第12話


遠くから近づいてくる振動。 水音を切り裂いて、確かに止まった。 はっと起き上がる。 冷たいシーツの上にうつ伏せになったまま、いつの間にか微睡んでいたようだった。 壁の時計を振り仰ぐ。 午前0時5分──日付が変わった。 ゆっくりと顔を窓の方向に傾ける。 雨粒は相変わらず、色んな方角から不規則にぶつかっては窓枠に向かって無数の筋を作り続けている。 部屋の中もつい先ほどと何一つ変わっていないように見える──けど、確かに時は進み、”何か”は着実にこちらに向かってきている。 あたしは全身を耳にして集中する。 やってくるものを、確かに受け止めるために。 逃げず、誤魔化さず、疑わず、ただ真実を受け止めるために。 ゆっくりと、心臓が高鳴ってゆく。 どくん、どくんと、痛みを感じる程に。 落ち着け──お願いだから、落ち着いて。 深く息を吸って、眼を閉じる。 幕が開く前ですら、こんなにも緊張することはないだろう。 1分、2分──3分、耐えきれなくてもう一度時計を見る──もう7分たった。 ……聞き間違いだったの? いや、違う──ほら、確かに、間違いない。 カツカツと、敷石を踏む固い音が近づいてくる。 玄関の扉の前で一瞬途絶え、それから何か金属の重なるような音。 バタン。 あの重い扉が開いた──途端に、ゴオオオウウッ、と、凄まじいまでの風の悲鳴が吹き込んできて、この部屋の扉まで僅かに震えた。 あたしはベッドから立ち上がり、よろめくように扉まで近づいた。 ……バタン。 強い力で、再び閉じられる扉。 紛れもなく、外から嵐がやってきたのだ。 冷たく静寂な空気を掻き乱す、嵐が。 カシャン、ビタンッ。 何かを投げ出すような音。 それから水音。 階下のエントランスホールにそれは素晴らしくよく響き渡り、扉を越えてあたしの心臓を撥ね上げる。 一呼吸追いてノブに手をかけ、さっき垣間見た薄暗い廊下に肩を突き出す。 自分の足元を見つめながら、階下へと続く一歩を踏み出した。 そこにある手すりに左手を沿わせながら、コトン──コトン、と、一歩ずつ。 かつて降りたことのある階段を降りて行く。 ──パチン。 軽い音と共に、非常灯以外何の明かりもない、真っ暗闇のエントランスホールが真昼のように明るくなった。 どこか覚えのある角度で、忘れられるものなら今すぐ忘れ去ってしまいたい人が立っている。 無造作に投げ出されたのは、見た目にも重く濡れたトレンチコートだった。 吹き込んだ雨風と服から滴り落ちる水滴で、その足元には小さな水溜まりができていた。 「お、お帰りなさい」 場違い、ではないかもしれない。 でもこの家は彼の物であり、どちらかといえば自分はほぼ不法侵入者に近いような立場ではないか。 「お帰り」なんて、あり得ない台詞。 それなのに── 「ただいま」 ……そんな、事もなげに返すなんて。 まるであの頃と変わらない調子で。 この距離、この立ち位置、この目線。 まるであの頃に巻き戻ったかのように錯覚するけれど、時間はあの人にもあたしにも平等に流れていて、 二人の距離も関係もあの頃とはまるで違うはずなのに。 「──久しぶり」 「お、久しぶり、です」 「少し痩せたか?」 「──そちらこそ」 薄い唇が皮肉っぽい角度を作り上げる。 かつて何度となく見た、その完璧な形。 既に”思い出”という言葉の下で消えていたはずの──言葉が、匂いが、色が、音が、想いが。 その微笑みに無理にこじ開けられて、引きずりだされて、あまりの痛みに無言の悲鳴を上げる。 倒れないように、しっかり手すりを掴まえる。 涙はもう出ない──そんなもの、とっくの昔に流し尽くしてしまった。 「思った以上に凄いな、大型台風二個同時に首都圏直撃。東京中が引っ掻き回されてる」 「速水さんが着いた途端に、ですよね」 「ああ、早速人を疫病神扱いね」 「そ、そんな意味じゃないです」 引っ切り無しに滴り落ちる雫を拭いながら、緩やかに濡れた前髪を掻き上げる。 その仕草も、露になった額のラインも。 何もかも、嫌になるくらい変わらない──ううん、でも少し、確かに痩せた。 それ以外はほとんど変わりのない、相変わらず嫌味ったらしい位に整った顔。 皮肉な微笑みを裏切らない、皮肉ったらしい言葉。 でも何故だろう。 最後にあなたと会った時は、お互いもっと深刻な表情で、重い想いに引き千切れそうになりながら、傷付け合うような台詞しか投げ合っていなかったはず。 でも何故、2年経った今になって。 こんなにも変わらない笑顔で、変わらない言葉で、当たり前みたいにして。 「マヤ」 低く、染み渡るような、暖かい声で。 何故、そんな風に名前を呼んでくれるんだろう──

