第4話



淡い室内灯の光に、控え目に散りばめられたストッキングのラメが反射する。
膝上から大きなバラの模様が描かれる、脱がされて鑑賞される為にある衣装。
破らないように極力注意するが、ともすれば引き掴んで二度と使い物にならない有様にしてしまいそうだ。
普段の自分らしくもない、乱れがちな息を押し殺しながら、真澄はその繊細な膜を引き剥がしてゆく。ワントーン控え目だった生地の下から、マヤ本来の白く滑らかな肌が露出する様を存分に味わう。
最後に冷え切った小さな指先が現れた瞬間、堪えきれない溜息が零れた。
短く切りそろえられた爪、人形のようなその硬さ、自分の掌の中に二つとも収まってしまいそうな程に儚い、彼女の足。

「冷え症か?物凄く冷たい、氷みたいだ」

ぎゅっと握りしめると、恥ずかしそうに顔を背けていたマヤがようやくこちらを向いた。
皺ひとつない真っ新なシーツの上に横たわるその姿は、こうして触れて掴んでいてもまるで夢の中の姿のような気がする。
抱いてくれ、なんて、結婚式のその夜に――初夜のその時に、花嫁ではない女に熱っぽく訴える男。我ながら何と捻くれた人間だと思う。彼女でなくとも、誰だって最低だと非難するだろう。正直なところ今はどうだっていい事なのだが。

「冷え症っていうか――ずっとあそこにいたから……」

指の付け根あたりに纏わりくつ紅い線は、彼女の足が長い間窮屈な靴の中に閉じ込められていたことを示している。
自分の幸せを呪い、そんな自分を呪って飛び出したという彼女。
その想いを殺す為に、真冬の海に飛び込もうとさえした女。

――全く、今日という日はなんという1日だったことだろう。
朝には沢山の人々に輝かしい前途を祝福され、羨望され、一生を共にしなければならない女性にありったけの「誠意」を掻き集めて笑顔を振りまき、偽りの誓いの言葉を述べた。最も逢いたくない、でもその姿を認めたからには決して目を離すこのできない女を求めて落ち着かない気持ちを持て余しながら。
何とか言葉を交わしたかと思えば、無関心以外の感情など読み取れない、といった風情の彼女にお門違いの怒りさえ抱いた。それから。
煩雑な色々の業務をこなしている間に――彼女は逃げた。苛立った。何としても捕まえて、思い知らせてやりたかった。この胸の内に宿る狂った愛情を。
だから自分も逃げることにしたのだ――
その気になれば、どんな状況下にあっても彼女の居所を掴むのはお手の物だったから。
夜になってその場を探し当てた影の部下から連絡をもらい、淡々とした、だが核心を突いた忠告を受けた。

「その行動によって貴方の人生は間違いなく転落します。
私にその片棒を担げ、と仰るのですか?」

「その通りだ。そうなった場合、お前への厄介な仕事の依頼もこれで終わりだな」

すると彼は電話の向こうで不思議な笑みを零した。
彼が声を立てて笑う場面に初めて立ち会った事に、後で気が付いた。

そして今――彼女は自分の腕の中にある。

転落することで得られるなら、いくらでも落ちてやる。
但し、その時は彼女も道連れだ――泣いても喚いても、懇願されても許さない。

そっと、指先で紅い線の跡を辿る。
マヤはぴくりと身を強張らせ、それでもじっとこちらを見つめている。
その瞳を逃さないよう、視線でがんじ絡めに縛り上げる。
氷のような皮膚に舌先をつけ、ゆっくりとなぞり上げる。
みるみるうちに硬く滑らかだった肌が粟立ち、何をするのかと半分興味本位だった表情に焦りの色が広がり出す。右足の甲の跡を舐め上げた後、同じ片手の中に収めた左足の甲を舐め始める――親指と人差し指の付け根に舌先を潜り込ませた途端に、耐えていたマヤがぎゅっと足を縮めて叫んだ。

「くすぐったい……!」

「少しは温まったみたいだな――蹴るなよ」

「もう……何言って――」

抗議のセリフは途中で途絶えてしまった。
既にスーツの上着は脱いで脇に置いていた真澄がシャツの襟元に指をかける。
鋭い線を描いてその肉体を覆い隠していた、それが今無残に掻き分けられる。

「マヤ」

呼びかけに、再び伏せられた睫が震える。
ヌードベージュのドレスの裾から覗いた膝頭が摺り寄せられ、顎の下で指が所在無げに動く。真澄はゆっくりと、ベッドが軋む音を立てないように留意しながら彼女の傍に身を寄せた。左腕で彼女の頭を抱え込むようにして、右手で黒髪を掻き分けながら覗き込む。

「……そのままだと皺になる。君も脱げ」

「脱げって、そんなあっさり言わないで下さい……」

「面倒臭い奴だな――じゃあ脱がしてやる」

ふいに首の後ろに左手が差し込まれたかと思うと、そのまま両腕の中に抱きかかえられる。
真澄の鎖骨に視界を覆われた瞬間、彼独特の甘い香りにマヤの胸は押し潰されそうになった。
背中でホックを外される感覚に、ようやく両腕を突っぱねて身を引く。

