全1話


錯覚だろうか、と眼を細めてみたら、そうではなかった。 確かに梅の花がぽろぽろと咲き始めているのだ。 …こんなに寒いのに。 …春は確かにやってくるんだな。 速水真澄は柄にもなくほっと微笑む。 そう、彼を知るものなら誰もがそう言うだろう。 柄にもない、速水真澄ともあろう者が、公園で。 柄にもない、やがて訪れる春に暫し頬を緩めて。 だけど指先だけじゃない、心の中は少し寒くて。 切なさを隠し通すには少し…疲れたので。 だからこうして、会社近くの公園でひとりボーっとしているなどと 一体誰が想像するだろうか? 寒い… 数日前から突然の大寒波だ。 寒いと感じる身体がある分まだマシなのかもしれない。 梅の花の香に気づいた自分が少しだけ愛しくさえ感じられる。 無感覚に陥ってる訳じゃない。 ボロボロだけど、心は確かに此処にある。 いまにも擦り切れてしまいそうな心を…ふと軽くする、この香。 梅の香の、 梅の谷の、 あの感覚…幻のような。 そうだ、この微かな香と同じように。 確かに其処にあるのに追えば消えてしまうような。 だから怖くて触れられない、確かに咲くまで見過ごせない。 それが、マヤ。 北島、マヤ。 俺の…好きな、女の名前。 マヤ、とここで口にしてしまってもいいのだろうか。 言葉というものは恐ろしいもので、 一度口にしてしまえば真実になってしまう。 好き、と千回言えば好きになる。 愛してる、と一回言えば囚われる。 その名を口にすれば欲しくなる。 その姿が、その声が、その…心が。 どうしようもない思慕の情は、 絡まりに絡まって最早自分でもどうしようもない。 持て余して結局空回り。 その煩わしささえ…今は、まだ大丈夫、微笑んでいられる。 よかった、まだ生きていられる… 「速水…さん?」 …おや、困ったことだ。 珍しく軽くなった心をかき乱すこの声は。 「うわ…やっぱりホントに速水さんだ!?」 さあ…どうする。 いつものように何気なく浮かべればいいのか、皮肉な笑みを。 別に意図した訳じゃない、それが普通になってしまったのだ。 笑うことさえ忘れていた俺なのだ、 薄く笑みを浮かべていられる、浮き立つ心を抑えながら。 それだってかなりの変化だろう? 何てことはないんだ、ただこの声を聞いただけで。 それだけでどうしてこんなに… 痛くて、幸せなんだろう…俺は。 「…速水さん…?」 戸惑いを隠すことなく、その声は俺の目の前で立ち止まったまま。 俺はゆっくりと顔を上げる…何も考えずに。 声を出したら、逃げてしまう。 口に出したら、消えてしまう。 この梅の香と同じ、マヤ、お前は同じなんだ―― だから何も言わない。 幻が見えるのならただ見つめているだけだ、 錯覚でないことを祈りながら。 「ど…どうしたんですか…?」 どうしたんだろうか。 自分でもよくわからないんだ。 お前が見たままを教えてくれ、マヤ。 ただ、いなくならないで、そこから。 何も言わないから…ただそこにいてくれないか? 「どうして…」 困惑して、今にも消え入りそうな。 そうだろうな、困るだけだよなあ… こんな俺が、お前の求める紫の薔薇の人だと知ったのなら。 おまけにお前のことを、もうずっと忘れられないでいる事など。 自分でも馬鹿馬鹿しいと思うよ。 もう子どもじゃないお前に向かって いつまでもチビちゃんだなどと呼び続けている事や、 何気なさを装って少しでも繋がっていたいと願う事も。 俺には俺の、 お前にはお前の道があって、それは決して交わらない。 それでもいいから、平行線でもいいから、ただ傍にいたい。 願うだけだ、俺は。 欲しいものは何でも手に入れてきたつもりだけど。 