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last updated/10/10/11
可愛らしいもの。 例えば瑞々しい頬の幼児を前にした時などに、人は「食べてしまいたいほど可愛い」と言うらしい。 だが、そんな慣用句を使う場面にめぐり逢うことはこの三十数年の人生において皆無だった。 あまりの愛しさに、咀嚼して、飲み込んで、肉体の一部にしてしまいたいと願うなど。 そんな強い感情は持ち合わせていないはずだったのだ──7年前、彼女に出会うまでは。 初めて彼女に出会った時。 彼女はほんの少女で──それも、同世代の少女達の中においてもとびきり幼く、小さく、そしてそう、可愛らしかった。 何かを夢見るように瞬く、黒い瞳。 くるくると生き物のように飛び跳ねる長い髪。 軽く触れただけで手折ってしまいそうな、華奢な骨組。 そういった、未成熟の、儚いものに心をときめかすような自分ではなかった。 ただし、彼女は普通の少女ではなかったのだ。 夢見る瞳は強い意志に燃えて輝き、どんな困難にも立ち向かうことを恐れなかった。 透き通るような薄い皮膚の下には、彼女に向き合った誰をも魅了する情熱の血が流れていたのだ。 その血が偶然、自分のシャツの胸に付いた時。 冷血漢と称される自分の胸に、僅かに暖かなものが過った。 思えば、あの瞬間から自分は捕らわれてしまったのだ。 ──そして月日は流れ。 少女はいつの間にか大人になってしまった。 ずっと見守っていたはずなのに、どうしてすぐに気づくことができなかったのだろう。 華奢な骨組みはそのままに、薄い肉は魅惑的な曲線を奏で、胸元は円やかに膨らんで。 子供らしい爽やかな汗の匂いの中に、甘酸っぱく雄を引き寄せる香りをはらんでいる。 艶やかな黒髪は誘うように揺れ、夢見がちだった瞳には憂いの影が差していた。 そしてその空恐ろしい程の才能は。情熱は。 時を重ねてますます熱く、強く、圧倒的な光を放ち輝くのだ。 その光にうっかり触れてしまったら──そのまま安寧とした人生を送ることなどできるはずがない。 危険。 彼女は危険──決して食べてはいけない毒の果実なのだと。 そう意識しなければ、俺はすぐ俺を忘れてしまいそうになる。 紫の薔薇で距離を図らなければ、すぐにでも彼女を捕まえて、噛み潰して、食べてしまいたくなる。 可愛い。 彼女のことが可愛くて仕方ない。 ・・・・・・でも、そんなことは許されないこと。 だからずっと気持ちを押し殺して、望まない結婚さえも覚悟して、息も絶え絶えといった体でなんとか狂った感情をやり過ごしてここまで来たのだ。 ──食べないかわりに、たっぷりと彼女を傷つけて。 * * * 「あ・・・・・・」 ほら、また。 そんな蠱惑的な声を出すから、俺は余計に歯に力を入れてしまう。 カニバリストの気持ちをほんの少しだけ理解してしまいそうになるのは、こんな時だ。 強く噛んだそこからじんわりと鉄の味が広がる。 ああ、彼女は女優だというのに。 その美しい身体に傷がつくなど、本来の自分は絶対に許すはずがないのに。 激しい後悔に襲われながら、それでも俺は陶酔に身を委ねつつ傷口に舌を這わせる。 酒など飲んではいない、酔っているのは彼女の持つ甘美な毒。 あまりにも長い間耐えていた反動で、今の俺の精神はかなりアンバランスな状態にある。 どう愛すれば彼女が安心し、互いに心地良い関係でいられるのかと、考える余裕がない程。 「いたいです、速水さん──」 「ああ、痛そうだ・・・・・・」 これでも理性は働かせているつもりなのだ。 人目につく部分を避け、鎖骨と肩の付け根の薄い部分に歯を立てる程には。 「だが、昔の君よりはマシだと思うぞ」 「え?」 「狼少女には手に思いっきりやられた。 それに比べれば可愛いものだ、この位」 「う・・・・・・もう」 そんな昔のこと言われても、とごにょごにょ口の中で呟くのを唇で塞いでしまう。 柔らかなベッドとシーツの中に肩まで沈んで、完全に自分の腕の中に収まった彼女。 キスを深めたい欲望と、そんな彼女をよく観察したい欲望とに引き裂かれて、今回は後者が勝った。 顔を離して、真っ赤に染まった頬を包み込みながら、じっと見つめる。 吸われて赤くなった唇がほっと息を漏らす。 