last updated/10/10/23
見慣れたアパートの壁に車を横付けして二分とたたない内に、タンタンと小さな足音が近づいてくるのを耳にして、速水真澄は思わず微笑を浮かべそうになり――慌てて打ち消した。 彼女の前では、いつも以上に得意のポーカーフェイス、冷徹、ビジネスライク、何でもいいから取り繕う必要があるのだ、今の所は。 気づいただけでも、向かいの電柱の影に一人、後ろに二人。 記者だか追っかけファンだか知らないが、風体のよくない男達がいるのはわかっている。 今は彼女の所属事務所社長として、スキャンダルの渦中にある彼女を厳重警備しなくてはならない。 玄関のガラス扉が開いて、言われたとおり帽子を目深に被った彼女が姿を現す。 助手席に腕を伸ばしてドアを開け、困惑する彼女の腕をやや乱暴に引っぱると、慌てて中に滑り込んできた。 ドアを閉めたことを確認して、車を急発進させる。 完全に連中を捲いたのを確認して、車はようやく目的のマンションへと移動し始めた。 「・・・・・・帽子、もういいんじゃないか」 「あ、はい」 息苦しいような沈黙がようやく破られたことに安堵して、マヤは帽子をとる。 くしゃくしゃの髪の毛がふわりと現れた瞬間、懐かしい彼女の匂いが仄かに漂ってきて、今度こそ速水真澄は満足な微笑を浮かべた。 「久しぶり」 「そ、そうですね、お久しぶりです」 「何だか大変なご様子で」 「・・・・・・所属事務所はノーコメント、なんじゃないですか」 「事務所はね。俺自身は言いたいことが山程ある」 「じゃあ先に謝っときます。ごめんなさい、すみません、もうしません、って言っても元々何もしてないんですけど、申し訳ありませんでした」 彼の前では、どうしても昔の悪い癖が治らない―― 自分でも呆れる程、子供じみた不細工な台詞を投げつけてしまうのだ。 信号待ちで車が止まった次の瞬間。 横から真澄の左手が伸びてきて、長い指先がマヤの小さな唇をつまんだ。 「生意気」 ぎゅっと引っ張られて、いた、とマヤが抗議しかけた時、今度はもっと心臓に悪い事がおこった。 真澄が上半身をこちらに傾けるなり、ちゅ、っと音を立てて、頬にキスしてきたのだ。 何をされたのか一瞬わからなくて、それから理解した途端、真っ赤になってしまったマヤを楽しそうに眺めながら、真澄は再び車を発進させる。 「・・・・・・でも、どうして彼なんだ?君の趣味はよくわからん」 「え?」 「この間は十八才年上の演出家、その前は三才年下のイケメン芸人、そして今度は元モデルか。 まああの芸人よりはマシかもな、見た目程女遊びは派手じゃないって噂だし」 「速水さん――それ、本気で言ってますか?」 「火のないところに煙は立たないっていうし。もう俺も火消役はうんざりだ。 『紅天女』のイメージを破壊するような付き合い方さえしなければ、誰が相手だろうと構わないだろうと水城君も言ってたし・・・・・・ああ、すまない、言い過ぎた」 堪えられなくなって、ボロボロと大粒の涙を零したマヤを見て、真澄は慌てて口をつぐんだ。 どうもこの所、彼女に対する態度や口のきき方が以前にもまして「意地悪」、いや、「性悪」なことに彼自身気づいているのだ。 その原因が自分の情けない感情に根ざしていることも重々承知だ。 自分の弱さと彼女への甘えが招いてしまう、どうしようもない悪循環――ようやく、積年のすれ違いを埋めて想いを伝え合ったはずなのに、どうしてこんなことになってしまうのか。 自己嫌悪に溜息をつきかけたが、泣いている彼女を放っておくわけにはいかないので、真澄は慰めのつもりでまた余計な一言を投げつけた。 それがまずかった。 「まあ、いろいろ騒がれるのは君のせいじゃない。 君自身が本当に嫌じゃないなら、全て受け入れて芸の肥やしにする位の覇気を持てって事だ」 もうすぐ目的のマンションに着く、というその時。 車が曲がり角で減速したのを見計らって、マヤは猛烈な勢いでシートベルトを外すなりドアを開けた。 