第14話


シャツを脱ぐと、マヤがはっと息を飲む音が聞こえた。 首だけ振り返ってその視線の先を認め、ああ、と眉を上げる。 2年前の襲撃はいささか過剰──というか、ここはどこの国だっけ、とその瞬間疑ってしまうようなものだったから、 俺の背中には一面に爆破の衝撃による破片痕が残っている。 「見た目程深い傷じゃなかった。それよりこっちの方が危なかったらしい。」 右腕の肘の裏側に走る白い引き攣れ。 今はほとんどその跡は見えないが、吹き飛んだガラスの破片に静脈を切った時に出来たものだ。 すぐその場に現れた聖が咄嗟にその傷が致命傷となることを悟り、適切な止血を施したのが効を奏して何とかこの命は現在に至るという訳だ。 みるみる曇ってゆく彼女の表情に、俺は極めて軽い口調で続けた。 「まあ、ゲジゲジはそう簡単には死なないから」 「そんな事──簡単に言わないで」 本当に悲しそうに、眉を歪める。 マヤは俺の右腕の古傷を食い入るように見つめ、俺はそんな彼女の睫毛の先が震える様をじっと観察している。 マヤの手がそっと伸び、傷跡に触れる。 そこから誇張抜きで、痺れるような痛みが指先まで走り抜けるのを感じた。 マヤと俺は客間のベッドの上に座り込み、視点を微妙にずらしたまま向き合っている。 此処はかつて、彼女が速水邸に滞在していた時に使用していた部屋だ。 そしてこのベッドの上で俺は何度も、彼女に”小さな死”を与え続けた。 当然、マヤがそのことを忘れているはずがない。 ──好きだ、マヤ。 俺が先ほど口走った台詞に、マヤはちょっと驚いたように目を見開いて、それからゆったりと笑った。 驚いたのでも、挑発するのでもない、それは不思議な透明感に溢れた微笑みだった。 マヤは無言のまま、俺の手を引くようにして自分が降りてきた階段を昇っていった。 まるでそうする事がごく自然なように。 俺はその華奢な背中を追って此処まで辿り着いた。 此処に来た、という事。 出会ってまだ10分足らず、その間に交わした会話、そしてキス。 これから何が始まるのかなんて、子どもじゃないんだから二人共十分心得ている。 身体はキスの続きを求めて疼いているというのに、どこから手をつけたらいいのかわからない不安にかられて、俺はなかなか身動きが取れないでいた。 何とかシャツを脱いだものの、水色のワンピースを纏った彼女の独特の雰囲気にすっかり飲まれてしまっているのだ。 かつて彼女が少女だった時にはいとも簡単にその純潔を犯すことができたというのに。 いざ大人になった彼女ときたら。 彼女の姿、表情、仕草、行動、言葉、その何もかも。 幼さを残しつつも、匂い立つような女の色気を惜しみなく発散し、その清楚さの底にほんの僅かだが蠱惑的なエッセンスを滲ませていている。 そのアンバランスさが彼女の得体の知れない魅力なのは間違いないが、それにかつて触れたように触れることで彼女がどう変化してしまうのか── 歪んでしまうのか、はたまた折れて壊れてしまうのか、俺には全く判断がつかなかった。 おかしなものだ。 あの頃、最も彼女が不安定だった頃でさえ、遠慮仮借なく触れていたのに。 小さな彼女は、どれだけ踏み躙ってもしぶとく立ち上がる強い生命力に溢れていた。 だがここにいる、成長したマヤは怖い位に繊細で、朧げで。 その芯の強いことは誰よりもよくわかっているつもりだ。 だけど今ここで完全に彼女を蹂躙した時──彼女には一体何が残るというのだろう? 少女は大人になり、夢を手に入れ、俺などが手の届かない高みに向かって大きく羽ばたいている。 そんな彼女を今更俺が抱くことに、何の意味があるというのか? そして俺は彼女の何を手に入れることができる? 「……2年前、速水さんがこの傷を負った日」 傷跡から指先が離れてゆくのを、俺はじっと見つめる。 「『紅天女』本公演の初日でしたね──貴方は、聖さんに紫の薔薇を託した」  素晴らしい『紅天女』でした。  あなたの夢を応援し続けるのは  私の冷たい人生に於ける最も幸せな夢でした。  今まで、本当にありがとう。  最後の薔薇を。  最後の想いを込めて。              速水真澄 そう、カードには記した。 