全1話


気になって仕方ないのだ、先程から。 手渡された契約書の束をぱらぱらと確認しながら、 速水真澄は再び視線を飛ばしてみる…何気なく、あくまで何気なく。 その視線の先に、彼が焦がれてならない小さな女優がいる。 気になっているのは、その彼女の唇。 『紅天女』という、とてつもない舞台の上演権を、 あの姫川亜弓と競って見事手にした女優・北島マヤ。 彼女は今、その上演権を…大都芸能との所属契約とともに自分に、 つまりこの速水真澄に全てを受け渡す為にこの場にいる。 どんな大きなビジネスよりも緊張し、興奮している自分を悟られぬよう、 極めて冷静に、鷹揚に手順を踏んで。 「結構だ。お疲れ様だったなチビちゃん」 微笑むと、同じように堅く緊張したマヤの頬がほっと緩む。 (ああ…やはり気になる) 言ってしまいたい、というよりも、なんて事はない一言のはずなのに、 一体どうしてこんなに躊躇っているのか自分でもよくわからない。 その、気になるふたひらの唇が開き、か細い言葉が零れ落ちる。 「ああ、よかったあ… もう、今までこんなに字と睨めっこしたことないですってくらい。 麗にも頼んで、昨日は徹夜だったんです」 大袈裟に溜息をついてみせ、 背筋を伸ばす、すると艶やかな黒髪がふわりと揺れて、 その拍子に唇の端に前髪の一本が引っかかる。 思わず手が動いてしまうのは抑えられなかった。 真澄の指が、つい、と伸びる。 唇の端の髪の毛に指をかけ、すっと横へ流す。 する、と、髪の毛とともにごく細い涎が糸を引く。 「あ」 と、みるみるマヤの顔が紅潮する。 それは見事にわかりやすい変化で、首元から小さな耳の先まで、 すっと絵筆で染めたみたいに紅く。 「ぼーっとして口あけるなよ、大女優様。  間抜けな顔がますます…」 と、いつもの軽口をたたく側から、 赤くなったまま眉根を吊り上げたマヤがその手の甲を叩いた。 そんな他愛も無いやりとりを、 冷徹な仮面を被ることなくできる今の幸せに、 緩んだ頬に歯止めが利かなくなってついまたいつもの高笑いだ。 (…この人本当はかなりの笑い上戸なんじゃあ) と、マヤは思わず脱力する。 「今日のこの後のスケジュールはどうなってる?」 笑いをやめ、書類の端を調えて真澄はソファから立ち上がった。 そのままマヤの脇を一跨ぎし、後ろのデスクの上に置く。 マヤは上半身をそちらへ向けながら宙を睨む。 「ええっと…雑誌のインタビュー?がみっつくらい…かな」 「四つよ、マヤちゃん」 と、見事なタイミングで社長室の扉が開き、水城冴子が現れる。 彼女はマヤが大都に所属することが内定して以来、 臨時のマネージャーとしてマヤの仕事の管理を采配している。 こうして契約が完了した以上、社長秘書との二束の草鞋は難しい、 新しい有能なマネージャーを探さなくては、というような話を真澄とし始める。 マヤはそのやりとりを眺めながら、唇をそっと舐める。 柔らかなそれを内側に丸め込むようにして、そのまま引き伸ばして。 元に戻して、また小さな舌先を出して舐める。 その何気ない仕草の全てを、真澄は目の端で追っている。 そう、気になるのはそれ、その仕草だ。 冬が近づき、空気が乾燥していることもあり、今日のマヤの唇は少し荒れている。 それが痛むのか、話の最中もふとした隙に、そうして唇を舐めているのだ。 唇が痛むのか? と何気なく聞いてみたい気もするが、 それでやめてしまわれるのも勿体無いような気がして、 つい気になってしまい…という次第なのだ。 水城は、若干上の空の上司を、 そしてその最大唯一の原因の女優を眺めて苦笑し、話を引き結んだ。 「…というわけですので、今日のマヤちゃんは午後はフリーですわ。  社長も、ミーティングをひとつ後回しにすれば お茶くらいご一緒する時間はありますわよ」 と、微笑む。 真澄は素直に喜んでみせた。 何かにつけ見事な仕事振りの有能秘書に、 抱く密かな気恥ずかしさを押し隠しながら。 「…ということらしい。  済んだら連絡してくれ、息抜きに繰り出す」 マヤは引き結んだ唇を元に戻すと、大きくにっこりと頷いてみせた。 その小さな身体ごと抱えてこのまま外に繰り出したい… と一瞬そんな思いが頭を掠める。 全く、どうかしてるんじゃないかと自分で不安になるほど、 マヤに思考を侵されている自分が…決して悪くないと真澄は思う。 それから数時間後。 極力仕事に集中してみせながら、 机の端のプライベート用の携帯が震えるのを真澄はじっと待つ。 2時…3時…おいおい、4時…過ぎてしまったぞ。 何をやってるんだ水城君は?お茶はどうした? いや、もうどうでもいいから早くマヤを引き渡してくれマヤを… とついに頭の中でぶつぶつ呟く。 パソコン画面に向かったまま、その画面の向こうに思考が飛ぶ。 