困惑と恥じらいに濡れた瞳が、おずおずと俺の目を見つめ返す。 可愛い──食べてしまいたい。 と、心の中に留めておくべき言葉が遂に零れてしまったらしく、マヤは目を見開いた。 「何だ」 「な、なんかびっくりして。速水さんの台詞じゃないみたいで」 「俺らしい台詞って?」 「今のカワイイって言い方、何だか女の子みたいでしたよ」 さっきまで恥じらっていたくせに、ふいに悪戯っぽく微笑む。 それをすぐにでも艶っぽくしたい衝動を抑えて、俺はその無邪気をもっと引きずりだしてやろうと画策する。 彼女の真似をして、不満そうに頬を膨らませてやるのだ。 「あ、ほらほら!そうやってるのも、何だか子供みたい! 速水さんいつもあたしのことお子様扱いするけど、人のこと言えませんよ!」 クスクス笑って俺の頬を指で摘む。 黙っていたら、調子に乗って引き伸ばして遊び始めた。 人の顔を見て爆笑するとは、色気のない子だ。 お返しにこっちも柔らかな肉を摘みあげてやった。 ただし、顔ではなく、俺の身体の下に隠れた脇腹だ。 一瞬ビクリと震えた彼女だが、俺の悪戯めかした表情に安心したように笑った。 「なんだ、この肉は。ちゃんと体調管理してるのか?」 「もう!!・・・・・・でも、やっぱり気になりますか?もう少し落とした方がいいですか?」 「馬鹿、違う。痩せすぎだと言ってるんだ。 公演中に食欲がなくなる気持ちもわかるが、倒れたら元も子もないだろう」 元々ほっそりとした彼女だが、久しぶりにこの手で抱いてみてその変化に気づかない俺ではない。 明らかに彼女は公演前より1、2キロは痩せている。 痩せるとさらに少女の頃の面影が強くなり、抱きながらふと罪悪感に似た気持ちが過ってしまったのは事実だ。 まるであの頃の彼女を嬲っているような──きっと心の奥底でそれを願っていたのも事実だっただろうが。 「骨と皮の女優なんか、誰もみたいとは思わないぞ」 「ご免なさい・・・・・・」 マヤは急にしょぼんと勢いをなくした。 何を考えているのか、今の俺には手に取るようにわかる。 それこそ可愛らしい、根拠のない嫉妬だ。 彼女の細やかな劣等感は、紅天女を手にした今も根気よく彼女に纏わり付き、自信を失わせるらしい。 「──セルジュ・ゲンスブールという歌手を知っているか?」 「いいえ?」 「君が生まれる前に亡くなってる、フランスのアーティストだ。 自分の恋人とかなり際どい歌を出して放送禁止になったり、フランス国歌の著作権を買い取ったり。 多くの伝説を残す男だが、数多い彼の恋人達の中でも最も有名なのが女優のジェーン・バーキン。 現在も活躍する女優、シャルロット・ゲンスブールの母親だ」 「それが──?」 「映画の撮影で出会った頃の二人の印象は最悪だったらしい。ジェーンの方が先に一目惚れした・・・・・・ってのが定説だが、俺は疑ってる。イギリス生まれのジェーンは出会った当初フランス語がほとんど喋れなかったしな。 だが、撮影が進むにつれて彼はどんどんジェーンに惹かれてゆく。彼が撮った彼女の作品、機会があったら観るといい」 セルジュのそれまでの恋人たち、有名どころではセクシー女優として名高いブリジット・バルドーなどと比べると、ジェーンは明らかに対照的だった。 モデル出身のこともあり、すらりとした長身にしっかりとした骨格、少年のように薄い胸。 「骨と皮の女優なんか誰も観ない、とは言ったが、『Je t'aime moi non plus 』なんかのジェーンはまさに骨と皮なんだ。 あばら骨の浮き出た、まるで鶏ガラみたいな、男の子みたいな身体。 髪も短くて、本当に少年のような彼女を、セルジュは作品の中で徹底的に描きこんだ。 惨めで醜いともとれるような描写にも関わらず、ジェーンの美しさが余すところなく表現されている──つまり、何が言いたいかというと」 俺は彼女の横に身体を横たえると、その華奢な左手首を取り上げた。 そのまま、自分の左手を側に寄せる。 「君が何と自分を比較して自信を失くすのか、それは自由だが。 セルジュにとってジェーンが最高の女であったように、俺にとってはマヤが最高の女。 この小さな手も、薄い肉も、ちょっぴり生意気な唇も」 「生意気って・・・・・・ひどい」 柔らかく握り締めると、拗ねたように身を捩って逃れようとする。 そのまま力をこめて抱き寄せると、精一杯の想いをこめて囁いた。 