よく読み返せば自分にしかわからない重たすぎる想い、未練が込められたどうしようもない言葉の羅列なのだが、 何度書き直しても納得ゆくものは書けず、結局最初に書いたそれを贈ることにした。 「あの時走って追いかければ──貴方を捕まえることができたはずなんです。  捕まえて、想いを……伝えるべきだった。  でもできなかった。もう最後なんだって言われたら、そんな事──できなかった。」 「もし追いかけて来ていたら、君まで爆破に巻き込んでいたかもしれない。それでよかったんだ」 「よくない……全然、よくない。  速水さんは全然わかってない、あたしが──あたしが、どんな想いで」 ぽろぽろと大粒の涙が彼女の頬を伝う。 「君の、想いって」 「わかってたはずです──貴方にはわかってた。わかってて薔薇を封印しましたね。  あたし……こんなの、本当に身勝手だってわかってますけど、でもあのカードをもらった時、あたし、悲しくて──  でもただ悲しいだけじゃなくて、貴方を──ちょっぴり、憎んじゃいました。もう二度と憎みたくなかったのに。  ひどいなって、こんなに好きなのわかってる癖に──  一方的に最後だなんて、酷い人だなって、憎んでしまったんです。速水さんは、何も悪くないのに」 ああ、彼女に憎まれる、ということがこれ程心地良く感じられる日がやって来るなんて。 呆れる程鈍感だった自分の頭を殴りつけたいような気分に陥りながら、それでもじわじわと沸き起こる奇妙な感覚── 名づけるなら、狂喜、に、俺は鳥肌さえ立てながらマヤの鳴き声を心地良く耳にした。多分、口元は笑っている。 マヤが目を伏せているのを幸いに、俺はそれを隠すこともなく彼女の一言一句を身に刻みつけた。 「君が”紫の薔薇のひと”を愛してるって事は知ってた──けど、  その正体が俺だと知っての上の事だったなんて……想像、できるはずないだろ?」 「な、何でですか」 しゃくりあげるのを何とか堪えようと、マヤは目の端を指先で強く擦った。 その様子が昔の彼女の面影を彷彿とさせて、またしても愛おしさに胸が潰れそうになる。 「だって、君にとって”速水真澄”は最大の敵だっただろ?  お得意の大っ嫌いに始まり、やれ触るなだの、二度と目の前に現れるなだの散々な言われようだったし。  普通、そういう言動を受けたら嫌われていると思って当然だと思わないか?」 「そ──そう、ですよね。あたしが……確かに、酷かったと思います」 「やけにしおらしいと拍子抜けするな……  それに忘れてもらっちゃ困るが、君のファーストキスを奪ったのはその憎ったらしい俺だぞ?   それだけじゃない、子どもだった君が決して人には言えないような事だって──」 「ねえ、速水さん」 はあっ、と一つ大きく息をつき、マヤはすっと顔を上げた。 少しだけ赤くなった瞳はつい一瞬前の戸惑いや悲しみを鮮やかに拭い去り、先ほどの透明な落ち着きを湛えた漆黒の湖のように凪いでいる。 その湖面に、馬鹿みたいに緊張して、その癖口元は締まりのない、酷く子どもじみた表情の男が写り込んでいるのを認めた。 「それで結局、誘惑の続きはなしですか?」 マヤの両腕がゆっくりと俺の首に廻される。 ──誰が、誰をだって? 「あなたに初めて抱かれた日から──あの夕方から、ずっと。  貴方はずっとあたしを誘惑し続けて、振り回してきたんですよ。  心の底から憎んでみても、忘れようとしても、あっという間にグラグラになる」   「違うね──先に誘惑してきたのは君だ。  勝手に俺の人生を引っ掻き回して、仮面をぶち壊しにして、どう責任取るつもりだ」 マヤの両手の指が、濡れて湿った俺の髪の中に差し入れられる。 頭皮を撫でるようにして蠢くその快さに眼を細めながら、俺も彼女の黒髪に手のひらを差し込んだ。 マヤの小さな掌がゆっくり降りてきたかと思うと、その内側でそっと俺の頬を撫でてゆく。 すぐさま返して甲で強く刷り上げるように撫で上げると同時に、熱い額がぶつかるように重ねられた。 「あたしの、全部をあげます──それで、責任とらせて下さい」 了承の印に、今夜3度目のキスを交わす。 どちらがどちらを利用しているかなんて、誘惑しているかなんて、所詮上っ面の言葉だけの事。 過去も今も変わることはない、結局のところ、俺はただこの唇に触れたかっただけなのだ。