指が無意識に動き、 maya と、小さくタイプしてしまっている。 やれやれ、重症だ…そりゃそうだ、もう何年想い続けてきたと思う? やっと、やっと気持ちを押し殺さずに生きることができるのだ。 このくらいで済んでるのは可愛いもんさ、 と自問自答しながら、タイプした小さな文字を消してしまうのが惜しくて そのままずっと下にスクロール… している時に、やっと携帯が震える。 液晶には水城の名前が出る。 すぐ取るわけにもいかん、と真澄は心の中で数を数えた… と、三つ数えたところでなんと着信が止まってしまうではないか。 …水城のしたり顔が脳裏に浮かぶようだ。 真澄は舌打ちしながら、根気よく二回目の着信を待つ…が、 どう考えても水城に弄ばれているようである。 苛立ち、パチンと開いた所で、やっと震える。 「…もしもし」 と不機嫌な声を出してみる。 「あ、ああ、速水さんっ!? すみませんなんかすごい遅くなっちゃって… インタビュー慣れないし水城さんには怒られるしで」 と、冷たい携帯の向こうからマヤのおどおどした声が飛び込んでくる。 「もう遅くなっちゃったし、お茶無理ですよねっ…  今日は、もう帰ります」 と、向こうで水城の 「無理じゃないわよ」 という小さな含み笑いが聞こえる。 ますますもって腹立たしい…が、ここは我慢だ。 「無理じゃない」 ぼそりと呟く。 「あれ…水城さん、無理じゃないって…」 と背後を振り返ってうかがうようなマヤの声。 「夕食に変更だ。  水城君に適当な店を手配してもらってくれ。  三時間後に連絡する」 それだけ言って切った。 そのまま携帯を折りたたむと、目の前のソファに投げやる。 何が何でも、後三時間だ。 「…でね、もう恋愛話ばっかり振られちゃって…  おろおろしてたら変なこと口走っちゃって泥沼」 「仕事」なのだからそれなりに女優らしい服装をしろ、 と何度言ってみても、マヤはマヤで変わらない。 今日も朝に会ったときと同じまま、 シンプルなピンクのニットにジーンズという極めてカジュアルな姿だ。 薄化粧もしていない。 だがそんなことはどうでもいいのであって、 マヤはマヤのままで自分の前にいてくれて、 それが自然で当たり前であればあるほど、 女優としての彼女を目の当たりにする時の…憧れと同時に、焦燥感のようなもの… そんなものが掻き消えてしまう。 そんな素顔の彼女の、唇がやはりまた気になる… 言葉をつっかえながら、それでも真澄に伝えようと、 マヤは一生懸命口を動かす、口だけではなく目も、両腕も。 そんな様子を、微笑でとろけてしまわないよう自制心を引き上げながら、 からかい口調はあくまでさり気なく、じっと見つめる… 水城が指定したこの店は、 明治時代の官公庁の建物を簡単に改装し様々なショップが入ったビルで、 その地下のカフェ&バーになる。 石造りの古めかしい雰囲気と、カジュアルながらもしっかりした料理を出すことで 近頃大いに賑わっているのだが、客層は圧倒的に十代から二十代の若者が多い。 マヤの軽い服装よりは、カッチリしたスーツの真澄の方が浮いて見えるくらいだ。 「よく食べ、よく喋る。君は全く…面白いな」 お約束の食後のデザートを追加注文し、 店員が立ち去ってから真澄はニヤリと微笑んだ。 ゴツゴツと分厚い木製のテーブルに肘を付き、 すぐ隣の小さな頭に目を細める。 「う…うるさかったですか?」 マヤはハッとして唇を押さえた。 蝋燭の照明、淡いその光に浮かび上がるは薄い骨格の、薄い皮膚。 仄かに色づいた頬…は、軽い食前酒のせいだろう。 つやつやと光る黒目がちな瞳がこちらをうかがっている。 …小さな唇が、かさついてひび割れている。 ああ、もう駄目だな… じっと無言で見詰められ、 マヤはもじもじと視線をずらす。 その隙に、真澄は何やら素早く手を動かし… 「チビちゃん、ちょっと」 く、とマヤが顔を上げる。 その瞬間、真澄の長い指が伸びて…マヤの乾いた唇にそっと触れる。 「甘…」 ばくん、と心臓が飛び跳ねそうになるのを飲み込んで、 マヤが呟く。 「これは…?」 「蜂蜜」 と、視線の先には、成る程白い陶器の小瓶が。 その蓋が開いて、中の黄金色の液体が見えた。 「塗っておけ…リップクリームの代わりに」 「あ、そ、そうなんですよ〜っ  今日朝からずっとひび割れちゃって。  リップ持ってくるの忘れちゃって、でも買うのもなんか…」 勿体無くて、と続けようとした言葉は唇の手前で躊躇する。 真澄の人差し指はそこに留まったまま。 長い睫に縁取られた、穏やかな瞳もそこに留まったまま… 右の肘は、頬杖をついたまま。 左の指が再び小瓶へと動き、蜂蜜をもうひと掬い。 そしてまたゆっくりとなぞる、甘い唇を、さらに甘く重ねてゆく… 「これでいい」 と、ふいに指が離れる。 