第13話


2年前、俺の状況は最悪だった。 コンディションも悪ければ、環境も、運命というやつも、滅茶苦茶に酷かった。 仕事だけが唯一の生き甲斐だったはずの人生は、誰かさんのお陰で根底から崩解した。 『紅天女』を射止めたマヤの輝きは圧倒的で、紫の薔薇はもうこれで最後なのだと、隣に座る白い顔をした婚約者に言われるまでもなく俺は決意していた。 もう何度となく、見守るだけの影でいようと決意したはずだった。 それなのに手を伸ばしてしまったのは、危うく彼女を潰しかけたのは。 消しても消しても燻り続ける彼女への憧憬、畏れ、嫉妬、そして──狂いかけた愛情の、俺は奴隷だったのだ。 その鎖を断ち切るには、何もかもが遅すぎた。 俺の理解不能の行動は彼女を困惑させるばかりで、まして紫の薔薇のひとであることを告白することなど、絶対にあってはならない事だった。 それは俺と彼女の中で、最後に残された聖域。 他人にどのように踏みにじられようと、彼女が「紫の薔薇のひと」に固く信頼を寄せていることは痛い程に伝わっていた。 本公演の初日を最後に、俺は人生に於ける最後の宝物を箱の底にしまい、鍵を閉めて封印した。 紫の薔薇は──彼女の思い出の中で静かに散って、やがて消えてゆく事だろう。 これから空高く羽ばたいてゆく彼女には、偽りの色よりも真実真紅の薔薇の花── いつか誰か他の男が贈るかもしれない、そんな花がよく似合うはずだから。 俺には彼女に憎まれる理由が吐いて捨てる程ある。 彼女の劇団を潰した、彼女の恩師を追い詰めた、彼女のプライドを傷つけた、彼女の行く手を阻んだ、そして彼女の── 母親を殺した。 それがいくら愛情の掛け違いによる結果だったのだとしても──何の言い訳にもなりはしない。 挙句、俺は彼女の純粋を事あるごとに踏みにじった。 最後の最後まで奪い取れなかったのは、単に臆病だったからだ。 これもまた何の言い訳にもなりはしない。 だが憎むべき男の腕の中で悶える彼女は──酷く美しかった。 腐った愛情だと事後はつくづく自分の首が締めたくなる衝動にかられたが、 それでもその残像は長く苦しい夜のただ一つの慰めとして禍々しく光り輝くのだった。 その絶え間なく続く罪悪感と嫌悪感から逃げるために、疎かにも縋ったのは酒という常套手段。 慢性的な不眠と相まって、それは元来健康だけが取り柄だった身体に深刻な影響を及ぼした。 幕が降りた後、俺は俺の婚約者にほぼ初めてまともに向き合い、彼女にとっては残酷な事実を述べた。 「そうですか」 とだけ呟いて、彼女は微笑んだ。 そして何事もなく、鷹揚と続けた。 「でも、どうしようもありませんわね。  いくら何でも、これ以上お式を先延ばしすることはできませんもの──  そうでしょう、真澄様?」 何の言葉も残っていなかった。 説得も、理解も、同情も、怒りさえも。 何の言葉も感情もない、空っぽの心。 ああ、この感覚には酷く馴染みがある──昔、冷たい海から引き上げられた時にも同じような。 あの時は怒りだけが最後の原動力で、それだけを頼りに生き延びてきたはずだが、今はそれもない。 だから、この所自分の身の回りに立ちこめていた物騒な感覚にも無頓着だった。 事実、試演前には一度襲われまでしたというのに、身を守るという感覚が全く欠如していたのだ。 最後の紫の薔薇を聖に託した帰りに、襲撃はいとも簡単にとり行われた。 それはかつて幾度もあったような脅しの類ではなく、邪魔者を再起不能にする為の徹底した攻撃。 だが俺はそれをまるで待ち望んでいたかのように黙って受け入れた。 何もかもが最悪の今の状況なら、最後の望みは案外早く叶えられそうだと思いながら──