あれ程薄暗かった部屋の冷たさが、今はまるで違って見えることにあたしは驚く。 彼は壁の照明を更に低く落としたから、枕元のヘッドランプだけに照らされた空間にはあたしの腕と彼の上半身、 それから真っ新なシーツの皺の影しかないみたいだった。 窓枠に飽くなき模様を刻みつづけているはずの雨粒さえ、全く見えない。 時は完全に閉じられたようだった。 あたしたちはただ互いを見つめ合った。 まるで鏡の中を覗き込んでいるみたいに熱心に、だけど息遣いは段々荒くなっていく。 これ程近くで、これ程長いこと、こんな表情を浮かべる速水さんを、あたしは見たことがない。 何度か抱きしめられた。 何度かキスされた。 何度か、指で触れられた。 だけど、その時はいつも互いに目隠しをしていたようなものだったから。 そんな時の彼は完璧な鉄仮面を被り、いつも以上に何の表情も浮かべなかった。 あたしを馬鹿にするでも挑発するでもない代わりに、微笑みもしなければ希望も与えてくれなかった。 まるで息をするような何気なさで、彼はあたしを取り扱った。 ”汚い大人”のする事に意味を求めるな、と無言で宣言されてしまったら。 あたしの奥に眠っていたのかもしれない恋心の欠片はみるみる萎んでしまって、 馴染んだ感情──怒りとか、戸惑いとか、いろいろ──に、身を委ねて前に進まざるを得なかった。 あれは仕方のないことだったと、今ではそう思う。 互いに酷く傷ついて、消耗して、遠回りの末に辿り着いたこの空間。 でもあれは二人にとって必要な時間、必要な儀式。 そうまでしても、あたしはこの腕の中以外の居場所を見つけられなかった。 今目の前にいる速水さんは、あの頃の速水さんによく似ているけど、全然違う。 改めて観察するまでもなく、彼は綺麗だ。 男性に「綺麗」という言葉がぴったりくるなんて、俳優さんにだってそうはいないけど、綺麗としかいいようがないから仕方ない。 その細部まで表現するにはあたしのボキャブラリーは恐ろしく貧困だからうんざりしてしまうけれど。 2年の間に鋭さを増した顎のラインは、かつての冷たい意思の塊みたいな印象を変化させていて、 それは少ししだけ女性的で、儚ささえ感じてしまうのだと言ったらこの人はまた鼻で笑うだろうか。 切れ長の瞳を縁取る睫毛のニュアンスといったら、そこだけ切り取ったら化粧品の広告写真か何かみたいに完璧で、 どこか無国籍な虹彩の色合いはどれだけ見つめても飽きない程美しい。 でも、かつてのその瞳は、確かに綺麗だけれどとても冷たくて。 何の感情もないガラス玉みたいな時だってあったのをあたしはよく覚えている。 けれど今は。 あたしの顔を小さく映し出すその琥珀の瞳には、「情熱」以外に呼び名のない感情が溢れそうな程で、 少しでもこの均衡を破ってしまったらどんな風に変化するのか、あたしは怖いような好奇心の虜となってただその表に写り込んでいるのだった。 ふと、その上にさざ波が立った。 動かなきゃいけない時が来たのを察して、あたしは曖昧に微笑んだ。 彼も微笑みを返しながら、あたしの耳の横に置いた両手の肘を屈めた。 湿った前髪が少しだけ鼻先に触れて、それがくすぐったくて眼を閉じる。 彼は微笑んだままの唇であたしの右の瞼に触れ、眉毛の上を辿って、額に顎を擦り付けた。 まるで犬か猫でも可愛がっているか、もしくは彼自身がそのもののように。 あたしは暫くの間、彼の動物じみた頬擦りと所々を啄むようなキスの嵐に翻弄された。 少しだけちりちりとするその男性の肌の異質さや匂いは、 父親もいなければ恋人らしい恋人もつくってこなかったあたしにとっては初めて食べるお菓子みたいに甘くて、不思議で、 きっと一生虜になるであろうことを直感してしまう。 いつしかあたしの手は勝手に動き、枕元に置かれた彼の大きな手の甲を探り、手首の骨の硬さを確かめながら、その上に続く筋肉の筋の上に指を這わせていた。 その指先が彼の首筋に辿り着いた瞬間、彼は一言も言わずに突然あたしの上半身を引き起こした。 目線が完全に水平に向き合った途端、それまでどちらかといえば穏やかだった心臓が再び早鐘を打ち初め、 曖昧だった微笑みは掻き消えて、あたしは子どもみたいに真っ赤になって震えた。 これではあの頃と全く変わらない──と頭の片隅で”大人”のあたしが警告していたけれど、 そう簡単にオトナなんかになれるなら、とっくにこの人との関係は別のものになっていたはずだ。 「マヤ」 上ずったような、少年のような、甘い声。 「はい」 あたしも同じく、子どもじみた自信のない声。 「マヤ」 「はい」 あらら、何だか変な感覚。 甘くもなれる、妖しくもなれる、笑うことだってできる、変幻自在なその瞳にあたしは心地良く踊らされる。 「変なの、何ですか、速水さん」 「別に。何となく、名前が呼びたくなった」 そしてまた。 マヤ──と、穏やかに、軽く、甘く響く声。 あたしの名前、こんな風に発音するんだ──と、初めて知ったような不思議な感覚。 背中に回された掌が何かしている。 子どもが悪戯するみたいなその仕草に、あたしの緊張はゆるゆる解けてゆく。 肩甲骨の下でファスナーが布を噛んだような抵抗があって、速水さんはその長い指先を駆使して元に戻そうとし始めた。 が、イライラしたのか途中で手を止めたかと思うと。 「マヤ、万歳」 「え?」 「服を引きちぎられたくなかったら、手を挙げろ」 その言い方がまるで芝居じみた台詞回しで、あたしは笑い声さえあげながら言われたとおりに両腕を挙げた。 そしてすっかり脱がされてしまった瞬間。 いつの間にか戻ってきたあの情熱の真っ只中にいることを悟ってしまい、身を強張らせてしまったけれど、もう後戻りはできない。 web拍手 by FC2

一瞬に何文字費やすんだ、挿入はまだなのか。…ええ、まだなのです(笑)
 

last updated/11/04/01

inserted by FC2 system