第3話



もう二度とこんなところに来るものか――
あの部屋を立ち去る時はいつも心にそう誓う。
昂ぶった感情のそのままに、荒々しく扉を閉めて。
怒りの淵から沸き起こる情熱、あの人を見返してやりたい、自分というちっぽけな存在を嫌でも認めさせてやりたい――という衝動を抑えられないまま、あたしは走り出す。

大っ嫌い、大嫌い、本当に嫌い、速水真澄なんて――

……その先の言葉をぶつけてしまった事さえあった。
死んじゃえばいい、と。
そんな言葉、今まで誰にだって、冗談ですら言ったことはなかったのに。
語彙ってやつが貧弱なあたしは、彼に対する自分でも理解できない想いを表現するのに「馬鹿」「嫌い」「冷血漢」「ゲジゲジ」「最低」「死ね」以外の言葉を思い浮かべることができないのだ。そしてそんなあたしの未熟さと矛盾を嘲笑うかのように、彼は応える。

「じゃあ――また」

――と。


・・・・・・

・・・・・・

ぼんやりと、目覚め始める。
時間の感覚は既にドロドロで、此処がどこなのか、どこからどこまでが夢で現実なのかわからない。
――全身が軋むように痛い。特に背中が。膝の関節も感覚が遠い。

「……起きたか」

その声も、言葉も。
随分昔に聞いたような気がする。
ああ――そう、あたしは……あたしは、この部屋で、あの男に――

「……だ、いっきらい……」

「もう聞き飽きた。他に言葉はないのか」

「死んじゃえ……」

ふん、と鼻で嗤われる。
その声がすぐ耳元で聞こえたので、ようやく自分の在り処を認識することができた。
どうやら、その大っ嫌いな男に抱きかかえられているらしい――痛む背中に負担がかからないよう前抱きにされて、両脚を膝の上に広げた姿勢で。
咄嗟に身を引こうとしたけれど、全身どこもかしこも痺れたようにいうことをきかない。
ずっと後手に縛られていた両腕は、突然の解放に戸惑っているのか前にも後ろにも動かない。ただ重い荷物のようにぶら下がり、彼の腰のあたりにだらしなく落ち着いている。

悔しい――
あんな、酷い、恥ずかしい思いを強いられたのに。
なんで心から否定できないんだろう、この男を。
本当に憎んでいるなら、こんな身体の状態でも拒むことはできるはずなのに。

悔しくて、悲しくて。
それ以上に、自分で自分の心が理解できないもどかしさに苛立って。
あたしは泣いた、声を立てずに。

もたれかかった肩の上、高そうな白いシャツの上に涙の染みが広がってゆく。
いい気味、なんてくだらない感情を持て余しながら、涙で歪んだ窓の外を見つめた。
きらきらと点滅しては流れる、無数の人工の光の粒。
暗い海の底に広がる幻燈のようなその光景に――ぐしゃぐしゃだった感情がふと静まる。

そっと、背中を擦る大きな手の感触を感じた。
まるで小さい子でもあやす様なリズムで上下する。

変な人……あたしが嫌いなんでしょ?

なのにどうしてそんなに――優しくするんだろう。
あんなに酷い言葉、苦しい行為を押し付けておきながら、何故。
そして変なのはあたしもそうだ。
大っ嫌いなはずの男に背中を擦られながら、うっかり眠ってしまいそうなこの心地良さは一体何なんだろう。

幻燈の前に隔てられた黒く冷たいスクリーンから、眠たげな顔のあたしが見つめ返す。
いつも通り、何の変化もないといった風情のその背中。
広い肩、少し癖のある柔らかな髪、夜になって少しざらついた頬――首元から匂う、女性のものとは異なる甘い香り。
背後から、カタカタとキーボードを叩く音がする。
こんな時でも、いや、どんな時であろうとも、この人から「仕事」は奪い取れないんだなあ――と、妙に納得する自分がいる。

「腹は減ってないか、ちびちゃん」

――またか。
空いてるに決まってるじゃない、夕方からずっとこの部屋に閉じ込められてたんだから。

眠い頭の片隅で舌を突き出してみたら、まるでそれを見透かしたかのように撫でていた左手が離れてゆき、何かカサカサと擦れるような音がした。
……唇の先に突き出されたそれは、ビスケット。
こちらを振り向くことのないまま、右手で器用にあたしの口元に差し出されるお菓子。

――何よ、今更こんなので許したりとか。キライが何とかなるとか、思ってるんなら……

そうやってむくれてみようと努力したけれど。
眠いのと、何より本当にお腹が空いてきゅっと胃が縮む感覚がしたので、すぐに諦めた。
少しだけ口を開けると、それは遠慮なく突っ込まれた。
手が使えないのでそのまま前歯で挟んで支えると、落ちないようにとの配慮なのか、差し出された指先はそのままビスケットの縁を支えてくれているようだった。
こういう、妙な所での気遣いがあたしを戸惑わせるのだ。

