第1話




当サイトには珍しく?アンハッピー系統(不倫設定)に属すると思います。
が、個人的にはちっともアンハッピーとは思っていない節があります。
全然構わん、どんとこい!という方のみ、ご覧ください。

 

昔、飛び込んだこともあるはずの、冬の海。 あの時はちっとも怖いなんて思わなかった。 夢へと繋がるたった一枚の紙切れ、それを手に入れる為なら何だってやれたあの情熱は、一体何処へいってしまったのだろう――消えてしまっただなんて思いたくはないけれど。 不規則に黒々と揺れる水面を見つめながら、マヤは氷のような指先を唇に食んだ。 勿論、それで感覚が戻るはずもないのだが。 もうどれだけの時間、ここにこうして立ち尽くしているのだろう。 指先はおろか、全身の筋肉が寒さと緊張でコチコチに凝り固まって、真ん中の唯一熱を感じる部分ときたら油断するとすぐズキズキ脈打つ。苦しすぎる。やってられない。 今ここにこうしているのは、決して情熱のためではない。 むしろそれを捨てるために、破壊するためにやって来た、懐かしい横浜の港。 (――なんで、こんなに聞き分けないんだろ、あたしの心臓って) どこまでも凍えてしまえ、と願っているのに。 そこだけがドクドクと熱く主張して、暴れ狂って、抑えられなくて。 哀しくって、情けなくって、もう涙も溜息も出ない、歪に笑うことしかできない。 忘れよう、全部――この風の冷たさに、潮の匂いに、僅かに飛び散る氷の粒に。 全てを委ねて砕け散ってしまおう――そうすれば、こんな痛い想いはしなくて済む。あんな苦しい恋はしなくて済む。 人魚姫は愛しい人の命と引き換えに泡になったけれど――あたしは呪いの言葉を吐く前に身を捨てるのだ。決して純粋な愛の為なんかじゃない、『紅天女』の北島マヤは、自分可愛さの為に真冬の海に飛び込む。苦しみと嫉妬から逃れる為だけに死の淵を覗き込む。 マヤは今日、真澄の結婚式に参列した。 大事な舞台の上演権を持つ所属女優として、笑顔で祝福の挨拶さえした。 隣に立つ美しい婚約者、だった人は、今や完璧に幸せな花嫁として微笑を返してくれた。 そしてややぎこちないようにも見えたあの端正な笑顔は。 それでもやっぱり、悔しくなる位、キレイだった。幸せなんだな、と微かに思った。 どうやって他の参列者と言葉を交わし、立ち居振る舞っていたのか、全く思い出せない。 痛む心臓をいなしながら、倒れない程度に低く呼吸をしながら、影のようにそっと、誰にも見つかることなくその場から消えてしまえることを心から願っていた。 それでもその瞬間は避けられなくって。 これは芝居、死ぬほど苦しい、本当に血の吹き出すお芝居なんだ、と心に誓いながら。 「おめでとうございます」 ……の言葉に万感の思いを込めた。 紫のバラの人への感謝と、長い間対立し合って、時々は笑ったり手を繋いだりもした、不可思議な運命を共にしてきた“戦友”への感謝――そんなものをしっかり込めたつもりでいた。 でも唇から零れ出たのは呆れる程そっけない早口で、社交儀礼にしてももう少し滑らかであるべきだった。 僅かに合った気がする視線、作り物めいた微笑、瞬く間に人の波によって隔てられる空間。 ただそれだけ。たった一つの密かな拠り所はその瞬間、永遠に手の届かない存在となった。 彼が幸せならそれでいい、と強く願う反面心の片隅が急速に腐ってゆき、揚句毒を放つのを、マヤは確かに感じた。 速水さんなんか、肺癌か何かで余命1週間で死んじゃえばいいのよ。 紫織さんだって、いつも身体弱いんでしょ?だったら今倒れて見せてよ。 何で笑ってるのよ、人の気も知らないで幸せになんて、どうしてなれるのよ。 紫織さんなんか、何でもわかってるってフリしてるけど。 本当に知ってるの?その人がどれだけあたしに酷いことしてきたか。 