「ちょ、ちょっと待って!」

「何」

「自分でやります」

「出来るのか?」

「……馬鹿にしてます?」

「いや、別に」

頬を赤らめたまま、ゆっくりとマヤは起き上がる。
乱れた髪の毛がふわりと揺れる様に、思わず真澄の口元が緩む。
そのまま横になりながら、マヤの所作を見守る。
僅かな躊躇いの後、浅く息をつくと。
マヤは後ろ向きになったまま、両腕を背中で交差させた。
首元で外れたホックの下、細いファスナーの先端を摘まむと、右手で端を掴んだまま静かに下に引き降ろす。
光沢のある布地の狭間に、白い背中が垣間見える。
細いその筋が腰元に落ちたところで、真澄は右腕を伸ばした。
指先で隙間を掻き分けて、薄い肩甲骨の上に掌を置く。
ぞくりと白い肌に鳥肌が立つのを、ゆっくりと撫でながら確かめてゆく。
恐る恐る、だが躊躇うことなく、片腕がレースの袖を擦り抜けてゆく。そしてもう片方――
遂に、真っ白い肌が完全に顕になった。
ただ一つ、下着の細い線を残したまま。

「……綺麗な背中だ」

肩が震える。黒髪の隙間から覗く項垂れた首の骨の尖りに、一度腰まで下りていった指先が触れる。そのまま顎に手をかけて引き寄せた。

「俺の初夜をくれてやるのに――相応しい、綺麗な身体だ、マヤ」

何と応えればよいのかわからぬまま、マヤは反射的に両腕を胸の前に寄せる。
背後から抱きかかえたまま、その腕を掴んで無理に引き降ろす。
首の後ろから覗き込んだ胸元の、外から見ただけではわからない豊かな曲線に、健康的に引き締まった腹部のラインに、まるで少年のように胸が高鳴るのを抑えられない。
思わず、目の前に曝け出された肩先に歯を立てた。
僅かに首を竦めながらも、マヤは拒まない。

「……ごめんなさい」

「何を謝る?」

「あ、あたしなんかのせいで――速水さん、こんな事してる場合じゃないのに……あたしが、凄く諦め悪いから。
みっともなくて、執着しまくって……だからもし、は、速水さんの幸せ、が、滅茶苦茶になっちゃったら、あたしの――」

「そう、全部君のせいだ。今までこれっぽっちもそんな気なんか見せなかった癖に、土壇場になって俺を誘惑する君が全部悪い」

「な……」

「そんな気」を、全く隠し通してきたのは一体どこの誰ですか、と反論しようと思った。
が、それ以上見せかけの抵抗を続けるのは無理だった。ぴったりと引き寄せられた真澄の肌からは圧倒される程の情熱が雪崩れ込んできて、一度熱くなった自分の肌が自然とそれを受け入れようとするのを止める術をマヤは知らなかった。
噛んだ肩を舐め上げた舌は、そのまま耳の裏をなぞり上げて目尻にまで湿った跡を付ける。
脇の下から潜り込んできた右手が下着の上から胸を掴んだかと思うと、左手は捲れたスカートの下から太腿の内側を割る様にして這い上がってゆく。
――と、急に裾をたくし上げられ、そのまま肩の上まで引き上げられた。
布地が擦れ合う微かな音に、気配を消していたはずの現実感が立ち戻ってくる。
全身を真澄の身体の下に晒され、マヤは羞恥で身動きがとれなくなる。
出来る事ならその身体を、自分のものとはまるで違うその強くて美しい身体を強く抱きしめてみたい、と思う。頭の中ではそう思っているのに、ちっとも腕が動かない。まるで彼の魔力に捉えられて貼り付けになった蝶の様に。

真澄は身体を起こし、マヤの上に両膝を立てて座った。
そのままシャツを脱ぎ捨て、完全にその半身を曝け出す。
あまりに生々しい、その身体の重み、息をする度に隆起する骨の動き。
目が離せない……怖い程に綺麗なその身体に、醸し出される空気に、飲み込まれる。

硬い掌が右の肩を押さえつける。
震える喉元に指が伸びる。その両側の骨と皮膚の狭間を揉みあげながら、長い指がゆっくりと進んで行く。やがて辿りついた顎の先を持ち上げるようにして、親指と人差し指が唇の端をなぞる。僅かに開いたマヤの唇の狭間に、真澄の指の間の薄膜が誘うように広がる。誘われるがまま、マヤはそれを食んだ。全く同時に、もう一片の薄い肉が覆いかぶさり、有無を言わさず絡みついてきた。舌と、指と、歯と、溜息が、濁流の様に混ざり合い、二人の意識を絡め取る。

「ん……ふ、っ……」

何とか息を継ごうと逃れる、その一瞬を与えるのも惜しいといわんばかりに真澄の唇が押し寄せてくる。口の中から引き抜かれた指が鎖骨の線を辿る。いつの間にか長い脚が膝を割ってかき開き、有り得ない体勢を余儀なくされている事に気が付く。

「速水、さん……」

思わず名前を呼ぶ。身動きの取れなかった腕がようやく動く。忌々しげに唇を離した真澄が覗き込んでくる。琥珀色の瞳が見たこともない色を湛えている。それが欲情というものだ、という事をマヤは朧げながら理解する。たぶん、自分も同じような眼をしているんだろうと思う。そうでなければ、普段の自分がこんな状況でこんなセリフを吐けるはずがない。

「あたし、滅茶苦茶に――しますよ?あなたの……何もかも、全部」

それまで苦しそうに強張っていたその顔に、この上もなく幸せそうな微笑が広がった。
心臓と、下腹部の奥がきゅん、と音を立てて縮むのをマヤは感じた。
そしてその情動のままに口付け、抱きしめた。

……そう、落ちるのはいとも簡単。

後は重力のままにこの身を委ねるだけ。

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last updated/10/11/21

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