第4話


彼女は震えてはいなかった。 ただ人形のように硬直し、目を見開いて、立ち竦んでいた。 僅かに開いた唇からはひゅっ、と息を呑むような音がした。 間抜けな俺はそこでようやく、何かしなければいけないことに気がついた。  「マヤ──マヤ、おい、しっかりしろ」 そっと腕に手をかける。 先ほどまで泣いたり怒ったりして感情を露にしていた彼女が、今は冷たく青ざめて息をするのもやっとの姿で立ち竦んでいる。 「マヤ。出よう──もうこの部屋は駄目だ」 何となく、ただの直感だが── 郵便受けの猫と、この壁の殴り書きの悪意は別のもののような気がした。 猫の方がまだわかりやすい──だがこれは。 単純なこの言葉の方に、何倍もの悪意と嫌悪を感じる。 「あ──あ、あ、あたし、あたし──母さんのこと……」 視点は壁の文字に釘付けのまま。 マヤのか細い指が俺のスーツの袖を強く握り締めていた。 彼女の方から俺に触れることなどほとんどない事だというのに。 ただそこにある支えとして掴んだだけにすぎないのだろうが、それでも俺に触れていることは事実だった。 だが妙に上ずったその声がたちまちのうちに俺を不安の底に叩き落とす。 「マヤ。君の母親は確かに行方不明だが──今、必死で探させている。  ここは日本だぞ?必ず見つかるし、会える。大丈夫だ」 「り、利用して、利用してなんかい──いない、あたし、母さんを──」 「わかってる。マヤ、これは君を動揺させるための悪戯だ。事実じゃない」 そうとも。 利用しているのは他でもない、この俺だ。 彼女の売り出しの為に、この間部下によって発見された彼女の母親を長野の病院で軟禁するよう命じたのは俺なのだから、これは彼女に向かうべき非難ではない。 「嫌──いや、あたし、嫌だ──こんな所いたくない、嫌、いや、いや!!」 感受性が強く内気だが、芯は驚く程強く、この俺に対しても決して物怖じしないマヤ。 が、そんな彼女の内に潜む繊細で危うい部分──その表層に触れたような気がした。 涙を流して怒ってくれた方がまだいい。 泣きもせず、真っ白な顔で口元を歪ませ、小さく呟くだけの彼女には、今にも別の世界に転げ落ちてしまいそうな危うさがあった。 こんな所、というのが部屋を指すのか、それとも暗く淀んだ芸能界の裏社会を指すのか。 どちらにせよ、これ以上ここに彼女を置いておく訳にはいかない。 彼女の肩を抱え込むようにして、再び部屋を出る。 できることなら抱えて連れていきたかったが、どこで見張っているかもしれない正体の見えない敵に少しでも隙を与えるわけにはいかなかった。 俺は、この俺こそは、どんな汚い相手よりもさらにどす黒く、狡猾であらねばならないのかもしれない。さっきの自分の言葉ではないが。 すっかり勢いをなくしてしまったマヤを助手席に押し込めながら、沸々と怒りが胸に広がってゆくのを感じた。 マヤを阻む者、傷つける者は誰であろうと容赦はしない── それができるのは、俺だけでなければならないのだ。 すすり泣きだけが響いていたのが、ふいにその音が途絶えたことに気がつく。 そっと隣を伺うと、あまりにもいろいろな事があって疲れ果てたのだろう、マヤはぐったりとシートに背をもたげ、頭を僅かにこちらに傾けて目を瞑っていた。 思案した結果、屋敷に連れ帰ってちょっとした騒ぎに巻き込むよりも、会社の近くにあるプライベートマンションに連れてゆくのが最善だと判断する。 勿論、最初からその思惑がなかったとは言わないが、最早事情が異なる。 明日の撮影に差し障りのないように、何よりもあの悪夢のような出来事を一瞬でも忘れることのできるように、今夜はこのまま静かに眠ってもらわなくては。 小さな声で名前を呼んでみて、起きる気配のないのを確認すると、すぐさま携帯で聖に連絡する。 これまでのマヤへの妨害工作と今日の悪質な嫌がらせとの関連性を紐解き、 一刻も早く黒幕を暴き出さねばならない、と手短に報告すると、聖はいつもの冷静で穏やかな声で了承した。 水城には明日改めてこの経緯を伝えよう。 今夜のマヤの寝泊まり先にまで話が及ぶのは避けたかった。