「俺は役者でもないし、演出家でもない。舞台の上で君を輝かせることは俺にはできない。 だが、素顔の君の美しさを知っているのは俺だけだ。誰にも見せたくない、俺だけのものだ」 マヤは首を竦めて俺の言葉を聞いていたが、やがてその身体から強張りが抜けていった。 それを感じとり、うなじの髪の毛を掻き上げて口付けた。 丸い額から伸びた柔らかな曲線。 つんと尖った小さな鼻の下に、薄い花びらのような唇。 僅かに閉じた瞼がぴくぴくと動いている。 セルジュの愛を一身に受けて、ジェーンは彼女にしか表現できない美を開花させた。 やがて彼の元を離れて新しい世界に飛び立っても、その輝きを失うことはなく。 彼が彼女のために作った歌を、今も彼女は歌い続けている。 だが自分がマヤを手放すことなど、到底できないだろう。 自分の強すぎる想いが彼女を潰してしまうのではないかと、恐れることさえある。 それでも彼女が光り輝く姿を観るのは誰よりも嬉しい──だから、危ういところで彼女を食べてしまいたい衝動を抑えていられるのだ。 女優として最高の彼女を、世界中に見せつけたいと思う自分と。 このまま腕の中に閉じ込めて、誰にも触れさせたくない自分と。 どちらが彼女にとって最も幸せなことなのか──聞いてみたら、何と答えるだろうか。 ・・・・・怖がられるかも、な。 思わず苦笑したら、マヤが不思議そうに振り返った。 そして、何とも可愛らしい微笑みを浮かべたのだ──俺の邪さが怯んでしまう程に、無邪気な。 「ありがとう、速水さん」 そして、常の彼女からは極めて珍しく、自分から俺の首に腕を回してきた。 「怒らないでね──時々、不安になるの。自信がないのもそうだけど・・・・・・こんなに幸せで、いいのかなって。本当なのかなって思っちゃう、速水さんがこんなに近くにいるってこと」 彼女の唇が俺の鎖骨のすぐ下にある。 際どいところで俺は溜息を堪え、彼女に囁く。 「じゃあ、君も食べたらいい──本当だと、嫌でもわかるように」 一瞬の間の後、小さな痛みが走り、俺は思わずマヤの頭を強く掻き抱く。 「もっとだ──」 彼女の小さな歯が、俺を噛み締めている。 痛みと同等のゾクゾクするような快感に、意識が完全に吹き飛びそうになる。 無意識に零れた喘ぎとも呻きともつかぬ声に、マヤはハッと唇を離した。 俺は頭を仰け反らせながら目を瞑り、彼女の髪を撫でた。 「その程度でいいのか?」 マヤはゆるゆると自分で付けた傷口の周囲を指でなぞっている。 その小さな胸を過る可愛らしい不安も嫉妬も、ただ俺を切なく喜ばせるだけのものだと。 君はこんなにも俺を捉えて狂わせているのだと、少しくらい理解すればいいのだ。 君の知っている速水真澄など、ほんの一部にしか過ぎないのだと。 その腕で抱きしめて、指で押し開いて、遠慮呵責なく侵入して、理解すべきなのだ。 ──その想いが通じたのか、ふとマヤの指の動きが止まった。 代わりに、より強い痛みが皮膚を裂き、舌がそれを貪る感覚が伝わる。 俺の知っている北島マヤも、まだまだほんの一部に過ぎないのだと。 望んでいた感覚に耐えながら、俺は歓喜に身を捩る。 マヤの指が俺の身体をゆっくりと撫で擦る。 皮膚の感触、筋肉の僅かな動き、関節の動きを確かめるように、執拗に。 俺はそんなマヤの腰に軽く腕を預けたまま、身を委ねる。 マヤの舌が傷口を離れ、喉を辿って唇のすぐ下までやってきた。 擦り合わせられた所から広がる熱は瞬く間に脳の奥を甘く揺さぶる。 ──可愛い 掠れたような囁きが聞こえる。 ──食べたい、あたしも ──ああ、食べてくれ 夢中で応え、彼女の唇の中に溺れてゆく。 そして俺たちは必死で互いを可愛がった。 そのほんの一瞬の中で、何度となく殺し合い、甦る。 その度に、新しい孤独が二人に襲いかかる。 だからまた腕を伸ばす。 肌を重ねる。 弾けた情欲に吐息をかけて火を点ける。 可愛い、可愛い、なんて可愛らしい。 息苦しい程の想いを、微睡みが穏やかにしてくれるのに感謝しながら。 俺はそっとマヤの胸の中で目を閉じた。 情欲と食欲は、互いにとてもよく似ている──と、途切れる意識の下でそう思った。 END.
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