慌てて急ブレーキを踏んだが間に合わず、マヤはあっという間に外に飛び出して――ガクン、と膝をついて転んでしまった。 「マヤ!!」 慌てて飛び出し、車体の反対側に回って彼女を助け起こそうとした。 途端に、派手な音をたてて真澄の頬に衝撃が走る。 地面に座り込んだままのマヤが思いっきりひっぱたいたのだ――右に一度、それからもう一度。 残念なことに二発目は不発で、顎の下を掠めただけだったけれども。 「最低・・・・・・」 マヤは久々に、身体の奥底からわく怒りを抑えることができなかった。 涙をいっぱいに浮かべて、心から、その言葉を吐き出した。 「大っ嫌い!!」 そしてもう一度、赤くなった頬を殴る。 息は絶え絶えで、心はめちゃくちゃで、膝からは血が出ているようだし、もう最悪の心持ちだった。 このままあっちへ行って、消えて。 私の側に寄らないで、二度とかき乱さないで。 言葉に出せない代わりに、必死で目で叫んだ。 ――が、真澄は冷たくその訴えを無視した。 そのままマヤを抱えあげると、運転席側から車内に彼女を放り込み、扉をロックをする。 車を進めてマンションの地下駐車場に留めると、再び彼女を荷物のように抱えて歩き出した。 暴れて拒否したかったが、転んだ膝がかなり痛くて、マヤは泣きじゃくったままその腕の中で悪態をつく。 「芸の肥やし?馬鹿じゃない」 「どっちが非常識よ」 「大っ嫌い、今まで一番嫌い、最悪」 真澄は一言も言わず、さんざ暴れる彼女を抱えたままエレベーターを昇り、社で貸しきっている23階のフロアに辿り着くと、ポケットの奥から真新しいキーを取り出した。 ドアを開けると、使われていない新しい部屋独特の、ツンとした匂いがした。 オートロックの閉まる音を背に、中に大股で進んでゆく。 廊下の右手に浴室とトイレのドアが並び、その奥が12帖程のワンルームになっている。 中は当然からっぽで、備え付けの家具だけが味気なく並んでいたが、正面に備え付けられた大きな窓から太陽の光がいっぱいに差し込む室内は隅々まで明るかった。 そっとソファの上にマヤを降ろす。 もう一度振り上げた手を止めて、マヤは息を詰まらせている。 真澄は床に長い足を折り、じっとマヤの顔を見つめていた。 いつかあった同じような情景。 「俺は謝り方を知らない」と、自分に全てを委ねたあの時と同じ眼。 そんな顔をするくらいなら、させるくらいなら、いっそ本当に、側にこないで欲しい――切なすぎて、苦しい。 力なく腕を降ろして、マヤは静かに涙を流した。 「ごめん」 真澄が低く囁いた。 「本当に、ごめん。許してくれ――ちょっと、いや、かなり、最低だった。自分でも思う」 「・・・・・・」 「久しぶりに君をみたから、舞い上がって頭がおかしくなってた。 単純に、嫉妬してたんだ。子供みたいに。」 そっと、涙に濡れた頬に指を沿わせる。 「会いたかった」 そう、ただそれだけでよかったのに。 会いたかった、寂しかったと、伝えるだけでよかったのに。 なぜいつも、お互いを傷つけあうような曖昧な会話しかできないんだろう。 真実を言うことを、どうして躊躇してしまうのだろう。 「会いたかった、マヤ」 「・・・・・・嘘」 「嘘じゃない」 「信じられない」 「どうしたら信じる?」 「もう一回殴らせて」 「いいよ」 そこで、遠慮なくもう一度、淑女の一撃を食らわせた。 返す手を柔らかく受け止めて、指先にそっと口付けする。 「触ってもいいか」 「もう触ってる癖に」 耐えられなくなって、そのまま両手でマヤの頬を包み込む――というよりつかまえると、真澄は勢いよくその唇に自分の唇を押し付けた。 何度も何度も重ねて、押し付けて、感触を味わって、それから舌でくぐり抜けて固い歯列をこじ開ける。 待ち望んでいた、幾度も夢見たこの瞬間。 深く深く、舌を差し伸べる。 拒むように逃げていた小さな舌がやがておずおずと絡み出し、互いに吸い付き、息を食らい尽くし、それでも足りなくて、角度を変えてより深く、貪るようにキスを交わす。 