第16話


ツン、と鼻を突くのは金木犀の香り。 もうそろそろ散ってしまうのだろう、最後のその匂いの元を探すべく眼を泳がせながら、でも早足であたしは歩く。 水曜の夕方。 待ち行く人の顔は白っぽく、下を向きがちだ。 通いなれたその道を、気まぐれに一本ずらして左折する。 国立新美術館の方向へ伸びる脇道には鬱蒼と茂った木々の織りなす影が続いている。 あたしはこんな感じの六本木の裏通りがお気に入りで、他に幾つも秘密の散歩コースを持っている。 多分、こんな所から歩いてそっちに向かってるなんて事をあの人が知ったら。 きっと怒るか、呆れるか。 「何を考えてるんだ」 「少しは自分の立場を考えろ」 ってね。 でも、きっと遅刻はしないから大丈夫。 何気ない顔して、いつものようにノックする。 ノックするだけ大人になったか、なんてあの人は笑うかもしれない。 その笑みを引っ張りだしてやることを企みながら歩くのは、非常に楽しい。 でもあの人はいつだってそんなあたしの斜め上から突然現れるのだ。 「つ、付けてた?」 「まさか。運命的な偶然ってやつじゃない」 「嘘。もう、ほんと油断ならないですね」 「君の考えてる事は大抵わかるからな。  大都に行くルートから予測される寄り道コースの一本を辿ってみたら、偶然君が現れたと」 「絶対信じない。怪しいな」 想定外だったけど、でも目的は達成できたかも。 皮肉っぽい微笑みがだんだん崩れてきて、最近ようやく見慣れてきた、子どもっぽい笑顔が現れる。 いつもながら、その変貌の鮮やかさにははっとさせられてしまう。 そして体温が確実に1度は上がる。 抑えられない動悸は、坂道を歩いているせいにしてしまおう。 ああ、それなのにいきなり手を繋いだりしないで。 「何緊張してる」 「しますよ、そりゃ。い、いいんですか、誰かに見つかったりしたら」 「何のための裏道だ。それに誰がいちいちそんな事気にする。」 気にしますよ、あたしが。 他、いろいろ、多分、きっと。 彼の大きな一歩に合わせて歩くのは結構大変だ。 気づいているくせに合わせてくれない所が、今日の悪戯の一つに間違いない。 早足で駆け抜けてゆくビルとビルの狭間。 そこから時々顔を覗かせる猫。 ガーデニングに気合を入れている古い住宅。 夕暮れの光に映し出される、初めて見るはずなのに懐かしい光景の断片。 もっとゆっくり味わいながら行くつもりだったのに、風のように通りすぎて行くなんて。 「も、う、速水さん。ストップ、歩くの早い、疲れた!」 「だから歩いて行くなんて無謀なんだよ、この調子じゃあと20分はかかるぞ」 「約束ではあと1時間はあるじゃないですか。何でそんなに急がなきゃいけないんですか?」 「1時間も俺を待たすつもりだったのか、君は」 だから、約束ではって言ってるのに。無茶苦茶だ。 最近のこの人の超自己中心的我侭は、むしろお子様のそれに近い。 ──と。 急に、ぱっと周囲が黄金色に包まれ、二人して言葉を失った。 ゆるゆると目の前に伸びる粗い舗装のアスファルトいっぱいに広がる、混じりっけなしの黄金。 振り仰ぐと、薄く棚引く雲の切れ間から、大きな夕日が完全に姿を表していた。 ビルの狭間に丁度収まるような姿で、まるであたしたちだけを突き刺すような強烈な光。 眩しくて眼を細めると、斜め上の速水さんも同じようにしていた。 ただでさえ色素の薄いその髪が光を通して白く輝く様は、あたしが言うのも何だけどまるで映画の一場面みたいに完璧で、美しいと、素直に思った。 繋いだ手のひらから、確実に伝わってくるものがあった。 今、絶対同じ事を考えている。 だから先に口を開いた。 「今はね、速水さん。北島マヤに戻っても、怖くないですよ」 あの日、同じように夕日に包まれながら震えていた幼い私の残像が過る。 あの頃のことは細かいところまでよく覚えている──忘れられるはずがない。 「生きてるって感じ、です。今、この瞬間」 「そうだな──」 じっとあたしを見つめる眼が、もの凄く優しくなった。 夕日と同じ、深い琥珀色の虹彩、その粒の中にあたしは甘く漂った。 少しだけ切なさを含んだ、秋の空のようなその優しさは、何故かあたしを泣きたくて堪らなくさせる。 「ねえ、速水さん──あの夜、覚えてますか。  