第2話


「それで?」  あくまで何事もないように吐き捨てる。 隣の少女の顔が緊張を通り越して蒼白になってきていることに気づきながら。  「──それで、って……だから」 「返事はしたのか?」 「──は、い。その……付き合う、ことになりました。」 「じゃあ今更俺に何の相談だ」   「だって──速水さん、事務所の社長さんだし……  こういうのって、商品としては勝手に決めちゃったりしたらマズイんだろうなって」 「勝手に決めてくれた後でよく言うな」 俺はここでようやく、自分が苛立っていることを自覚した。 冷たい台詞を吐けば吐く程、やけに落ち着いた台詞を口にするマヤに対して。 そして勿論、本音を吐けない自分に対しても。 「今時アイドルの恋愛ゴシップなんて、よっぽどでもなければ歓迎されるくらいだ。  まして君は舞台出身の女優だし、露出だってまだこれから──彼を利用して名を売るくらいの心構えはできてるのか?」 時々自分の声が他人のように聞こえる時があるが、その時がまさにそれだった。 もう一人の自分が冷めた目で俺を見る。 お前はどこまで自分を誤魔化するもりなんだ──卑怯者が。 「……速水さん。オトナの世界ってやつに、あたしを巻き込むのはやめて下さい」 「何だと」 静かに、だが確固とした口調で応えるマヤを、俺は思わず凝視した。 車は無意識のうちにマヤの部屋へと──大都のマンションへと向かう途中のようだった。 まだ理性の欠片程度は脳味噌のどこかに残っているらしい。 対向車線から流れてくる閃光が俯くマヤの顔を白く浮かび上がらせる。 「あたし、里美君の事が好きです。一緒にいるとあったかい気持ちになれるし、安心するんです。  付き合ってどうしたいとか、どうなりたいとか考えてるわけじゃありません。  名前を売るとか──そんな風に取り上げられたくないんです。それをお願いしにきたんです」 好き、という言葉がその唇から零れた途端、 自分に向かって差し出された言葉ではないとわかっていながら胸が締め付けられるような気持ちになってしまうのはどうしようもなかった。 芝居に賭ける情熱と同じように、不器用に、だが真摯に俺に立ち向かってくる言葉は紛れもなく俺の心を揺さぶった。 まるで子供じみたその主張は、いっそ清々しい程の健気さに溢れている。 だが、そうした感動と全く同時に沸き起こるのは、どうしても嫉妬としか名付けられない感情。 嫉妬──どうして? 11も年下のちっぽけな少女に、俺が何故嫉妬しなければならないのか? その理由について深く考えてみる余裕は、その時はなかった。 ただ、苛立ちのままに車を止め、氷の仮面を被って呟いた。 「好むと好まざるとに関わらず、君が今いるのは汚い大人の世界だ。  里美と付き合いたいなら付き合うがいい。ただ、どのように世間が捉えるかまでは知らんぞ」 マヤは小さく息を呑んだ。 今頃自分の立場に気づいたという訳か。 それでも、少なくとも今の言葉に偽りはない。 今までと180度違う世界に身を置き、必死で虹の迷宮を生きる少女の孤独は、俺などが察する以上のものがあるだろう。 表立って支えてやれない以上、里見のような存在も必要なのかもしれない。 だが── 「だが、君は大都の大事な商品で、金の卵かもしれない女優だ。  その価値がある間は、それ相応の待遇を用意してやろう」 「どういう──意味ですか」 「こういう意味だ」 言うなり、半身を傾けて彼女に口付けた。 相変わらず小さな彼女はそれだけで俺の身体の下にすっぽりと収まり、隠れてしまう。 このまま世間から彼女を隠し通してしまいたい欲望を軽くいなしながら。 重ねた唇を、ゆっくりと離した。 瞬間、淑女の一撃を片頬に喰らう。 俺はむしろ微笑みながら、彼女を見つめた。 「な、な、何で──何で、こうゆうことするんですか?」 みるみるうちに黒い瞳に大粒の涙が浮かぶ。 怒りと羞恥、何よりも困惑で真っ赤に上気した頬の、柔らかな産毛の毛先まで震えている様だ。 「こっ──この間も……何で、速水さん──あたしに触るんですか?  あ、あたしの事嫌いだからって──あんな風に……して、たっ、楽しいんですか!?」 俺に触られるのはそんなに嫌か。そうだろうな。 嫌いだから? ──違う、忌々しくなる程嫉ましいから、だ。多分。 楽しいか、と言われたら……ちょっと違うかもしれない。 不毛なことだとわかっていながらそれでも手を伸ばしてしまうこの感情に付ける名前を、俺はまだ知りたくはないのだ。 例え水城がそれを”愛”などと勝手に名付けたとしても。 「汚い世界で生き延びるにはそれなりの力が必要だ、ちびちゃん。  里美茂ならあの明るい力で君を勇気づけ、守ってくれるのかもしれない。  が、汚い大人なりのやり方でしか守れないものもある──今のは契約書だ」 「契約書?」 「そうだ。君は大都の速水真澄をキス一つで買ったんだと思え。」 「は?」 「君の周りで不審な動きがあるそうだな。自覚してるんだろう?  楽屋への嫌がらせや撮影妨害の数々──ガラス片で口を切ったと聞いた時はゾッとしたぞ」 急に話の矛先が変わって狼狽するマヤに畳み掛ける。 「大体、こんな時間にどうやって会社まで来た?」 「スタジオから直接──11時に撮影が終わって、スタッフの永井さんが大都の近くに用があるって言うんで……乗せてもらって来ました」 水城の管理をもっと厳しくするよう伝えなければ、と瞬時に考える。 彼女には今マヤの専属マネージャーと大都の秘書としての仕事を掛け持ちで働いてもらっている。 マヤに比重を置いた動きとはいえ、全てに目が届くという訳ではないだろう。 「馬鹿だな、君は。何故そう簡単に人を信用する?特にこんな時期に──もっと身の安全を考えろ。  少なくとも大河の撮影が終わるまでは、スタジオと部屋、学校への送り迎え、その他オフで行動する時は常に。  水城君か俺が直接付いていない限りは絶対に一人で行動するな」 「は──はああ?なんで?どうしてそこまで大都に管理されなきゃいけないんですか!?」 「同じことを繰り返し言わせるな」 泣くのも忘れたかのように唖然とするマヤを一瞥し、再び車を走らせた。 彼女の為に用意したマンションまで、ほんの5分とかからずに着けるだろう。 そのまま玄関フロアに置いて帰るか、大事をとって部屋のドアまで送り届けるか── 軽く思案しながら、後者の場合彼女の”身の安全”はほぼ保証されないであろうことに気づいて苦笑する。 全く、無自覚な無垢程たちの悪いものはない。 相変わらず、掌を小さな膝の上で所在なげに動かすマヤ。 軽く握っただけで手折っていまいそうなほどにか細い、手首の裏に浮かんだ血管の青白さ。 ほっそりとした首の付け根に浮かぶ鎖骨の凹み。 あの日、俺の手の中で生まれて初めての感覚に慄き、切ない悲鳴を上げた赤い唇── 彼女の持つ、ほんのささやかな少女としての性が、11も年の離れた俺の身体の奥をじくじくと刺激し、妖しく蝕んでゆく。 web拍手 by FC2

last updated/11/03/01

inserted by FC2 system