ことお前に関しては…願うことしかできないんだ、マヤ。 そんな想いを、 口にすることもなく、 ただ俺はマヤの輪郭だけを追う。 やがて輪郭はぼんやりと滲み出す。 幻が消えてゆく、ああ、いなくならないで。 俺はただただ見つめ続けた。 …マヤがか細く呟いた。 「どうして…ないて…るんですか…」 泣いて…? じゃあ涙なのか、この妙な感触は。 涙。 こんなものまで…まだ残っていたのか、俺の中には。 さっきほんの少し感じた自分への愛しさが、ふと蘇る。 そしてこの感覚を与えてくれる少女を心から愛している。 ああ、すまないな、もう少女じゃない。 キレイだな、マヤ。 冬枯れに皺くちゃな景色の中で、 お前だけやけに鮮やかに浮き上がって見える。 恋してしまった幻覚だと笑われるだろうか。 恋に落ちれば世界はお前の輪郭で切り取られてしまうんだろうか。 あまりに俺が何も言わないものだから、 とうとうマヤは困り果てて首を振った。 どうして、と口で問う代わりに。 私はどうしたらいい、と問うているようにも見える。 俺の…思い込みに過ぎないとしても。 だから俺も首を振ったのだった。 涙は…流れるままに顎の下まで落ちて消えた。 もっともっと、流し尽くしてしまえればいいのに。 マヤの前で、全てさらけ出してしまえればいい。 動かない、ぼやけた輪郭は、 少し躊躇した後に…ふと、俺の隣に座った。 梅の香が、確かに鼻先を掠めてゆくのを感じる。 マヤは何も言わない。 俺も何も言わない。 ただ、そのままに。 少し…永遠にも感じられる一瞬の後、 ふと隣の温かな空気が揺らぐ。 すっと、白い指先が揺らぐ。 その先にある、銀色の小さな包みに 俺は少し目を丸くする。 「あ、あげますよ、速水さんに」 何、と俺は目で尋ねる。 マヤは差し出した指先の行き場を求めて 宙に漂わせたまま…口ごもる。 「どうしてこんな処にいるのか…  で…どうして何も言ってくれないのか…わかんないですけど、  う…だから、あげます、これ、はいっ」 何だろう。 ボーっとしたまま、俺はその指先を見つめる。 たまりかねて、マヤが叫ぶ。 「チョコですチョコ!  スキかどうかわかんないですけど…  い、いらない?」 いけない、つい無意識にいつもの癖がでる。 一人で困惑して紅くなるこの子を見て笑う、癖。 切ない心がふとじんわり熱くなる。 何も言わないのに傍にいてくれることへの素直な感動と、 幸せを幸せだと感じていい、という俺自身の心のままに。 …もしかしたら、春はもうすぐそこに来ているのかもしれない。 …梅の花が、咲き始めたのだから。 だから柄にもなく、俺はそっと微笑んだ。 何もかもが愛しく感じられた。 そうしたら、するりと言葉が滑り出た。 「…スキだよ」 マヤが一瞬口を開けて止まる。 そう、その可愛い口が好き。 そこから零れる言葉が好き。 俺をキライだと叫ぶ声は…ちょっと、苦手だけれど、 まあ無いよりはいい、やはり好きだ。 その瞳が輝くのが好き、 好きなものを好きだと言い切るその切実さが好き。 芝居に賭ける情熱も、絶望も、ささやかなコンプレックスも、何もかも。 全てが愛しいと、口にしてしまっていいのだろうか、今ここで。 ああ、やはり駄目だ、俺はお前に関しては限りなく臆病だから。 だから…戯れに俺も口を開けてみたのだ。 もしかしたら奇跡は続いて、そこにお前が何かをくれはしないかと。 …そう、奇跡は続く。 幻ではなく、確かにそこに。 マヤは思い切ったように唇を引き結び、 その銀色の包みを掌で開いた。 破れたその下から、少し白っぽくなった茶色の塊、ほんの小さな一粒。 