「まるで悲鳴だな」 まるで自分の胸の内を言い当てられたかのようなその台詞に、あたしはドキリとして顔を上げた。 が、彼は目線を上にして少し懐かしそうな顔をしているだけだった。 「古いからな」 確かに、よく耳を済ませば天井や窓枠から微かに軋んだような音がする。 完全に静かだと思っていたのは気のせいだったのだ。 感覚を広げれば、誰もいない家が呼吸しているのがよくわかる。 まして主が帰って来たのだ、それは悲鳴というよりも歓迎の息吹なのかもしれない。 「腹が減らないか、ちびちゃん」 突然、ずいぶん聞くことのなかった呼び名で呼ばれて、驚くより先に子どもっぽく頬が膨らんでしまうのはどうしようもない。 「あたしは──ここに来る前に、食べてきたので」 「そうか。大体この家にも久しく誰もいないし、台所にも何も──」 「冷蔵庫、何かあると思いますよ。聖さんが……」 と、言いかけた自分の口をひっぱたきたくなったけど、もう仕方ない。 案の定、気まずい空気が二人の間に流れてゆく。 聖さんのことを話す、という事が何を意味するのか。 彼もあたしも当然、わかっている。 露呈されるのを避けつづけてきた秘密。 もうわかっているはずなのに、互いに打ち明けられない秘密。 「そうか──流石だな」 そう言って、少し溜息を漏らすと。 彼は濡れそぼった姿のまま、大股で階下のダイイングルームへと続くドアの前まで歩いた。 あたしは慌てて立ち止まったままの階段をかけ降り、その背中に声をかけた、というより。 「速水さん!」 叫んだ。 驚いたように、彼は振り返る。 「相変わらず、馬鹿みたいに背が高いんですね」 どうしたって見上げてしまうこの角度も、距離間も、もう二度とあり得ないものだと思ってた。 「君も相変わらず、ちびの上に減らず口が達者だ」 皮肉だってお互いさまでしょ。 だから──不覚にも流れてしまったこれは、涙ではなくて雨のせいにしておこう。 貴方のせいで濡れたんだと、そういうことにしておこう。 そんなわけで、あたしは咄嗟に彼の胸の中に顔を埋めた。 彼にとってはいつまでも子どもに過ぎないあたしにだって、これくらいの権利はあっていいと思った。 そして、何だかんだで優しい彼はそのままあたしを抱きしめてくれた。 ラブシーンにはまだ早いと、突き放す事もなく。 ぐしゃぐしゃに濡れた彼のシャツが、あたしのワンピースにしっとりと水気を広げてゆく。 熱く燃えるようだった頬に、腕に、冷たく凍りついたような肌の感触が心地いい。 少しだけ鳥肌を立てながら、あたしはその肌の質感を存分に感じるために瞼を閉じた。 水臭い匂いの狭間から、これまた懐かしいタバコの香りが僅かに漂った。 更に息を吸い込むと、その匂いを消すために付けていたはずの甘いコロンの名残りも。 それから徐々に、冷たさの下に覆い隠された彼の体温がじんわりと伝わってきた。 首筋に触れていた指先が、押し当てられて乱れた髪の毛を掬い上げる。 そのまま髪を引っ張られるようにして、あたしは顔を上げた。 ──ぱたり、と一筋。 彼の目尻の端に流れ落ちていった雫がまるで涙のようだと、ぼんやりと考えているうちに、唇が降りてくる。 いつも皮肉な形しか作らないはずの美しいそれは、どこもかしこも冷たく固い彼の中で一番熱く、柔らかく、真実の彼を表しているように思われた。 だからあたしはそっと受け止めた。 大事なものを、もう二度と突き放すことのないように、そっと。 web拍手 by FC2

交錯する過去と未来…というわけで、ようやく地点が「現在」に落ち着きます。
 

last updated/11/03/30

inserted by FC2 system