囚われた、マヤの思考がぎこちなく動き出す。 タイミングよくデザートが運ばれてきて、やっと時間が動き出す。 冷たい夜の空気をかきわけて歩く。 唇は…少し舐めると、まだ甘い。 蜂蜜の甘さ。 あんなことを、さらりとやってのける真澄は、 やはりまだ慣れないとマヤは首を縮める。 そっと窺うと、何食わぬ顔で一歩先の地面を見つめて歩く。 その端正な横顔は…悔しくなるくらいに静かだ。 穴が開くほど見つめてやったら、この大人ぶった人でも 少しは照れたりするのだろうか…? 幸せな溜息をついて、もう一度そっと舐めてみる… 車は静かにマヤのマンション前で停止する。 お互いによくわかる、ちょっとおかしな間があって… それを打ち消すように、音のない車内でぽつぽつと会話を始めてみる。 「ゴハン、美味しかったですね。 水城さんに他にもいろいろ教えてほしいな」 「何のために、何を?」 悪戯っぽくわざと聞く。 「ほら、これからも御飯とか…食べにいくとこ、  お洒落なとことか私よく知らないから…」 「これからも…?」 「う、うん」 「俺と?」 「そうだよ」 なんとかこなす。 真澄は静かに微笑する。 「…まだ部屋に入っちゃ駄目なのか?」 「!!!」 これは予測…はしていたもののやはり平気な顔はできない言葉。 マヤの顔が、またぱっと紅潮して、焦りがありありと全身を支配する。 「う、え、な、なんで…?」 と、つい間抜けな返事をしてしまう。 「俺がこんな風に時間が空くことは珍しいんだぞ。  それともこのまま君を下ろして帰らなきゃいけないのか?」 「う、ええっと…いいですけど、別にいいんですけど、  あっ なんかでも何も用意してないです、お、お酒とか!?」 「酔っ払って何かしたいのか?  それとも俺を酔っ払わせて何かされたい?」 「…!!!!ちょっと、速水さん、ひど、 ばっ 馬鹿にして…笑わないでくださいっ!!」 真澄は遂にハンドルに上半身を埋めたままで震えだす。 マヤはその頭を、ドキドキしながら小突いてみる。 適わない、どうしたってかないっこない、この人は…!! 「おふとんっ ないですしっ」 「別に泊まるなんて一言も」 「…!!」 「それに、なくても君のがあるだろベッドくらい」 「速水さん…」 根負けして、マヤは情けない声を上げる。 真澄はさっと顔を上げて、背もたれに大きくもたれかかりながら、 困惑するマヤの頭をぽん、と叩いた。 「ほんとに、適わないな君には…」 溜息ともつかぬ呟きで。 「え?何が?」 かっきり三秒、手はそのまま頭の上。 そして真澄はゆっくり、呟く。 「嫌、絶対、今夜は帰りません。」 一言ずつ、 おどけたような口調で。 「こ、困るってゆっても…?」 「知らない」 するりと、ドアを開けて外に出る。 そのままくるりと回って、助手席のドアを開け。 半身を傾け覗き込む、焦がれてやまない自分だけの小さな女優を。 「それから、唇」 「え?」 「人前で舐めるな、痛くても」 「う、ハイ…リップちゃんと持ち歩きます…」 はしたないよね…と呟きながら、マヤは外に出る。 ドアを閉めながら、そのままその身体をくるりと反転させ、その上に屈みこむ。 「それから…」 「ま、まだあるんですか?」 苦笑いで誤魔化す。 今にも膝が笑いそうだ。この至近距離は無理だ。 そんなに見つめられたら…ああ、穴が開くほど見つめられてるのは私なのか… 「リップは持たなくていい」 「え?」 「乾いたら、こうすること」 と、その言葉も言い終わらぬままに、 ふたつの唇が重なる。 甘い…たしかに、甘い、蜂蜜の味… 適わない、適う訳がない、この人には、この子には。 とろとろと蕩ける、黄金色の海の底にゆっくりと沈む、 そんな感触が、嘘ではなく、ふたりの皮膚を包んで広がってゆく… END. ***シチュ、同じちゃう・・・*** 「休日」とさ…という心の声を無視して短編第二弾です☆ 甘くしたけりゃ甘いもの使えばいいのかって感じですね、前回ココアで今回蜂蜜(^^;) 前半どうしようもなくマヤってマス、後半存分に甘甘キザってマス♪ ほんとはね、ゲンスブールの「唇に涎」っていう歌をテーマにしたかったんですが、 どうしてもUGってやつになっちゃうもので… 2005.1.24 ライラ web拍手 by FC2

すいません、風邪が治らないので今回は旧作改稿でしのぎます!!
「密室シリーズ」なら幾らでも書けそうだなあ…(笑)
のんべんだらりと過ごせる幸せをイヤになる程書いてみたい。
旧サイトで先に公開していた『休日』はこの週末にUPしてみますね^^

    

last updated/11/03/17

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