午前1時45分。 久々に訪れたマンションの地下駐車場に滑り込む。 何度となくバックミラーを確認しながら来たが、特に誰かにつけられているとも思えなかった。 なるべく音を立てぬよう、細心の注意を払ってマヤを抱き上げる。 いかにも軽く、子供のように華奢な骨格が自分の腕の中にあるのは不思議な感覚だった。 胸にかかる黒髪の匂いも、明らかに少女じみた甘酸っぱさを放っている。 その気になれば、いとも簡単に自分の身の内にある情欲の琴線を呼び起こすことができそうだった。 そう、あの夕方のように。 だが奇妙な事に、今すぐあの時の陶酔に浸りたい気分と、年の離れた兄か父親のような気持ちで見守りたいという庇護欲は今のところ矛盾なく共存しているのだ。 そして芝居に捧げる情熱を目の当たりにした時には恐れにも似た感動に打ちのめされる。 全く、君という子は不思議な子だ──マヤ。 ──それにしても、何故今夜一人で大都にやって来たのだろうか。 相談、といってもあの位の事、水城への伝言で構わないのではないか? 大切な事だからこそ俺に直接訴えたかったのだとしても。 「あれ以来」、俺のことは”大嫌い”を通り越して恐怖の対象になっているのは間違いないだろうと思い、できる限りマヤとの接触は避けていた。 テレビ画面を通して見る彼女は、今夜のような嫌がらせを受けているとは微塵も感じさせず、常に明るく光輝いていた。 プロとして、見事なものだと内心舌を巻く程に。 そんな彼女に俺は決して触れてはいけないやり方で触れてしまった── 普通の少女ならば、この異常な環境であんな体験をしてしまった後には、精神的にもっと不安定になりそうなものではないか? それとも、俺が思っていた以上に彼女は変わっていて── ああした経験が女としての自分にどのように影響するのか(あるいはすべきか)について無頓着なのだろうか。 あるいはショックが大きすぎて記憶を封印したとか──いや、それは違う。 今夜の出会いから今までの会話と態度を思い起こしてみれば、彼女があの夜の事をしっかり覚えているのは明白だ。 では彼女は一体何を考えて── 悶々と思いを巡らせているうちに、いつの間にか部屋の前へと続く廊下を歩いているのに気づく。 この階と、一つ下の階のフロアは全て大都で貸し切っている上、エレベーターは指定の階にしか着かないようになっている。 セキュリティの面でいえばマヤのマンションよりずっと安全だろう。 一応オートロックのあのマンションの、部屋の内部にまで侵入されているならば盗聴等の心配もしなければならない。 明日中にマヤの荷物を点検し、この部屋に運び込ませるよう手配しなければ。 マヤを起こさないよう、そっと身体を折り曲げて生体認証キーを解除する。 鍵の開いた音を確認して中に入ると、相変わらず人の住む気配のない真新しい部屋の匂いが暗闇の中で待ち受けていた。 バタン、と扉が閉まり、キーのかかる低い音を背中に聞く。 淡い橙色に統一された間接照明に浮かび上がる、マヤの部屋以上に殺風景な内部。 なにしろこの部屋には寝具と必要最小限の生活必需品しか揃えていない。 確か、最後に泊まったのは2週間程前だった。 冷蔵庫の中には水と氷くらいしかないはずだ。 リビングを抜け、奥のベッドルームへと進む。 さすがに間接照明は具合が悪いような気がしたので、白く明るい光の中で彼女をそっとベッドの上に横たえた。 僅かにきしんだスプリングの音と共に、マヤは眠りの底から低い呻き声を上げる。 少し考えて、結局彼女の服を着替えさせようとする試みは諦めることにした。 これ以上、彼女を余計な混乱に巻き込むのは望まなかった。 「おやすみ──マヤ」 聞こえていないはずの彼女に、精一杯の優しさを込めて囁く。 目が覚めれば再び戦場のような世界が待っている。 それまで、俺の目の届く場所で、その吐息の感じられる近さで── せめて夢の中で、彼女が一時の安らぎを得てくれますように。 祈りを捧げた事などほんの幼い頃以来ないことだったが、心から、そう祈った。 web拍手 by FC2

last updated/11/03/03

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