第3話


それからマンションに着くまでの、ほんの僅かの間。 気まずさと困惑に満ちた、なかなか居心地の悪い時間を乗り越え、車はマヤの現在の住まいであるマンションの前へと静かに止まった。 ちらりと覗いた腕時計は、あと数十秒で午前1時を指そうとしている。 停車した途端、シートベルトを外して一目散にドアを開けて出ていこうとする気配を感じ、先にその動きを封じ込める。 ドアを開けようと四苦八苦しているマヤを尻目に、俺は悠々と運転席を降りると反対側からドアを開いた。 「送っていただいて有難うございます!じゃあおやすみなさいっ」 エントランスのドアに駆け込もうとする彼女の二の腕を掴んで、そのまま引きずるように進む。 「な、何するんですか!?」 「ついでだ。部屋まで送ろう」 「や……結構です!」 「安心しろ。キス以上の事は何もしない」 「──!」 瞬時に真っ赤になるのを無視して、さっさとオートロックを解除する。 何か喚いて抵抗しようとする彼女を静かにさせようと身を屈めた時、ふいにエントランスの内側にある住人用の郵便受けが視野に入った。 「──4032号室、あれ、君の部屋じゃないか?」 「え、あ、はい──」 部屋番号だけが記された銀色の箱がズラリと並び、内側からロックを解除しないと開かないようになっている郵便受け。 その番号の取り出し口から、何か飛び出している。 「……」 嫌な予感がして、マヤを背にするようにしてそれに近づく── 途端に、その正体が察知でき、俺は慌てて身体を反転させて両腕を開いた。 「まずい、見るな」 「え?」 「……最悪だな。事によると部屋も危ないぞ」 「な、何ですか──郵便受けに何が……」 背伸びして向こう側を伺おうとする彼女の視界を邪魔しつつ、すぐさま脇のエレベーターの上昇ボタンを押す。 「ちょっと、速水さん──わけわかんない!」   膨れる彼女を余所に、俺はここ最近報告された彼女への数々の妨害工作とその背景について思考を張り巡らせていた。 一体誰があんな事を──? 郵便受けに猫の死骸を放り込む程の気違いじみた悪意を、誰がマヤに差し向けるというんだ──!? 嫌な予感はどんどん膨らんでゆく。 四階にたどり着き、突き当たりの彼女の部屋へとまっすぐ進んだ。 ドアは普通の電子キーになっており、マヤを促して渋々カバンの中から鍵を取り出させる。 それを彼女の掌から奪い取り、鍵穴に差し込んだ。 小さな機械音と共にロックが外れる音が聞こえる。 「速水さん、部屋の前までって約束──」 慌てる彼女の声を尻目に、壁に手を這わせてそこにあるであろう電気のスイッチを探した。 真っ暗な視界が瞬時に白く開ける。 目の前に伸びるクリーム色のフローリングの廊下── その右手に、バスルームとトイレとおぼしき扉がある。その先に1フロアの間取り、他に部屋はないはずだ。人の気配はない。 「──一応、念のためだ。中を確認してこい。これ以上中には入らないから」 「何──何か、あるんですか?」 「あるかもしれない、からだ。何なら俺が見てやろうか」 「い、いいです。もう──何なんですか、ほんとに」 マヤは慌てて靴を脱ぐと、ちらちらと玄関先に佇む俺を振り返りながら中に入った。 パチン、と再び奥の部屋の電気のつく音。 白いワンピース姿のマヤの背中は数メートル先にある。 「……何か変わった様子はないか?」 「別に。朝出た時と変わり──」 こちらを振り返りながら呟きかけた言葉が途中で途絶える。 不安にかられた俺は靴を脱ぐのも覚束ぬまま、慌てて大股で中に入った。 数歩で彼女の背中に追いつき、そして視界に入った忌々しい光景── その部屋は少女が住むにはあまりにも広く、殺風景だった。 元々持ち物の少ない彼女だったし、テレビの撮影現場と学校とを往復するだけ、 場合によってはスタジオで寝泊まりすることも多い彼女にとって、住むというよりは眠るための部屋としてしか機能していないのかもしれない。 が、その部屋は確かに彼女の気配がしたし、彼女の匂いがした。 その部屋の壁──片隅に白いチェストボードしか置かれていない壁一面に、仰々しい赤で殴り書かれたもの── 滅多な事では動揺しないはずの俺の背中に、冷たいものが走るのを感じる。 言葉は時に鋭い凶器となって人の心に深手を追わせる。 相手がわかれば、まだ受け止めようのあるそれは。 正体のわからない、何者かによる悪意の塊の場合、対応するのはかなり厄介だ。 わかりやすい罵りの言葉ならまだよかったのかもしれない。 だが、そこに書かれていたのは── 『わたし 北島マヤは ははおやをりようして すきかってに いきている わるいこです』 web拍手 by FC2

last updated/11/03/02

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