マヤはそっと瞼を閉じたままだった。 僅かに開いた唇の端は、見間違いでなければ微笑んでいるように見えた。 まるで美しい映画の一幕、ドラマの一場面を観ているかのような── だが、相手役は不思議な事にこの俺らしい。 全く、彼女の演技には幾度となく驚かされてきたが、これはないだろう。 これではまるで──愛されていると、彼女の相手役がほぼ全て錯覚するのも無理はない。 「大人になったな──」 誰よりもそれを待ち望んでいたはずなのに、溜息混じりになってしまうのは何故だろう。 「気を抜くと誘惑されそうだ」 「誘惑?あたしが、速水さんを?」 「そう、ちびちゃんに、この俺が。」 「……違いますよ」 マヤはゆっくりと身体を離した。 ぴた、っと、服と服が張り付いて剥がれるどこか淫靡な音がする。 「誘惑してるのは、速水さんですよ。自覚してないとこが、ちょっと悪質」 マヤは小首を傾げると、肌に張り付いた俺のシャツを戯れるように摘み上げながら微笑む。 ──おいおい、どっちがだ。 「じゃあ、続けて誘惑しようかな」 「どうぞ」 「温めてくれない?手も足も冷えきって、今だって背中がゾクゾクするし」 マヤは一瞬目を瞬かせ、それからぱっと見事に頬を紅潮させた。 睨むべきか笑うべきか迷うような表情で俺を見上げ──結局、間をとって苦笑する。 ゾッとする程色気のあるその仕草に、脳髄が痺れるような快感を訴える。 ああ、彼女は本当に、見事に女になった──それもとびきり謎めいた、美しい女に。 「で──乗ってくれないのか、誘惑」 「もちろん、乗りますよ」 細い両腕が伸び、濡れて縮んだネクタイの結び目を緩めてゆく。 あれ、何だそのスムーズな動きは。 君は不器用が身上だったんじゃないのか? 解放された喉元が緊張と興奮に上下する、その音を他人のもののように聞く。 見下ろした彼女の胸元が、真白い明かりの下に煌煌と浮かび上がる。 かつて細やかに、人形のような硬質ささえ感じたそこは、ふっくらと緩やかな起伏を帯びている。 触れればさぞ熱く、柔らかく馴染むことだろう── その妄想に喚起され、記憶の底に封じ込めていた様々な断片がみるみる蘇る。 粉々に打ち砕いたはずの想いは、その長い苦しみが徒労に過ぎなかったことを嘲笑うかのように見事形となり、欲望となって彼女に雪崩れ込んでゆく。 そしてもう、マヤは目を瞑って怯えたりはしない。 静かに俺の手を取り、引き寄せると、自らの頬に押し当てた。 それに引き寄せられるように俺も額を寄せ、先ほどよりも深いキスを交わす。 ぴったりと、息の漏れる隙間もなく唇を合わせているうちに、 もしかすると俺たちは恐ろしく遠回りをして此処に辿り着いたのではないかという想いにかられて身体が震えそうになった。 おずおずと差し伸べてみた舌先は何の躊躇いもなく受け入れられ、むしろ誘われるかのように絡められて、徐々に奥へ奥へと引きずりこまれてゆく。 その陶酔から無理矢理意識を引き剥がし、俺は唐突にマヤから身体を離した。 唖然とする彼女の肩を抱いたまま、何とも間が抜けた声で俺は囁いた。 「好きだ、マヤ」 もっと効果的に、気の利いた台詞ならこれまで幾度となく、吐いて捨てるほど言ってきたのに。 真実を前にすると、いつでも俺は臆病で情けなくて、その不器用さときたら子どもよりも性質が悪い。 web拍手 by FC2

読みにくい構成でホントすみません〜;;
 

last updated/11/03/31

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