第10話


雨粒はまるで弾丸のようにガラスに打ち付けられては、潰れて、弾ける。 そしてまた狂ったように、次から次へと、音もなく。 1、2、3……と、果てしなく雨粒を数えるのにも飽きて、カーテンを閉めた。 ガラス一枚向こうに広がる闇は嵐の真っ只中で、雨と風の悲鳴が轟轟と渦巻いている。 だけどこの部屋にその喧騒は少しも響かない。 ただ、窓の縁が僅かに軋む音が、外は嵐だということを教えてくれるだけ。 人気のない部屋をそっと振り返る。 明かりは点いているはずなのに、どうしてこんなに暗く感じるのだろう。 照明彩度を最大にしているのに、豪勢なシャンデリアの煌めきからは月の光程の温かみさえ感じない。 重厚な設えの家具や調度品、じっと見つめているだけで半日過ごせそうな程複雑な模様の絨毯や天井地殻の梁に施された細工── どれもこれも豪奢な事この上ないのに、まるで時を閉じ込めたかのような静寂が、この部屋を実際以上に暗くしている。 そっと重い扉を開けて、さらに薄暗く続く廊下を眺める。 黒光りする磨き抜かれた廊下の端にはオレンジ色を放つ間接照明が一定区間で配置されている。 おそらく、どうにかすれば天井のもっと明るい照明をつけることもできそうだけれど、スイッチがどこにあるのかわからないので諦めた。 何よりも、他人の家のあちこちを触るのは気が引ける。 再び扉を閉めて、溜息をつく。 もう何度目か、壁の時計を振り返る。 今は誰も使っていないというこの部屋で、ただ時を刻み続ける機械の孤独をふと想像し、ゾッとする。 日付が変わるまであと少し。 ガタン、とどこか遠くで何かが落ちたような音に肩を竦める。 あまりにも静かで、自分の心臓の音まで聞こえてきそうだ。 ふと視線を右手の壁際にやって、見覚えのないこともないもの──そう、この部屋に来るのは初めてではない──を見て、 どちらかといえば不安げに動いていたはずの心臓は一気に跳ね上がった。 随分前から使用された気配のない、いかにも糊のきいた真っ白なシーツ。 皺一つなく整えられた表面にそっと手をやると、さらりと冷たい感触が通り抜けて行く。 あの日も、同じような嵐だった。 打ち付ける雨の冷たさに、風の非情さに、このままこの身が消えて無くなればいいと切に願って、結局叶わなかったあの夜。 あたしはあの人に強引に見つけられ、引き上げられ、この部屋へと導かれた。 見つけてなんかほしくなかったのに。 頼むから目の前から消えて欲しい、放っておいて欲しいと──どれだけ叫んでも、顔色ひとつ変えることのなかったあの人。 あの日、これ以上憎める人なんて一生いないだろうと、心の底からの罵声を浴びせた人。 嵐の夜は感傷的な気分になる。 でも恐れや不安とは少し違う。 実の所、冷たい雨は嫌いじゃない。 それはいつだってちっぽけなあたしを打ちのめし、心の芯まで冷たく凍えさせて、そして僅かな希望を垣間見せてくれるものだったから。 転んだことのない人間に、転んだ時の痛みはわからない── かつて、月影先生が言った言葉の重みが、潰れそうになったあたしを幾度奮い立たせてきた事だろう。 そしてあまりの痛みと苦しみに、本当に潰れてしまった時──安寧という世界に逃げ込んだあたしを、 非情なまでに追い詰め、そこから引き剥がしてきたのはいつだってあの人だった。 冷たく使用感のないベッドの上に横たわり、あの日の記憶を引っ張り出すのは容易なことだった。 かつて、あたしは同じようにこのベッドの中にいた。 お馴染みの、あの台詞をうわ言のように繰り返しながら。

