付け、ぶるぶると五指を戦慄かせる郭成貴の赤黒い顔だった。 一瞬、何かの発作でも起こったか――と声をかけそうになったその時。 ガハッ、と咳き込むような音を立てて、その口から仰々しく血が飛び散った。 血は点々と成貴と真澄の間に横たわるテーブルの上に飛び散り、そのうち一粒は真澄の手の甲にまで飛んできた。 スローモーションのようなその一瞬に、反射的に自分の掌を見つめた、直後。 ガタン、と音を立てて、郭成貴の大きな体はテーブルと床の間に転がった。 真澄が一口も口を付けなかったコーヒーのカップ。 成貴が手にしていたそれが、衝撃で床に転がり落ち、粉々に砕け散る。 「全く――新幇主の名前も知らないで、何が白狼代理なんだか……  笑わせてくれるじゃないですか、ねえ?」 それはやや訛りの強い北京語で発せられた為、さしもの真澄もその内容を知る事はできなかった。 が、背後のドアから姿を覗かせた、先程自分を案内した「女性秘書」が、よく見れば女性というにはやや体格の良すぎる事―― それでも細身で美しい顔立ちをした青年である、という事くらいは理解できた。 ああ、コーヒーはやはり水城が淹れたものに限るし――彼女を下に置いてきて大正解だ、と。 まだ生々しくこびり付いた手の甲の血痕を眺めながら、他人事のように真澄はそう思った。 web拍手 by FC2

last updated/11/23/

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