かりっと、一口齧る。
指先がビスケットを押して前にやってくる。
もう一口、やや大きめに齧ると――指はぐっと唇の先にやってきた。
ぽろっと零れ落ちそうになった欠片を掬い上げて、完全に下唇の内側に入り込んでくる。
瞬間、同じこの指先で散々な目に逢されたことを自覚し、全身が熱くなった。
――怒りなのか、羞恥なのか、戸惑いなのか。
どっちにせよ噛んでやろうと少し下顎を動かしてみたら、素早く抜けていった。
ちゅる、っと粉塗れの唾液が糸を引いて離れて行った。

そっと肩を掴まれ、ぴったりくっついていた胸から突き放される。
机と彼との間で、背中を支えられたままで向かい合う。
数時間ぶりに、まともに彼の顔を見る。
虐待行為(どう考えてもそうだ)の最中、決してこちらを見ることのなかったその顔。
ややくたびれた、一日の疲れを覆い隠すことのできない男の顔。
それでもムカつくくらい綺麗に整った、何の感情も読み取れないその顔が。
琥珀色の瞳がじっとあたしの口元を見つめている――何故だろう、ふいに胸の奥が苦しくなって、身悶えするような焦燥感にかられる。

大っ嫌いだと叫ぶことで、あたしはこの人に振り向いて欲しいのだと、急に理解したのだ。
出会った時からずっと敵だった、この男に。
ずっと年の離れた、取り巻く環境も何もかもが異なる、優しいかと思えば恐ろしい程冷酷な――速水真澄に、こっちを向いて欲しいのだ。

「速水さんって」

思ったより震えずに声が出たことに安心した。
伏せられた睫がぴくりと動くのがわかった。

「あたしの事、嫌いですよね?」

「――今更ながら好きだとでも言えば、君は俺の言う事をきいてくれるのか?」

「まさか」

「なら今まで通りでいい」

伏せられていた睫が上げられ、ぴたりと射抜くように見つめられた。
背筋が寒くなるような、それでいてドキドキと喜びに震えるような。
この人の前では、あたしの想いはいつだって裏腹だ。

「初日のチケット――水城君から受け取った」

「……約束ですから、一応」

「それで――どうなんだ、ジェーンは掴めたか?」

「多分……ううん、きっと。掴めた、と思います。
 初日は――あなたの思惑通りには、いきませんから」

「凄い自信だな。楽しみだ」

「失敗すればいいと思ってるんでしょ?
 演劇協会とか――偉い人たちの前で」

「自惚れるな。君一人の芝居じゃあるまいし。
 何のために噛みつかれたと思ってるんだ」

思わず顔が赤くなる。
目の前に差し出された右手の甲、親指の付け根あたりにまだはっきりと残る傷跡。
憎しみのまま、あたしが噛みついた跡が、ピンク色に引き攣っていた。
黒沼先生や水城さんの言葉が頭を過る。
――あの時のこの人の行動がなければ、その偉い人達だってわざわざあたしたちの芝居を観に来たりはしないのだ、と。彼は結果を考えずに動く男ではないのだ、と。

でも何故。
その理由がわからない。
この人の気持ちだって、何一つ理解できない。
抉れた傷跡を、あたしは食い入るように見つめた。
もう一度そこを噛みしめてみたら、何かが見えてくるのだろうかと考えた。

すると、またしても。
あたしの気持ちなんて全てお見通しだとでもいわんばかりに。

骨ばった、大きなその掌が差し出された。
きゅっと、胃が痙攣するのを感じた。
恐る恐る開いた唇の中に、冷たい皮膚が触れる。
ちょっぴり塩味のする、滑らかな感触。

嫌いよ。あなたなんて大嫌い。わかってるんでしょ?
だからこの行為を説明する必要なんてない。

舌を突きだし、傷口吸い上げるように口に含むと。

あたしは思いっきり、血の味が広がるまで強く、速水真澄の肉を噛みしめた。


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手元にある河出文庫版『O嬢の物語』(原作:ポーリーヌ・レアージュ/訳:澁澤龍彦)の解説によるとこの作品、「恐るべき恋愛小説の傑作」であり、「風俗小説」ではないんだとか。
コリン・ウィルソンはあのサド侯爵の『ソドム百二十日』『悪徳の栄え』は決して「ポルノグラフィー」ではないと述べていましたが(それには納得)、恋愛小説とポルノの境界とは何ぞや…と書きながら思ったりした『裏腹』でありました。
2話まではたっぷりとアトクサレなきエロを描こう、と。
それだけで――言ってしまえば「抜け」て、ちゃんと萌えられる(最大の課題)作品にしたいなと。
相変わらず理想とは程遠い仕上がりとなってしまいましたが、3話の展開はちょっと意外でした。
パロであっても作品が「作者の手を離れる」現象が起きる事は以前にも痛感した事ですが、今回久々に「勝手に動いて」くれたなあ、といった感じです。
まえがきでも述べましたが、一応完結させている未公開作品に描写されていない部分、という超自分設定のマスマヤです。意味不明に感じた方がいらしゃいましたら申し訳ありません><;
本編の方では「具体的」な描写は控えめなので、スピンオフの方で実現実行させてみました^^
それにしても、ざっと各作品のエロポイントを並べてみると自分の嗜好が思いっきり暴露されててアレですね…お漏らし云々は実際聞いたら爆笑しそうですが、エロ漫画でのみアリな言葉責めです…ヽ(●´w`○)ノ

last updated/10/11/18

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