マヤの指先に摘まれたそれは、 次の瞬間俺の口の中に飛び込んできたのだ… 冷たく、硬い、小さな塊。 俺はそっと唇を閉じる。 その塊をゆっくりと舌で持ち上げ、上顎に押し付け、 そこにじっくり包み込む。 やがて…じんわりと蕩けて、甘い痺れが舌先に広がる。 痺れは徐々に熱く甘く、口の中に広がってゆく… 「…キスチョコ?」 包み紙を持て余しながら俺の様子を窺う、 その指先の中の白い紙、水色に印刷された「KISS CHOCO」 の文字が視界に飛び込む。 「え、ええっ!?  あ、そう、そうです…けど、あ、  こないだ大袋で買っちゃったから!!つい…何個か…」 …持ち歩いてたわけか。 遂に、堪らなくなって俺は吹き出してしまう。 こうして笑うとすぐ…ほら、こうして紅くなって頬が膨らむのも、 いつもの軽口が飛び交うのもわかっている、 それでもいい、マヤ、お前といると…嬉しい。 大好きだ、マヤ。 少し安っぽいこの甘さも、 お前がくれたというだけで喉に流し込むのが勿体無くて いつまでもいつまでも味わってしまうんだ、 唇で、舌先で、歯の裏で、いつまでも。 遂に独特の三角の塊は丸く潰れて消えてしまう。 不思議な沈黙だけが二人を包み込む。 「梅が…」 「え?」 俺は少し頭を動かした。 つられてマヤの視線が動き…はっと、見開かれる。 ぱっと輝いたその顔を、導き出したのはこの俺なのだと、 そんなことにまで幸福感を味わってしまう、 他愛もないものだ…この速水真澄が。 「咲いてる…」 「あともう少しで…見頃だな」 「キレイ…キレイですね、白い。あ…」 マヤがふと鼻の辺りに手をやる。 「ふっ、って香がするだろ。ほんの少し」 「うん…」 俺も合わせて首を上げた。 白くたちこめた雲の向こうも少しずつ明るくなってきたようだ。 風はまだ冷たい、指先も、首元も、まだまだ寒い。 だけど春は間違いなく、そこに。 ふいに笑い出したくなって、 くっと堪えて、俺はぐっと両足を伸ばした。 コートのポケットに両手を突っ込んで、 ぐっと背を反らして…それからまた前に屈みこむ。 大丈夫、もう大丈夫。 心は確かにここにある、マヤを愛している、この心は。 ふいに顔を上げる、 そんな俺の顔を、不思議そうに、少しだけ…眩しそうに、 マヤは何も言わずに見つめていた。 何か言葉を。 口に出すべき、大切な一言を。 思い浮かべる前に、俺はもう一度微笑んだ。 マヤも戸惑いながら微笑んだと… 幻ではなく、今は確かにそう思う。 END. ***わかりにくいですが・・・*** 一応、コレ季節モノなんですよバレンタイン〜♪ ニ三日前、ほんとに目の錯覚かと思ったら梅の花が咲いててビックリ&もう二月か!&げっバレンタインじゃん!!!と気づいた次第です〜 お誕生日ネタは今回はお預けで・・・☆ もう少し経ってからUPしたかったのですが、今週末また東下りすることに ・・・いつ帰ってくるかは全く未定でございマス(><) 怒涛の連続UPの次は怒涛の・・・放置っぷり・・・年末と一緒ですね(−−;) 2005/02/14 ライラ web拍手 by FC2

またまた当時の後書きそのまま載せてみましたよ〜
今年の京都はまだ梅の気配は見当たりません…ってか全国的に大雪模様だし!
ところで梅の谷以降、試演前の2月14日、ってガラかめカレンダー的に有り得るんですかね…?^^;
アストリア号自体季節不明だからようわからんww

    

last updated/05/02/14

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