上演権の為なら、仕事の為なら何だってやる人で、そう、劇団一つ潰したり――母さんを監禁したりするなんてのも平気でできちゃうような人で。 優しい所もある方だなんて――何であなたに言われなきゃならないの? 速水さんだって。結局紫のバラの真実は明かしてくれないまま、都合よくあたしを振り回すだけ振り回して。 利用されるだけなら、まだその方がいい。ただの商品なら、そう振る舞ってくれたらいいのに。 なんで中途半端に優しいの?それも計算の内なの? だとしたら、本当に最悪。思惑通り、あたしはこんなにおかしくなって、あなたの思うが儘で。 悔しい、嫌い、二人とも大っ嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い―― 一度自覚してしまうと、後はただ膨張し続ける風船のように膨らんでゆく毒の霧。 自分でもゾッとする程の見苦しい嫉妬、捻じ曲がった愛情、憎しみと何ら変わることのない。 厳粛で豪勢な式の最中、膨れ上がったその重みに耐えかねて、マヤは会場を飛び出した。 吐きそうだ、と思ったら、実際途中の化粧室で少し吐いてしまった。 このところ禄に食べていなかったせいで、胃液が口に苦かった。 真っ青で惨めな顔が豪奢な鏡に映るのをぼんやり眺めていたら、急に何もかもがどうでもよくなってしまった。 死にたい、なんて、本当に思ってる訳じゃないと思う。 でもとりあえず、この苦しみから逃れる事が出来るなら何だってやれそうだった。 極寒の海の底に沈んだっていい――それでこの醜い心を殺すことができるなら。 クロークに預けたコートとバッグを引き取る位の常識は残っていたから、そのまま会社の借物の薄いドレスの上に羽織って飛び出してきた。 都内から横浜なんてあっという間で、別にどこに行くあてもないから、慣れたこの場所に来た――昔、『椿姫』のチケットを求めて走ったあの港へと。 いつの間にか辺りは真っ暗になっていて、どれ程時間が経っているかなんてどうでもよくって、ただ身体も心も限界なのはわかっていた。 誰もいない。 誰もマヤに気づかない、遠い真澄は勿論の事、劇団の仲間も誰一人、周囲には人影すらない。 寂れた倉庫、不穏に揺れる貨物船、油と鉄の匂いが混じる潮風の他は何もない。 飛び込むにはおあつらえ向きの夜――生きるのに比べたら、死ぬなんてとても簡単な事。 その癖、馬鹿みたいにただ立ち尽くしている。 身を投げ出す勇気がないのではなく、無駄なことだとわかっているからだ。 たとえ粉々になったところで、真澄への想いに苦しむ今の自分が救われる訳じゃない。 その想いさえもが昇華できる場所を、唯一の方法を、知っているはずの自分だった。 『紅天女』があれば。お芝居さえあれば、この先も。 女優の自分はこの吐き気のするような苦しみさえも糧にして貪欲に生きるだろう。 それが、今はただ寂しいのだ――たった一人、誰もいない孤独な場所で、女優でも何でもないただのちっぽけなマヤが震えているのが――ただ可愛そうなだけ。 (たぶん、生き延びるわ――でも、一度は飛び込まないと……やっていける気がしないの) 誰に言い訳するでもなく心の中で呟いて、マヤは一歩を踏み出した。 ゆらり、と波が誘う。 落ちるのはいとも簡単。 あとは体重を前にかけるだけ。 唐突に、強い風が頭を揺らす。 ぐらり、と視界が暗くなる。 狂った平衡感覚に、恐怖の鳥肌がぞわりと肌を覆う――それと同時に、狂喜に似た衝動がマヤの身を包み込む――今、確かに落ちた、と思った。 ――風だと思ったものは、大きな掌だった。 web拍手 by FC2

last updated/10/11/20

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