第2話



「え……」

それっきり、マヤは言葉を失った。
目の前の光景を理解するのに、心はもとより脳が情報を処理しきれないのか、ちぐはぐな感覚が次々と五感を通り過ぎてゆく。
昨日の昼、コートのポケットの中に残っていた干からびたチョコレートの甘さ。
式場の外で見上げた空の哀しいまでの蒼。
純白のベールに包まれた紫織の艶やかな笑顔――完璧な幸せを得た女の、完璧な笑顔。
そして。
じんわりと滲む涙の膜でわざと見ないようにしていた、愛しすぎて気持ちが悪くなる程のあの姿。あの男。二度と見たくない、会いたくない、心の奥底に蓋をして、幾重にも鍵をかけて、深い忘却の彼方に沈めてしまいたいと心から願いながら――いまだに未練ったらしくその隙間をこじ開けてのぞきこみたいと願っている、あの姿が。
今、まさに目の前にある。

あまりにも真澄のことを考えすぎて、想いすぎて、頭がおかしくなったに違いないと。

マヤはきゅっと唇を噛み、無意識のうちに喉に手をやっていた。
呼吸を圧迫することで、嫌な幻が目の前から消えてくれればいいと願っていたのか。
だが、幻は消えてはくれなかった。
それはマヤにとって酷く残酷な事実だった――ズキズキと心臓から始まり、徐々に全身に広がってゆく、細い刃の先で切り刻まれるような感覚に身動きが取れなくなる。

なんで。
どうして。
なんでそこにいるの。
どうしてあたしを見つめているの。

まるで恐ろしい何かでも見つめるように。
硬直したまま、穴が開くほど自分を見つめている、マヤの異様な雰囲気にのまれて真澄は絶句する。
今にも海に落ちてしまうかと背筋が凍った程、危うげだった先程の光景。
思わず手を伸ばして引き掴んだ、細すぎる二の腕を手離すタイミングを失って、真澄はただ冷たく彼女を見下ろすことしか出来ないでいる。

お願いだから触らないで。
あなたに触られると……
触られて、しまうと……

「マヤ」

ああ
その口で名前を呼ばれたら。

「おい……大丈夫、か?」

もう――もう駄目。

「……来ないで!」

軽く掴まれただけの腕は、上下しただけで簡単に外れてしまう。
その瞬間、ズキズキと痛むばかりだったマヤの心臓に深い鉛のようなダメージが加わった。
真澄は訝しげに目を瞬いた後、みるみる表情を硬く強張らせた。

「随分な物言いだな。こんな冬の最中にこんな所で、まさかとは思うが飛び込むつもりだったのか?一体何を考えてる」

「な……何をって、そ、それはこっちのセリフですよ!なんで速水さんがこんなとこにいるんですか!?け、結婚式でしょ!!披露宴とか……いろいろ……」

所々裏返った声で叫んでいるうちに、ようやく状況がまともに理解できてくる。
僅かに自分の正気を疑いつつ、改めて目の前の真澄の姿を確認する。
それでも幻ではないようだ――自分が最後に見た時から着替えているようだが、一目で高級な仕立てとわかるドレススーツを隙なく着こなしたその姿は、どう見てもあの豪勢な式場に似つかわしい姿で。人気のない真冬の港で泣いて凍えているような、ちっぽけで惨めな北島マヤの傍にあるのにふさわしいような姿ではなかった。

「どうして……?」

寒さのためか、興奮によるものなのか。
両肩を竦めながら、マヤは呟いた。
それしか、出てくる言葉がなかった。
ふいに、強い風が海から吹き上げてくる。
それは完璧に整えられた真澄の髪の毛を乱し、マヤの長い髪をひどく掻き回して二人の間を抜けて行った。

「どうしてって……察しがつかないか?」

乱れて垂れ下がった前髪の下から、真澄の射抜くような、どこか挑発的な視線がマヤを貫く。

「何を……?あなたが何考えてるかなんて、あたしには一生わかんない。今日、あなたは本当に幸せそうに笑ってて――あたしはそれを祝ってた――それなのに」

「それなのに、君は俺を祝うのを放棄して逃げ出した。俺は俺で、その幸せとやらの最初の一歩を放棄して逃げてきたんだ、お互い様だ」

「何の――事?」

凍りつきそうな瞳をいっぱいに見開いて問いかける、その姿。
真澄はふと薄い笑みを唇の端に浮かべた。
ここまできて尚、自分という人間を全く理解できない彼女に対するこの感情は――最早愛情といったものではくくり切れない程複雑に捩じ曲がってしまったのかもしれない。
愛しすぎる余り、どこか憎しみにさえ似てしまったこの想いを、一体どう説明すればよいというのか。明らかに自分と距離を置こうとする、毛を逆立てた子猫のように興奮した彼女に。

「……馬鹿だな、ここまで言ってもわからんのか?じゃあ教えてやる。
今の時刻は深夜1時35分、如何に大都と鷹通の提携が絡んだ一大イベントとはいえ、結婚式ってやつは新郎と新婦のものだろう?まして新婦は身体の弱い深層の令嬢ときた――披露宴は11時には切り上がり、その前に新婦は付き人にご大層に守られて場を外していて、新郎もそれとなく場を抜けるよう万事が抜かりなくセッティングされて、二人の為に用意された部屋に、取り巻き連中から意味深なご注進をたっぷり受けながら進んで行った――はずの新郎が今、ここにこうしている意味を、君は全く、これっぽっちも察することができないのか、マヤ?」

勢いのままに、半ば怒りをぶつけながら言い切った。
マヤは眉をしかめ、軽く首を振りながら真澄を見上げている。
唇も、顔色も、どこもかしこも白く青ざめていた。
寒さのためだけではない震えが、小さな歯を鳴らし、薄い肩の先から爪先までを一気に覆い尽くしてゆくのを真澄はじっと見つめる。

「大体……君は本当に俺を祝ってくれていたのか?」

再び指を伸ばす。
硬直したまま自分を見上げるマヤの髪の中。
そこは氷の中に手を突っ込んだように冷たく、長い一本一本は強い潮風に煽られて瞬く間に長い指に絡みつく。

「どうぞお幸せにって……あたし、今まであなたに何度だって言った……今日だって、おめでとうって、ちゃんと――」

「君はそうやっていつも怒鳴るか当てこするか素っ気ないか――今日なんて、目も合わせなかっただろ。あんな簡単な社交辞令さえ卒なくこなせない女優とはね。呆れ果ててもう少しで笑い出すところだった」

あまりの言われようだが、身体中のどこを探しても怒りのエネルギーなどこれっぽっちも残ってはいない。言葉だけは恐ろしく冷たい癖に、髪に絡んだ指先は抜けてゆかず、そのままマヤの頭皮をまさぐる様に動いてゆく。どこもかしこも冷え切って感覚など残っていないはずなのに、柔らかな其処に触れられた瞬間カッと全身に広がってゆく熱が……何故だか涙が出る程心地良い。


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last updated/10/11/20

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