あたしが公衆電話から電話して、切ってしまって──結局、あなたに拾われた時」 「勿論。君は里美との交際を報告しようとして──」 ズキズキと。 同じように痛んでるでしょ、今、その心臓が。 嫌なことを思い出させてしまってごめんね。 でも、今告げないと駄目なような気がするから。 「あの時──あたしの部屋の壁に書いてあった言葉も、覚えてますか」 「……ああ。結局、あの件の犯人だけは見つからなくて、君には──」 「あれね、書いたのあたしなんです」 「え──?」 ぎゅっと手に力を込める。 あの頃のことを思い出して、言葉にするのはいつだって非常な労力を要する。 でも、今なら。 彼に手を繋いでもらってる今なら言える。 「あの頃、あたしとても不安定で。お芝居してる時はそれしか考えられなくて、沙都子でいる間は本当に幸せでした── でも、周囲の環境はそれまでと全然違って、慣れるしかなかったけど、とても疲れてた。」 貴方が、一番わかってるよね。 握り締めた手のひらに、それ以上の力が返ってくる。 痛みに、同じように貴方も耐えている。 「母さんのことはずっと気にしてた、けどそれだけで。  結局、母さんのこと探してくれてたのは速水さんだけだったんです。  そんな事も知らないで、あたしはただいつか会えるはずって、曖昧に先延ばしするだけで。  目の前の現実に対応するだけでいっぱいいっぱいでした。  でも夜になると──心の中で、もう一人のあたしがね……何て都合のいい事言ってるんだって、責めてくるようなったんです。 結局、母さんを捨てて好き放題にやってるのはあたしの我侭で、お芝居のために周りを振り回しても、傷つけても、平気な顔してるのは自分じゃないかって」 「マヤ──それは違う、君は、何も。  君のお母さんを、殺したのは──」 「結果的には、あなたのした事が不幸に働いてしまったんだと、それは思います。  でも本当は違う──母さんの事を忘れていた、あたしの罪だって大きい。  母さんの死をあなた一人に押し付けるのは、とっても都合がよかった。  あなた一人を”汚い大人”にして、利用して、あたしは前に進んできたんです。」 ふっと、世界を覆っていた黄金色が消えた。 太陽を全て覆い隠して、彼はあたしを抱き締めた。 痛い、痛い、お互いの傷口を抉り合うのは本当に、酷く痛い。 だからもっと抱き締めて欲しい。 余計な嗚咽が零れないように。 伝えなければいけない真実だけが伝わるように。 「速水さん──大人よりも、時々子どもは残酷なんですよ。狡くて、無自覚で。  あなたは、そんなあたしをいつだってこうして包み込んでくれた」 「……そんな風に、きれいに受けとるな。  俺は君よりもっと狡猾で、はっきり自覚してただけ酷かった」 「じゃあ、おあいこですね──」 大きく深呼吸をして、あたしはそっと速水さんから身体を離した。 あたしの腕を掴んだまま、きっと彼も苦しい顔でいるに違いないと顔を上げた。 その顔に微笑みを返さなければ、と。 ──ああ、だけど振り仰いだそこにあったのは。 信じられない、泣かせてしまったなんて、あたしが、彼を。 真実のこの人はとても純真で、時々もの凄く脆いのだと、あたしはその瞬間に思い知らされた。 「速水さん──」 本当に、あなたの言う通り、言葉は不完全だ。 だから早口に呟いた。 「キス、して。はやく、今すぐ、して。」 互いに救いを求めるようにして交わすそれは、とてもしょっぱくて、苦くて、甘い。 欠けた何かを埋め合わせる代わりに、新しいものを創り出すようなこの感覚を、時間を、あたしは心から愛する。 いつ果てるともなく傷つけ合いながら、それでもあたし達は強く、しなやかに、未来へと手探りで進んで行くのだ。 END. web拍手 by FC2

あああ ノクターンが流れて「はよでてってねw」っと図書館に言われてます。『ジュテーム〜』もあと9分で開演です。
         何かミスあるかも。後ほど訂正します。ってなわけで最終話でした!!長文乱文ご拝読ありがとうございます^^  

last updated/11/04/02

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