息が苦しくなって、ようやく唇を離す。 どちらのものかわからなくなった唾液が糸を引き、小さな顎にはりついたのを綺麗に舐めとる。 「速水さんは・・・・・・あたしの、何?」 おずおずと、マヤは呟く。 「何って?」 「キスしたり、意地悪したり、かと思ったらあたしを助けてくれたり。 あなたはあたしの何ですか?自分でもわからないんです」 「俺は――君の物だ」 「あたしの、もの?」 「そう、君の所有物。何をしてもいいもの。」 「叩いても、文句言ってもいいの?」 「勿論」 「会いたいとか、寂しいから行っちゃ嫌だとか、言ってもいいの?」 「当然」 「――好きって言っても?」 「言って」 「好き」 真澄は腕を回し、ぎゅっとマヤを抱きしめた。 怪我をした足に体重をかけないように気をつけながら、そっとソファの上に彼女を横たえる。 ずっと触りたかった艶やかな黒髪を撫でながら、耳元で囁いた。 「もっと言って」 「嫌。意地悪ばっかりするから。 何をしてもいいんだったら、命令する。速水さんが言って」 「――好きだ」 「もっと言うこと」 「好き、好き、好き。マヤが大好き」 頭の奥が、幸福で痺れるように痛い。 すき、という言葉がこんなにも、痛いくらいに心地良いなんて知らなかった。 声とともに伝わってくる、彼のしっかりとした存在。 自分を抱き寄せる強い腕が、スーツに被われた下の熱い身体が、仄かに漂う甘い香りが。 どれほど記憶に刻み込んでも、離れているうちに幻になってしまう切なさが嘘のように、今ここにある。 うれしくて、ちょっぴり恥ずかしくて、でもそれ以上に幸せで堪らなくて。 今まで会えなかったことや、彼との関係に名前をつけられないことへの哀しみ、諸々の感情は甘い幸せの中で泡のように解けてしまい、ただゆるゆると漂う心地良さにうっかり眠気を催してしまう。 「――おい、マヤ。本気で寝るつもりか」 「・・・・・・眠いの。久しぶりのお休みだし」 このまま真澄の胸の中に顔をうずめて、彼独特の匂いを嗅ぎながら眠ることができればどれほど気持ちいいだろう―― 「俺だってこのまま休みをとりたいところだが無理なんだぞ。自分だけ満喫するな」 「社長さんは忙しいんでしょ――いい気味」 うとうとと微睡みかけたマヤに、睡魔とは別の甘い感覚が伝わる。 それは鎖骨の下辺りから始まり、夢うつつの中で背中を這い回って腰の辺りに落ち、やがて太股の隙間からダイレクトに快感が突き抜けてきた。 「や・・・・・・っと、ちょっと速水さん、何してるんですか」 「どうぞそのまま寝てて下さい。俺は俺の好きにするから」 「眠れるわけな――あっ・・・・・・」 長い指先が、遠慮なく彼女のワンピースの下、下着の上からそっと刺激する。 それは柔らかな凹凸を確かめるようにしてゆっくりと中に潜り込もうと蠢き出す。 マヤは思わず膝をすり寄せようとして、怪我の痛みに眉を歪めた。 「ほら、動いたら痛いぞ。静かに寝てなさい」 「・・・・・・・」 眠気なんてとうにとんでいってしまっている。 でも痛いのは確かなので、ぎゅっと真澄のシャツに顔を寄せて、じっとした。 明るすぎる部屋の中から身を隠す手段といえば、真澄の大きな身体の中に閉じ籠もるしかない。 一旦止めた指を再び動かして、真澄はマヤをゆったりと愉しみ始めた。 掌で刷り込むようにして擦っていたのが、徐々に内部に侵入し、遂に下着の隙間から中へと、指の数を増やしながら進んでゆく。 硬直していた太股がだんだん我慢できなくなり、ぴくりと動こうとする度に、じっとしていろといわんばかりに真澄の膝が抑え込む。 ふいに割れ目の隙間に隠れていた小さな突起を親指で弾かれて、マヤは堪えきれない溜息と悲鳴をあげた。 「もう!眠らせる気ないでしょ!」 「当たり前だ」 ソファの上に身を起こして眉を釣り上げてみせるが、乱れたワンピースの上から真澄が艶然と微笑むのを見ると最早そんな抵抗が無駄なことを悟る。 ――そもそも、抵抗なんてできるはずもないのに。
last updated/10/10/23