「……あなたなんて、大嫌い──」 最早、唇が勝手に覚えてしまった台詞。 頭の奥は熱く、ガンガンと脈打つようで、思考回路はバラバラなのに、これだけは自然と浮かぶ。 「ああ、よく知ってる」 何の感情も感じられない、冷たい声。 あたしを苛立たせ、心を引き裂き、落ち着かない気分にさせる。 「だ、から──放っておいて……あたし、演劇やめる──もう、あなたには関係ない」 「元気になったらどんな文句でも聞いてやる。今はさっさと眠れ」 身体が言うことをきかない。 眼を開けて、あの人を思いっ切り睨みつけて、できれば引っ叩いてやりたいのに。 指先に力が入らない。 頭が重くて首一つ動かせない。 言葉を出すごとに喉が掠れたような音を立てる。 ぼんやりとした視界に、赤やオレンジのマーブル模様が見える──あれは多分天井だ。 左端にはキラキラ輝く光──シャンデリア? どこか知らない部屋のベッドに、あたしは横にされているらしい。 眼から受ける刺激が強すぎて、仕方なく瞼を閉じる。 冷たい声の気配は少し遠ざかったようだった。 ──発見が早くてよかったですよ。もう少しで肺炎をこじらせるところでした。 ──あとでこの薬を飲ませてやって下さい。 ぼんやりと響く、いくつかの声──ふわふわと視界の隅を漂う人の気配。 扉を開けたり閉めたりする音が幾つか続いた後、ようやく静けさが訪れた。 頭の後ろから押し寄せてくる鈍痛に、一枚づつ幕が降りてゆく。 何枚も何枚も幕を降ろして、永遠に奈落の底で眠っていよう──と、微睡みかけた時だった。 ひやり、と冷たい皮膚の感触。 泥のように眠りかけたあたしの意識が僅かに目覚める。 体中が燃えるように熱いのに、左手首だけがひんやりと冷たく──心地良い。 それが何か、とか、誰か、だとか。 考えなくてもわかるような気がするのは何故だろう。 あたしの意識は手首のその一点に集中した。 結局、どれ程傷つこうとも、遠ざかろうとも──戻ってくる場所はそこしかなかったのだ、きっと。 放っておいて欲しいと思うと同時に、その手で引き上げて欲しいと密かに願っていた。 それを認めたくないから、いろんな理屈をつけてこの手の心地良さを無視し続けてきた。 憎めば憎む程、あたしは前に進むことができた。 あたしは自分のちっぽけさや幼さ故の愚かさ、うまくゆかない全ての責任を、無責任にこの人に押し付けて、キレイなままで前に進んできた。 泥を被って”汚い大人”を演じているこの人の仮面に、まんまと騙されたまま。 いつだって何の言い訳もせず、あの人はあたしを受け入れる── 冷酷な仮面で微笑みながら、あたしを更に傷つけながら、最後にはあたしの望み通りにしてくれる。 だがその時は、そんな彼の心の内など全く、伺い知ることさえできなかった。 あまりの気持ちよさに再び微睡みかける。 ひたりと唇の上に重なる、やわらかな感触。 ああ、久しぶりのこの感じは、紛れもない──甘く、苦い、あの人の唇だ。 同時に、歯の隙間から本当に甘くて苦い液体が注ぎ込まれるのを感じる。 それが喉元をくっと通り過ぎると同時に、胸の底から湧き上がる不快感に嘔吐きかけた。 「薬だから、吐くなよ」 低く囁く声に、眉をしかめたまま、誰が言うことなんか聞くものか──この真っ白なシーツに吐いてやったら、いい気味だわ── などとぼんやり考えていたあたりが、まさに子供じみた抵抗。 口を開けたまま喉を震わせていると、再び唇を覆われる感触がした。 冷たく爽やかな水が、喉の不快感と共に全ての思いまで押し流していくようだった。 そんなつもりなどなかったのに、何故か目尻から涙が一筋、零れてゆくのを感じた。 千切れた罵声の断片を繋ぎ合わせる力はもう残っていなくて、ただその時頭に浮かんだのはあの日の彼の言葉だった。 「演技……するのが、怖い。  前になんか──進みたくない」 忘れたい。 全て忘れてしまいたい。 演じることへの情熱も、そうして得た僅かばかりの賞賛と満足感も。 四方八方から受ける底なしの悪意、ほんの少しだけ手に入れた幸せ──そして母さん。 いつだってあたしのことを馬鹿な子だと罵って、溜息をついて、 それでも不器用に愛してくれた、たったひとりの大切な人──を、殺した、この人への憎悪さえも。 「忘れたい──全部、あなたが……忘れさせてくれるって、言いましたよね」 必死で、視点を合わせた。 動かない指に渾身の力を込めて、遠ざかろうとするその袖を握り締めて。 心から憎んでいるこの人だからこそ、あたしの全てを完璧に破壊して、泥の底に葬り去ってくれるはずだった。 そうして、北島マヤはこの世界から姿を消す。 その時、初めてあたしはこの人に感謝らしい感情を抱くことができるかもしれない。 それなのに──何だって、こんな眼であたしを見つめてくるんだろう。 どうしてまた──あの日のように、そっと髪を撫でてくれるのか。 それはいつだって不意打ちだから。 わからない。 やっぱり、この人の考えていることは、その本心は、あたしには全く理解できない。 「忘れたい、か──」 「いいだろう──だが、その後には全て取り戻させてやる」 取り戻す──? 何を? 何のために? ──そう問い直す余裕はなかった。 確かに、自分で言うだけのことはあり、彼は約束を堅く守る人だった。 冷めたい雨の、滑らかで突き刺すような感覚が一粒、そしてまた一粒──潰れ、弾けて、狂ったようにあたしに降り注ぎ、覆い尽くした。 彼によって引き起こされた嵐は、あたしの身体を、心を、見事なまでに引き千切る。 あたしという意識は混沌の渦の中でドロドロに引き伸ばされ、分解される。 嵐の夜、この部屋で、あたしは何度となく死と再生を繰り替えした。 冷たく凍えた心は彼の手により木っ端微塵になり、踏み潰され、同時に彼の心を手酷く傷つけた。 そしてあたしは──見事に蘇ったのだ。 web拍手 by FC2

「甘々月間」中ではありますが、ドロドロ連載再スタート。
お口直しに?今夜中に「純生・4杯目」上げてみようと思います。
あっ でもアレも十分ドロドロかも…!ま、いっか(笑)

last updated/11/03/28

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